お江戸のギャンブル事情 庶民が熱狂した丁半から武士の禁断の賭けまで
- 2026/05/21
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江戸時代、幕府公認のギャンブルは寺社が主催する「御免富(富くじ)」だけでしたが、実際には空前の賭け事ブームが起きていました。
囲碁・将棋・双六……賭けの種はどこにでも
賭けようと思えば、何でも賭けの種になります。「次に来る車のナンバーは奇数か偶数か」
「改札口から最初に出てくるのは男か女か」
などなど。現代の遊び心と、江戸の人々の精神は通じていました。
賭け事が盛んだった江戸時代、武士の間で流行したのが囲碁や将棋、双六(すごろく)などゲームの勝敗を競う賭けでした。しかし幕府や藩はこれを禁止します。賭け事にトラブルは付き物で、武士の場合は刃傷沙汰に発展しかねませんし、幕府や藩は喧嘩両成敗の方針でしたから両者を罰せねばなりません。また、勤勉と節約を重視する儒教的道徳観にも反します。
藩士が揉め事を起こせば幕府に藩政へ介入の口実を与えるので、藩はついには賭け事の種になる囲碁や将棋そのものを禁止したりしました。違反者には遠島や追放、時には死罪という厳罰が下されましたが、それでも賭博の根を絶やすことはできませんでした。
庶民を虜にした「丁半」や「花札」
日本の賭け事の原点は双六だと言います。双六はインド発祥で中国を経て日本へ伝わりました。双六には二人で対戦する「盤双六」と、何人かで競う「絵双六」があり、賽子(サイコロ)を振って出た目の数だけ盤上の駒を進める「盤双六」は、平安時代に貴族の間で盛んに遊ばれました。平安貴族たちは賭け物も優雅で、衣装や装身具、お香、筆や紙、時には負けた方が舞を舞ったり歌を詠んだり罰杯を干したりします。ルールの習得が必要な囲碁や将棋と違い、賽子の出目一つで決まる双六は、誰にでも行えます。この運任せが賭け事と親和性が良く、ダイレクトに賽子の目の数を充てる賽子賭博が生まれます。
賽子1個を使うのは「ちょぼいち」、2個だと「丁半」、3個だと「キツネ」あるいは「ヨイド」、4個だと「チイッパ」、5個だと「天災」と呼ばれます。よく行われるのは賽子の目の合計が偶数(丁)か奇数(半)かを当てる「丁半」です。「チンチロリン」は賽子を3個使い、出目の組み合わせで勝負します。「シッピン」は賽子の目で4と1が出ることを当てる単純な賭けです。このように賽子賭博は多様な形式が誕生しました。
さらにコオロギやキリギリスを戦わせる「虫相撲」や、鶏を戦わせる「闘鶏」、犬を戦わせる「闘犬」なども賭けの対象です。銭を投げて裏表を当てる「銭投げ」、手に握った石の数を当てる「石合わせ」、翌日の天気に賭ける「天気賭け」など、日常のあらゆる場面が賭けの対象になりました。
また、かるたを使った賭博は、戦国時代にポルトガルから伝わった「天正かるた」に始まりますが、南蛮渡りの物珍しさが人気を呼びます。江戸前期には「天正かるた」を元に「うんすんかるた」が考え出され、江戸中期には「花札」も登場し、「おいちょかぶ」や「こいこい」などの賭け事に使われました。
客側の罰は案外軽かった?
