討ち取って家康は大喜び…家康が最も憎んだ男「平子主膳」とは何者か?
- 2025/12/15
三度も徳川家康に喧嘩を売り、そのたびに生き延びてきた「反骨の猛将」がいます。平子主膳(ひらこ しゅぜん)です。慶長19年(1614)、大坂冬の陣で討ち取られた彼の首級は、なぜか当初、誰もその顔を知りませんでした。しかし、ひとたびその名が知られると、家康以下すべての武将が態度を急変させたというから驚きです。
一体「あの」平子主膳とは何者なのか?六代にわたり討死を続けたという彼にまつわる謎多きエピソードと、積年の恨みをぶちまけた家康の“大人げない”本音をみていきましょう。
一体「あの」平子主膳とは何者なのか?六代にわたり討死を続けたという彼にまつわる謎多きエピソードと、積年の恨みをぶちまけた家康の“大人げない”本音をみていきましょう。
六代にわたり討死した冥加の武士
時は慶長19年(1614)11月29日。後世に言う「大坂冬の陣」において、豊臣方の薄田兼相(すすきだ かねすけ)が守っていた博労淵(ばくろうぶち)の砦が陥落しました。その晩、兼相らは女遊びに出かけて不在でした。完全に油断していた隙をつかれてしまったのです。「箕浦右近(みのうら うこん)、一番首!」
真っ先駆けて砦へ乗り込み、一番首を上げた徳川方の将・箕浦右近は、意気揚々と本陣へ帰還しました。
「おお、でかした!」
本陣では本多上野介(正純)が出迎え、さっそく一番首のお披露目です。さぁ、この首級は一体誰のものか……箕浦右近は、ワクワクが止まらなかったことでしょう。名だたる武将の首級であれば、褒美もたんまり弾むはず……しかし、家康はじめ諸将の面持ちは、実に微妙なものでした。
「ん? 誰だ、この首級は?」
見たところ、そこまで身分も低くはなさそうですが、誰に聞いても分かりません。何とも微妙な空気が流れたことでしょうが、ともあれ一番首は一番首です。どう扱ったものかわかりかねたので、その一番首は本陣のかたわらに放置されました。
それからしばらくして、紀州の浅野家より使者が本陣を訪れます。
使者の名は菅田四郎右衛門(すがた しろうゑもん)。放置されていた一番首を見かけるや身なりを正し、うやうやしく一番首を捧げ持ちました。そして近くの石に据え直す様子を見て、箕浦右近は尋ねます。
「その方、その首をご存知なのか?」
四郎右衛門は答えて言いました。
「むしろ貴殿はご存知ないのか?これなるは当代まで六代にわたり討死した冥加の武士、平子主膳(ひらこ しゅぜん)その人なり」
その名を聞いて、箕浦右近も背筋を正します。
「左様であったか、かねてご高名こそ伺いこそすれ、その顔は存じ上げなんだわい」
箕浦右近が報告するや、かの名高き平子主膳の顔を一目拝もうと、家康や上野介らが再び集まりました。
「なるほど。これこそが平子主膳か……実に冥加の至り」
先ほどの訝しげな顔が嘘のよう、誰もが平子主膳の首級に敬意を払い、その冥加に感嘆の声を漏らします。
ちなみにこの合戦で嫡男の平子茂兵衛(もへゑ)も討死しているため、七代にわたる冥加となったのでした。
「あの」平子主膳の首級だから……。
以上が山鹿素行『武家事紀』に伝わる平子主膳のエピソードです。別の史料では細部が異なっていることもあり、平子主膳を討ち取ったのが箕浦右近ではなく、横川次太夫(じだゆう)とも言われています。またさらに別の史料では、討ち取った平子主膳の首級を皆で奪い合い、勝ち取った者が一番首として持参したという記録もありました。
雑兵首ならいざ知らず、かの名高き平子主膳の首級ともなれば、仲間同士で奪い合っても我が手にかけたいと願ったのでしょう。しかし違和感を覚えるのは、その名を聞いただけで皆が態度を変えるほど高名でありながら、誰もその顔を知らなかった点です。
このエピソードでは四郎右衛門がそうだと言っただけで、その証言のウラを誰もとることが出来ません。四郎右衛門が嘘をつく理由もメリットもないため、嘘ではないのでしょうが、なんかモヤモヤが残りますね。
ともあれ、この首級が「あの」平子主膳だと言えばそうなのです。かくて平子主膳は冥加の名を後世まで伝えることとなったのでした。
大人げない?家康の態度
名前を聞くまで誰も平子主膳だと分からなかったという説がある一方、かねて家康が平子主膳を憎悪していたという説もあります。平子主膳はこれまで3度にわたって家康に逆らい、その都度生き延び続けてきました。それが大坂冬の陣でようやく討ち取った時、家康の喜びようと言ったら……。
「よくこそ討ちたり、これは平子主膳の首なり」
顔を見るなり、これはかのにっくき平子主膳の首級であると喜んでいます。
また、こんな記述もありました。
「平子、今思い知るべし、参ったの」
まぁ大人げないったらありゃしません。ここぞとばかりに積年の怨みをぶちまけています。他にも北条氏長『慶元記』では平子主膳がたびたび家康を挑発し、指名手配にされている場面もありました。
一方、『新東鑑』では、家康が永年の宿敵を討ち取ったことを喜びつつも、冥加の武士を懇ろに弔うよう指示しています。これは家康を名君として美化するためのアレンジと見られ、実際には欣喜雀躍していたことでしょう。
平子主膳とは何者?
そんな家康をたびたび悩ませた平子主膳ですが、その実像は謎に包まれています。一説では諱(いみな。実名)を平子貞詮(さだあきら)と言い、美濃国の稲葉貞通(いなば さだみち)に仕えていました。貞の字が共通していることから、主君から偏諱(名前の一文字)を賜ったか、あるいは一族だったのかも知れません。
しかし、稲葉家の系図にその名は見られず、また稲葉家と家康が対立する深刻な理由もなさそうです。あくまで平子主膳が個人的に家康と相容れなかったのでしょうね。
そんな平子氏はもともと相模国の豪族・三浦氏の流れを汲んでいました。なお、元の読みは「たいらこ」であり、本拠地であった武蔵国久良岐郡平子郷(現:神奈川県横浜市磯子区)の地名を苗字にしています。
鎌倉時代には周防国や越後国へ赴任して地頭を務め、室町〜戦国時代に入るとそれぞれの守護大名である大内氏や長尾氏(上杉氏)の家臣となりました。
平子一族の末裔である平子主膳が、どういう経緯で美濃国に流れ着いたのかは不明ですが、稲葉貞通の元を去ってからは浅野幸長に仕えるも、折り合いがつかずに浪人となって大坂の陣に参戦。足軽大将として奮戦し、見事な最期を遂げたのでした。
別の名を平子正貞(まささだ)、平子信正(のぶまさ)と記す史料もあります。
終わりに
今回は大坂冬の陣で討死した謎の武将・平子主膳について紹介してきました。武辺名高く、反骨精神に富んだ彼の死は、戦国乱世の終わりを告げているように思えてなりません。他にも興味深い武将たちがたくさんいるので、改めて紹介したいと思います。
【参考文献】
- 柏木輝久『大坂の陣 豊臣方人物事典』(宮帯出版社、2016年)
- 鈴木真哉『戦国史の怪しい人たち 天下人から忍者まで』(平凡社新書、2008年)
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この記事を書いた人
鎌倉の最果てに棲む、歴史好きのフリーライター。時代の片隅に息づく人々の営みに強く興味があります。
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