【べらぼう】葛飾北斎と滝沢馬琴 その個性的なキャラクターとは?
- 2025/12/01
大河ドラマ「べらぼう」第46回は「曽我祭の変」。
「べらぼう」には滝沢瑣吉(後の曲亭馬琴)や勝川春朗(後の葛飾北斎)という個性的な人物が登場していますが、先ず馬琴は横柄で負けず嫌いな性格として描かれています。実際の馬琴も人との交際を嫌い、他人の欠点がすぐに目につくという困った性格と言われています。
馬琴は戯作者・山東京伝の勧めによって、重三郎が営む地本問屋「耕書堂」で手代(番頭と丁稚との中間に位する使用人)として働く事があったのですが、重三郎は馬琴には一目置いていたとのこと。蔦屋版『笑府衿建米』(天明6年に刊行された大田南畝作の黄表紙『手練偽なし』の版木を細工した咄本)の序文を馬琴に書かせたこともその現れと思われます。
重三郎は馬琴に単なる手代とは違った待遇を与えたのですが、馬琴の中に何か光るものがあると睨んでいたのでしょう。
寛政5年(1793)、馬琴は耕書堂を退職しますが、それは飯田町中坂の履物商・伊勢屋の未亡人・会田お百に入夫(寡婦のところに婿として入る)したからでした。しかしそれで重三郎との縁が切れた訳ではなく、重三郎は馬琴の作品を退職後も刊行しています。
一方、葛飾北斎の師匠は、浮世絵師の勝川春章ですが、春章は重三郎とも仕事をしていました。春章は北尾重政と共に『青楼美人合姿鏡』(吉原の遊女の姿を描く錦絵本。1776年)の絵を描いているのですが、同書を刊行したのは重三郎でした。そうした縁もあったのでしょう。重三郎は北斎にも絵(吉原の年間行事「俄」の絵)を依頼しています。
北斎は「画狂」と評されることもあるように、特異な性格・行動で知られています。例えば目の前に食べ物があっても、それを食器に移す事はせず、箸も使うことなく、手摑みで食べたのでした。北斎の行状は「我国下等人種の為す所に似たり」(飯島半十郎 『葛飾北斎伝』 蓬枢閣、1893年)と評されることもありますが、筆者はそこに北斎の魅力を感じるのです。
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