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【戦国暗殺秘史】無味無臭、水溶性…多くの戦国武将を葬った「鴆毒」とは?

 血で血を洗う戦国乱世、命のやりとりは戦場だけに限りませんでした。そして命を奪う手段も武器だけでなく、毒なども用いられたといいます。

 今回は戦国時代にも用いられた毒の一つ・鴆毒(ちんどく)をご紹介。果たしてどのようなものだったのでしょうか。

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鴆とはどんな鳥?

 鴆毒とは、鴆(ちん)という鳥の羽毛に含まれる毒であると言われています。

 『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』の記述では、鷲(わし)ぐらいの大きさで羽毛は緑色、そして銅色の嘴(くちばし)をしていたと言います。毒蛇を食うことから体内に猛毒を蓄えており、田畑の上を飛んだだけで作物が全て枯れてしまうほどでした。

 また、『三才図会』では紫黒色の羽毛と赤い嘴、目は黒くて首の長さが7~8寸(約21~24センチ)とあります。その猛毒は糞のかかった石が砕けるほどで、石の下に隠れた毒蛇を獲ったそうです。

『三才図会』に描かれた鴆(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
『三才図会』に描かれた鴆(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 日本と中国大陸で若干姿が異なるものの、それぞれ猛毒を持った鳥がいたという記録が残されています。しかし、中国大陸の南北朝時代(5~6世紀)以降、文献上から鴆の存在が途絶えてしまいます。

 毒を持った鳥の存在が確認されなくなったこともあり、鴆は伝説上の存在として認識されるようになっていきます。実際、『和漢三才図会(江戸時代18世紀)』『三才図会(明代17世紀)』ともに、伝説上の存在として記述されています。

 そんな中、1992年からニューギニア島で毒を持つ鳥(ピトフーイ、ズアオチメドリ等)が発見され、これが鴆の正体ではないかとも考えられました。ただし、これらの鳥は鴆と外見が似ておらず、やはり鴆毒の鴆とは別の存在と見られているようです。

鴆毒の作り方

 実際に使われた鴆毒について、その作り方が儒教経典の一つである『周礼(しゅらい)』に記されています。

一、五毒を素焼きの壺に入れて三日三晩焼く。
一、白い煙が立ち上るので、鶏の羽毛を燻すと鴆の羽になる。
一、鴆の羽を酒に浸せば鴆酒(鴆毒入りの酒)が完成。

 五毒とは、以下の5つを指します。

・慈石(じしゃく。四酸化三鉄)
・石膽(せきたん。硫酸銅II)
・丹砂(たんしゃ。硫化水銀II)
・雄黄(ゆうおう。ヒ素硫化物)
・礜石(よせき。硫砒鉄鉱)

 鴆毒は水溶性で無味無臭、酒に仕込めば相手に気づかれることなく毒殺が可能だったそうです。古代中国から多くの暗殺や自殺に用いられたように、鴆毒の威力がうかがい知れるでしょう。

 ここで言う鴆毒とは「鴆の羽毛を用いる」のではなく「五毒で燻した羽毛を鴆の羽根として用いる」解釈なのですね。

鴆毒を解毒するには?

 ところで、鴆の毒を盛られてしまった時に有効な対策はあるのでしょうか?

 古代中国では、犀(サイ)の角が鴆の毒を消す効果があると信じられ、歴代皇帝や貴人らは争うように犀の角で作った酒盃を買い求めたそうです。

犀のイラスト
犀のイラスト

 もちろん迷信なのですが、鴆毒が歴史の表舞台から姿を消した後も「犀の角はあらゆる毒を中和できる」とか「素晴らしい精力剤である」という風評が絶えません。そのため、高級漢方薬として乱獲され、絶滅危惧の憂き目に遭っていることは嘆くべき事態と言えるでしょう。

 ちなみに、この迷信がヨーロッパでは「ユニコーンの角が水を浄化する」という形で伝わりました。

 戦国時代、李氏朝鮮の医師であった経東(けい とう/キン トン)は鴆毒を盛られた際に「これを解毒するのは容易いが、刀刃の難は避けられぬ」としてそのまま死亡した逸話があります。(※『土佐物語』巻第十七「中歸朝の事附名醫經東が事」より)

 経東の言葉がハッタリでなければ、鴆毒を解毒する方法が何かあるのでしょうが、詳しいことは分かりません。

鴆毒に葬られた者たち

 戦国時代に毒殺された者は少なからずいますが、果たして鴆毒で命を落とした者はどれくらいいるのでしょうか?文献などに鴆毒の可能性が言及されている者たちをピックアップしてみました。

那須高資(なす たかすけ)

 下野国(栃木県)の戦国大名。武勇に優れて気性の激しい野心家でしたが、天文20年(1551)1月22日に鴆毒で命を落とします。

島津家久(しまづ いえひさ)

 薩摩国(鹿児島県)の武将。歴戦の勇士として活躍するも、天正15年(1587)6月5日に急死。一般的には病死とされますが、鴆毒で葬られたという説もあるようです。

経東(けい とう/キン トン)

 李氏朝鮮の医師。文禄の役(第一次朝鮮出兵)で長宗我部元親らに捕らわれ、日本へ連行される。名医として評判を高めるが、嫉妬により毒殺されてしまいました(没年は不詳)。


 ……はっきり鴆毒と書かれていたり、可能性が言及されていたりするのはこのくらいですが、疑いも含めると範囲が広がります。鴆毒で死んだ者の遺体は黄疸のように黄色くなるそうで、例えば南北朝時代の足利直義(ただよし。足利尊氏の弟)は、死後間もなく毒殺されたという噂が立ちました。

……俄に黄疸と云ふ病に犯され、はかなく成らせ給ひけりと、外には披露ありけれ共、実には鴆毒の故に、逝去し給ひけるとぞささやきける……
※『太平記』巻第三十より

 つまり、黄疸で亡くなった者については、鴆毒で葬られた可能性も否定できないと言えるのです。何でもかんでもそうと断定すべきではありませんが……。

終わりに

 今回は戦国時代の毒殺に用いられた「鴆毒」について紹介してきました。果たしてその猛威は、どれほどのものだったのでしょうか。戦国時代には他の毒や暗殺手段もあったと考えられるので、そちらについても改めて調査・ご紹介したいと思います。


【参考文献】
  • 久保田順一(訳)『現代語訳 関八州古戦録 上』(戎光祥出版、2024年)
  • 立木鷹志『毒薬の博物誌』(青弓社、1996年)
  • 永山久夫『たべもの戦国史』(河出書房新社、1996年)
  • 『歴史研究 第721号』(戎光祥出版、2024年)
  • 『比治山大学現代文化学部紀要 第2号』(比治山大学現代文化学部、1996年)
  • 国史研究会 編『国史叢書(土佐物語二 四国軍記)』(国立国会図書館デジタルコレクション)

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  この記事を書いた人
角田晶生(つのだ あきお) さん
鎌倉の最果てに棲む、歴史好きのフリーライター。時代の片隅に息づく人々の営みに強く興味があります。 得意ジャンル:日本史・不動産・民俗学・自動車など。 執筆依頼はお気軽にどうぞ!

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