賭け事は江戸の町人文化と密接に関わっており、落語や歌舞伎の題材にもなりました。落語だと、幇間の久蔵が買った富くじを火事で焼いてしまい落ち込むが、実は預かってくれていた人間がおり・・・との『富久(とみきゅう)』や、大金持ちだと偽って宿屋に居座る男が宿の亭主に勧められて買った富くじが大当たりで・・・との『宿屋の富』のお話。歌舞伎だと、博徒・侠客の世界を背景にした『幡随院長兵衛』や『夏祭浪花鑑』など、多くの名作を生みました。
また、賭場は江戸の庶民社会における社交の場であり、商売の情報交換の場としても機能しており、庶民の生活と切っても切れないものになっていました。当然、幕府は取り締まりますが、時代によってその厳しさは変動しました。
賭場開帳者(胴元)は厳しく罰せられ、小さな賭場の場合は入墨や追放刑で済みましたが、中規模の賭場では流罪・遠島、大規模な賭場を続けて開帳した場合は死罪に処されました。そのため、寺社や旗本の屋敷など、町奉行所が簡単に踏み込めない場所が賭場に利用されることもありました。
対して、客側の罰は比較的寛大でした。常習者は入墨・追放・家財没収となりますが、たまたま居合わせた者なら罰金や百叩き、「覗いただけ」という言い訳が通れば手鎖(謹慎)程度で済むことも多かったようです。
戦国時代は賭け事の花盛り
実は江戸時代よりも賭け事が盛んだったのが戦国時代です。合戦の最中でも武士も雑兵も足軽も競って賭けまくります。長期の籠城戦や対陣中の退屈しのぎに、夜間の見張り番の合間や戦闘の合間の一休みの間にも盛んに行われました。軍神と言われた、あの上杉謙信も、酒と賭け事には目が無かったようです。賭けの対象も賽子の目の丁半を当てるような可愛いものではなく、奪った首級の数や捕虜の数を予想して賭けることもありました。「明日の一番槍は誰がつけるか」「敵の城はいつ落ちるか」一騎討ちを見物しながら「どちらが勝つか」などの他、果てには「この戦はどちらが勝つか」なども賭けの対象になります。かならずしも味方有利に賭けないのが恐ろしい所です。どちらの軍が勝つかは特に「戦博打」と呼ばれ、大金が動きます。
戦国の世は江戸時代のように統一的な規制がなかったため、賭け事はより野放図に広がりました。明日をも知れぬ命の恐怖を、勝負の熱狂で紛らわせていたのかもしれません。
江戸幕府を開いた徳川家康は賭け事を禁止しています。前半生を戦国時代に生きた家康は、賭け事の負の面をつぶさに見て来ました。大名の決まりを定めた『武家諸法度』でも賭け事は禁止とされています。そして家康を信奉していた八代将軍・徳川吉宗も『公事方御定書』において賭け事を行った者に対する厳しい処罰を定めています。
遠山の金さんは「話せる男」だった
このように幕府は金銭が絡む賭け事禁止に必死でしたが、根絶することはできませんでした。余りに手を染めるものが多く、とても奉行所の役人だけでは取り締まれません。かの杉田玄白も天明7年(1787)発行の『後見草(のちみぐさ)』で次のように嘆いています。「千住や浅草では一里にも渡り敷物を敷いて、路上で賽子賭博を開帳している。吉原遊郭付近では昼も夜も賭博が行われ、人品卑しからぬ者も混じっている」
これだけ裾野が広がってしまうと、賭博で食って行こうとする者(博徒)が出てくるのは自然の流れです。金銭のやり取りをする賭博に揉め事は付き物ですから、彼らは身を守るのに刃物を常に持ち歩きます。世を乱すとして幕府は当然取り締まりますが、元となる賭博が無くならない以上、根を断ち切れるものではありません。
世情とじかに接する町奉行所には現実的な応対方がありました。弘化4年(1847)、江戸北町奉行の遠山景元(遠山の金さん)は、同役の鍋島直孝と連名で老中に上申しています。
「風俗や賭博の取り締まりを余り厳しくすると、人々の気持ちが萎縮してしまう。結果金回りが悪くなり市中の景気は悪化、世人の生活も苦しくなり犯罪が増える」
無暗に厳しくするばかりが能ではないってわけです。ご禁制は守らねばならないが、現実的な対応も必要であるとの考えです。
おわりに
江戸幕府はあの手この手で博奕封じを試みます。「負けた金品を取り返してやるから胴元を訴えろ」という損失補償制度や、「開帳を知らせれば褒美を与え、密告した者は罪に問わない」との密告奨励制度まで導入しましたが、庶民の熱狂を完全に抑え込むことはついにできませんでした。
いつの時代も、人間は勝負事の魅力には抗えないものなのかもしれません。
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