WBCの熱狂の影に…戦場へ散ったプロ野球の先駆者たち

  • 2026/03/11
  • ※本記事は一部にプロモーションを含みます
 現在、WBCが開催され、連日熱戦を繰り広げる侍ジャパンの姿に日本中が沸いていますね。昭和11年(1936)に日本職業野球連盟が設立し、日本のプロ野球が始まってから90年。現在では年間観客動員数2700万人を誇る国民的スポーツとなりました。

 しかし、その華やかな歴史の裏には、あまりに過酷な「冬の時代」があったことを忘れてはなりません。かつて戦争の激化によって厳しい統制を受け、多くの有望な野球選手たちが白球を銃に持ち替え、戦地へと消えていったのです。

 東京ドームの敷地内には、「鎮魂の碑」という石碑があります。これは戦没した野球選手を慰霊するために建立されたもので、現在は76名の名が刻まれているといいます。今回は、戦地に散った名選手たちの足跡をたどり、その功績を改めて称えたいと思います。

厳しい統制下にあった戦時の職業野球

 太平洋戦争が始まると、アメリカを発祥とする野球は敵性スポーツとみなされ、まず用語の改変が行われました。例えばストライクは「正球」、ボールは「悪球」、セーフは「安全」といったふうに、今では考えられない野球用語が用いられる中、選手たちはプレーを続けたのです。


 昭和19年(1944)には制限がさらに加えられます。平日に選手たちが工場で働く一方で、試合は休日のみ。試合数は激減しました。いざ開幕しても、若い選手が昼間からウロウロしては目立つのも当たり前。たまたま寮の娘さんと帰ろうとした選手などは、たちまち憲兵に見つかって「今どき、女連れとは何事だ」と、顔が腫れるほど殴られたそうです。

 また、春から6勝無敗だったロシア出身のスタルヒン投手は、日本育ちだったにもかかわらず、隔離されて軟禁状態に置かれました。彼の西洋的な風貌が勘違いされてしまったのでしょう。

 球場の光景も一変します。後楽園球場のスタンドの一角には食糧難を補うための畑が作られ、サツマイモやカボチャが植えられました。軍の命令で拡張された野菜畑に打球が飛び込み、ボールが見つからずに三塁打になるという、戦時下ならではの切ない珍事もあったとか。

 昭和20年(1945)の正月、甲子園球場と西宮球場で開催された「正月野球大会」を最後に、戦時下でのプロ野球の灯は一度途絶えました。そのわずか7ヶ月後には、日本は終戦を迎えることになります。

景浦將:義務と誇りを胸に、密林に消えたタイガースの至宝

 景浦將(かげうら まさる)は、大正4年(1915)に愛媛県松山市で生まれました。松山は当時から野球が盛んで、松山商業などは何度も甲子園で優勝を果たしています。

 その松山商業野球部に景浦が入ったのは3年生の時。途中入部だったものの、材木商を営む父からもらった手製のバットで練習を繰り返したそうです。すぐに才能を開花させた景浦は、まるで糸を引くような強烈な打球を連発するようになり、たちまちレギュラーの座を掴み取りました。

 そして最上級の5年生になった時、春の選抜大会で明石中学と決勝戦でぶつかり、悲願の全国制覇。次いで夏の甲子園でも決勝で中京商業に敗れはしたものの、準優勝という輝かしい成績を残しています。

 立教大学へ進学した後も、打撃はもちろん投手としても活躍し、東京六大学リーグの制覇に貢献しています。しかし昭和11年(1936)になると、突如として大学を中退し、発足したばかりの職業野球チーム・大坂タイガースへ入団。当初の職業野球は、人気を集める六大学野球と比べ、公式リーグ戦すら始まっておらず、懸命に選手を集めている状況でした。おそらく景浦は悩んだはずですが、この決断が功を奏します。タイガースの主力選手として1年目から活躍し、その勝負強い打撃で幾度も勝利に貢献しました。

景浦將(『プロ野球誕生前夜』より。出典:wikipedia)
景浦將(『プロ野球誕生前夜』より。出典:wikipedia)

 特に巨人軍のエース・沢村栄治との対決は伝説的な人気を博しました。昭和12年(1937)春季リーグにおいて、景浦は55試合に出場して打率2割8分9厘、2本塁打、47打点で打点王を獲得。同時に投手としても22試合に登板して11勝、防御率0.93という驚異的な数字を残しています。

 本塁打が少ないのは、当時は低反発で飛ばないボールを使用していたからです。現在では二刀流のスターとして大谷翔平選手が日々メディアを賑わせていますが、景浦は日本における「元祖二刀流」の象徴というべき存在の一人でした。

