「どうする家康」徳川家康VS豊臣秀頼 大坂冬の陣はなぜ勃発したのか
- 2023/12/04
大河ドラマ「どうする家康」第46話は「大坂冬の陣」。徳川方と豊臣方との戦「大坂冬の陣」が描かれました。慶長19年(1614)7月21日、大御所・徳川家康は、板倉重昌と金地院崇伝を呼び寄せ、こう言いました。
「京都・方広寺の大仏殿の新鐘銘は、関東に対し、大不敬の文言あり。また、上棟の日も吉日にあらずと聞く。早く、鐘銘や棟札の草案を進呈するように京都に申し遣わせ」
豊臣秀頼は、慶長14年(1609)から、方広寺大仏殿と大仏の再建を始め、その3年後には、完成まであと一歩という所まで迫っていました。慶長19年(1614)4月には釣鐘の鋳造も行われ、大仏開眼供養の日時なども、家康の了解を得ていたのです。
それが、同年7月下旬になって、前述のように、家康が不快感を示し始めたのでした。しかも、上棟や供養の延期まで、徳川方は豊臣家に要求してきました。鐘銘の文言に「国家安康」「君臣豊楽」とあり、それが家康の名前を裂き、徳川家を呪詛するもの、豊臣家の繁栄を願うものになっているとして、問題視されたのです。
豊臣方は片桐且元を派遣し、弁明に務めます。8月19日、且元は駿府入り。翌日、且元は
且元:「大坂(豊臣)に異心(謀叛の心)があるというのは、全く世上の浮説(噂)。鐘銘の事は、君臣(秀頼とその家臣)共に知るところにあらず。東福寺の清韓文英一人に任せていたものです」
と徳川家臣・本多正純らに弁解。この時は、且元は家康と対面することは叶いませんでした。一方、淀殿が駿府に派遣した使者(大野治長の母・大蔵卿)には、家康は面会。鐘銘問題は心配することはないと伝達します。
『徳川実紀』によると、且元は両使(本多正純・金地院崇伝)から「関東(徳川)と大坂(豊臣)の和睦は、且元の計らいにかかっている」と告げられます。両使に、何か良い策はないかと尋ねる且元。すると両使は
- 「右府(豊臣秀頼)が大坂を出て、他所に移られるか」
- 「秀頼が他大名と同じように、駿府と江戸に参勤するか」
- 「淀殿を関東に送るか」
この中の「どれかしかない」と断言するのでした。
且元はその時、この案は両使から出たものではなく、家康の想いだと悟ったようです。且元は何れの案も容易に決めることはできないとして、大坂に持ち帰ることを主張。
大坂に戻った且元は、秀頼・淀殿に先の3案を提示。「3箇条を受け入れて、天下太平、人心の鎮静を図るべき」ことを諫言します。が、秀頼と淀殿はこの提案に怒ります。豊臣家の対徳川強硬派は、密かに且元を誅殺せんとの計画を立てたといいます(且元は大坂城から退去)。家康はこの件を聞き、驚くと同時に強く憤ったそうです。
こうして、大坂冬の陣が勃発するのです。
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