 しかし、戦争の暗い影は確実に忍び寄っていました。昭和19年(1944)、2度目の召集命令を受けた景浦は、次第に悪化する戦局の中、フィリピン・ルソン島へと送り込まれます。同じ中隊だった人物の証言によると、マニラに近い山岳地帯で戦っているうちに、景浦は黄疸とマラリアに罹ったそうです。

 高熱でうなされる中、彼に回ってきたのは「食糧探し」の当番でした。

「代わろうか?」

「いや、義務だから」

景浦はそう口にしながら、密林の中へ消えたといいます。それ以来、景浦が戻ってくることはありませんでした。

沢村栄治:海に消えた日米野球伝説の右腕

 日本プロ野球史上、最大の象徴ともいえる沢村栄治は、大正6年(1917)に三重県・宇治山田市で生まれました。大の野球好きだった父の影響で、少年時代から野球に熱中したといいます。

 そんな沢村の才能を認めたのが、小学校の担任だった片岡定衛でした。校内に野球チームを発足させると、さっそく基礎的な野球技術を教え込んだそうです。さらにコーチの永井義蔵が基本的な投球術を伝授したことで、沢村は瞬く間に成長。京都商業へ進学した沢村は、昭和8年(1933)春の選抜大会でエースを務め、2試合連続で完投するなど、才能の片鱗ぶりを見せつけており、その後は何度も甲子園へ出場を果たしています。

 甲子園での優勝には無縁でしたが、他の追随を許さない速球の威力と、高度な投球術には目を見張るものがあり、さっそく東京巨人軍が獲得に動きました。慶応大学への進学を志していた沢村は、熱心な説得を受けて巨人軍への入団を決意。ここに職業野球の世界へ身を投じることになります。

 沢村の名を不滅のものにしたのは、昭和9年(1934)に開催された「日米野球戦」です。対戦相手はベーブ・ルースやルー・ゲーリックら、メジャーの超一流を擁するアメリカチーム。多くのファンが熱狂するカードです。

 ただ、その実力差は歴然でした。全日本チームはプレー経験の浅い選手たちばかりで、攻守にわたって圧倒され、第8戦まで全敗という有様。当時17歳の沢村も思うような投球ができず、第4戦の先発では3本の被本塁打で10点を献上、さらに第6戦でも大量失点しています。

 そうした中で迎えた第9戦、沢村は得意の速球や縦に落ちるカーブの緩急を使って相手打者を翻弄。並み居る強打者から次々に三振を奪い、スコアボードに0を並べていきます。最終的に1-0で敗れはしましたが、アメリカの強打者たちは沢村の素質と才能を絶賛したといいます。

元・プロ野球選手の沢村栄治(出典:飛燕紫舞の佐賀歴史研究会(wikipedia))
元・プロ野球選手の沢村栄治(出典:飛燕紫舞の佐賀歴史研究会(wikipedia))

 その後、沢村は巨人軍の絶対的エースであり続けました。同年の「王座決定戦」では、大坂タイガースを手玉に取って王座獲得に貢献し、さらに昭和12年(1937)には、春のリーグ戦で24勝4敗、防御率0.81という圧倒的な成績を収めています。

 日本プロ野球史初となるMVPを取ったのも沢村でした。今日、そのシーズンの最も優れた先発完投型投手に贈られる最高栄誉「沢村賞」が制定されていることからも、彼がいかに規格外の存在であったかが分かります。

 ところが、そんな彼を不幸が襲います。徴兵検査を経て陸軍へ入隊し、昭和13年(1938)年から中国大陸へ出征した沢村ですが、戦闘中に敵の機関銃弾が貫通。左手に大ケガを負ってしまいます。翌年帰国して職業野球に復帰するものの、かつての球速はすっかり失われていたようです。

 その後、ノーヒット・ノーランを記録するなど復調を印象付けますが、昭和16年(1941)は9勝5敗に終わるなど、徐々に成績は下がりつつありました。左手のケガの影響か、長期のブランクなのか、理由は判然としませんが、彼らしい投球は影を潜めるようになったのです。

 同年12月、日本軍の真珠湾攻撃によって太平洋戦争がはじまると、沢村も2度目の応召でフィリピンの戦地へ赴いています。いったん復員したのち、再び職業野球に身を投じますが、すでに彼の身体は苛酷な兵隊生活によって、すっかり衰えていました。投球フォームは右肩が下がってサイドスローの状態となり、マウンドへ上がるたびに打ち込まれてしまいます。昭和18年(1943)に至っては、0勝3敗と惨憺たる成績となり、事実上、投手としてのキャリアは終焉を迎えました。

 昭和19年(1944)2月、沢村は正式に球団から解雇され、同年11月には3度目となる召集令状が届きます。そして12月、所属部隊を載せた輸送船は東シナ海を航行中、米潜水艦シーデビルの雷撃を受けて沈没。

 船と運命を共にしたという不世出の天才投手は、27歳の若さで海に散りました。

石丸進一:「これで思い残すことはない」特攻直前の最後の10球

 佐賀県佐賀市、大正11年(1922)生まれの石丸進一は、8歳年上の兄が野球をやっていた影響で、小学校の頃から野球に興じる毎日だったといいます。

 苦しい家計の中、両親が倹約に務めてくれたおかげで佐賀商業へ入学。名門野球部の門を叩きました。すぐに投手として頭角を現した石丸は、甲子園目指して猛練習に励みますが、ライバル校・唐津中学の壁は厚かったようです。2度の決勝戦で敗れ、最後まで甲子園出場の夢を叶えられませんでした。

 一方の兄は、内野手として職業野球の名古屋軍(現在の中日ドラゴンズ)に入団。兄に憧れていた石丸は、かねてから職業野球の世界へ入ることを熱望、そこで中国大陸へ出征していた兄に入団を斡旋してくれるよう頼みます。その熱意が通じて名古屋軍の小西監督と面談し、その場で入団することが決まりました。時に昭和16年(1941)のことです。なお、石丸の入団から3ヶ月後には、兄が戦地から帰ってきてチームに復帰。ここに日本初となる兄弟プレーヤーが誕生しています。

名古屋軍時代の石丸(出典:飛燕紫舞の佐賀歴史研究会(wikipedia))
名古屋軍時代の石丸(出典:飛燕紫舞の佐賀歴史研究会(wikipedia))

 入団直後の石丸は、本職ではない内野手として試合に出場。しかし実力不足で打撃技術は向上せず、成績もパッとしません。そこでチームの方針変更もあり、投手に専念すると才能が爆発。昭和17年(1942)にプロ入り初登板・初完封を果たすと、弱いチームでありながら、その年の成績は17勝19敗、防御率は1.71。翌年は20勝12敗、防御率1.15というエース格の活躍となりました。

 しかし、戦況の悪化による学徒動員が、彼のキャリアを断ち切ります。日本大学夜間部に在籍していた石丸も召集されて昭和18年(1943)12月に佐世保海兵団へ入団、飛行専修予備学生として土浦航空隊へ配属。石丸を待っていたのは理不尽な暴力が支配する軍隊生活だったようです。

 ある時、分隊対抗の野球大会が催されました。投手としてマウンドに立った石丸は、日頃から暴力を振るってくる上官に対し、快速球を投げ込んで、バットにかすりもさせずに三振の山を築いたといいます。それは上官に対する、彼なりの「抵抗」だったのかも知れません。味方の外野手はまったく球が飛んでこないため、守備位置で煙草を吸う者までいたとか。

 昭和20年(1945)2月、石丸は特別攻撃隊の隊員に志願しました。やがて鹿屋基地へ転進すると、そこで新品のボールを所望したといいます。

「最後の守り神として持っていたい」

として大事に保管したそうです。

 特攻出撃は5月11日と決まり、その前日に彼は同僚とキャッチボールに興じました。この光景を目撃したのが、のちに作家として名を成す山岡荘八です。石丸は10球ほど投げると、

「これで思い残すことはない。報道班員さん、さようなら」

と言って、笑みを見せたといいます。出撃当日、零戦に搭乗した石丸は、遠い南の空へ消えていきました。基地への入電は「敵艦見ゆ」を最後に絶たれており、特攻が成功したのかどうかもわかりません。

おわりに

 国を守るため、愛する野球に別れを告げた若者は、沢山いたことでしょう。そんな彼らを思う時、自由に夢を追いかけられる今の時代がいかに尊いかを痛感します。もし戦争がなかったら、景浦、沢村、そして石丸…彼らは素晴らしいプレーで、私たちをどれほど熱狂させてくれたことでしょうか。

 戦火に消えた名選手たちがいたこと、そして野球が奪われた暗い時代があったこと。それらを忘れずに語り継いでいくことこそ、今を生きる私たちの責務なのかもしれません。

【参考文献】
◎ 筆者厳選の1冊
  • 戦場に散った野球人たち
  • 早坂隆/文藝春秋
 戦没された野球選手たちの事績をまとめた本ですが、「どんな成績を残した」とか「どこで戦死した」といった事実のみならず、家庭環境や生い立ち、さらには本人を取り巻く人々の証言を取り上げるなど、その人となりが垣間見えてくるようです。
 一野球人としてだけではなく、一個人の側面にスポットを当てている点が共感でき、なおかつ高く評価できるでしょう。
※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
  この記事を書いた人
幼い頃からお城の絵ばかり描いていたという戦国好き・お城好きな歴史ライター。web記事の他にyoutube歴史動画のシナリオを書いたりなど、幅広く活動中。 愛犬と城郭や史跡を巡ったり、気の合う仲間たちとお城めぐりをしながら、「あーだこーだ」と議論することが好き。 座右の銘は「明日は明日の風が吹く」 ...

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