徳川家光の死因──46歳で急死!理由は脳卒中か、それとも脚気か?
- 2026/04/16
- ※本記事は一部にプロモーションを含みます
幕藩体制が盤石なものへと確立されつつあった江戸時代初期。3代将軍として君臨したのが徳川家光です。その凛々しさは「権現(家康)の再来の如し」とまで謳われ、あたかも強い将軍像を具現化するような存在でした。しかし、その内実を紐解けば、若年の頃から病気がちで、体調を崩すことも多かったようです。家光が46歳で亡くなった時、側近たちは症状の急変ぶりに驚いたといいます。
果たして家光の死因は何だったのか?当時の記録を引用しつつ、解き明かしてみましょう。
果たして家光の死因は何だったのか?当時の記録を引用しつつ、解き明かしてみましょう。
※徳川家光の全体像を知る→「徳川家光」総合解説コラムへ
生まれつき体の弱かった家光
徳川家光といえば、鎖国や禁教、諸大名の引き締めなどに注力した「強い将軍」というイメージがあります。しかし、それは徳川将軍家の権威を誇示するための虚像に過ぎません。実際の家光は生まれつき病弱だったうえ、成人しても吃音(きつおん)が残るなど、うまく言葉を話せなかったようです。儀式の際には、御取合役(おとりあいやく)の家臣が家光の言葉を聞き取り、いちいち周囲へ取り次ぐほどだったといいます。幕臣・大久保忠教は『三河物語』の中で、次のように述べています。
「物ものたまわず、人に御言葉かけさせられ給う御事もなくして、なんとも御心の内知れず」
また、実の両親である徳川秀忠と江は、嫡男の家光よりも聡明な弟の国松(のちの徳川忠長)を溺愛したといいます。そんな不遇な環境で過ごしたがゆえ、家光の性格を内向的にさせた一因となったのかも知れません。
幕府内で一時は「国松さまが次の将軍になられるのでは?」という声も多かったようですが、長幼の序を重んじる祖父・徳川家康の鶴の一声によって、家光が次期将軍の座を射止めることになりました。そして元和9年(1623)7月、秀忠は大御所に退き、家光が3代将軍に就任したのです。
とはいえ、病弱なのは相変わらずだったようで、寛永6年(1629)には痘瘡(とうそう)を患い、高熱を発して重症となりました。侍医たちの治療によって回復するものの、顔面には酷いあばたが残ったそうです。
家光の死因その1 脳卒中
寛永8年(1631)、弟・忠長が数々の不行跡を理由に改易され、上州高崎へ幽閉されるという事件が起こりました。その翌々年には切腹の沙汰が下り、忠長は28歳の若さで世を去ります。通説では、将軍家光から切腹を命じられたことになっていますが、詳しく記録をひも解くと、この時期の家光は大病をわずらっており、病床に就いていたようです。そんな状態では、忠長の切腹という重大な決定を下すことは不可能でしょう。もしかすると幕閣たちが「将来の禍根を断つため」として、忠長の処断に踏み切ったのかも知れません。
幕政安定のためとはいえ、結果的に弟を死に追いやった家光には、徐々に鬱病の症状が現れます。表御殿へ姿を見せなくなり、ずっと中奥で閉じこもるような日々が2年ほど続いたようです。家光が40代に入ると、体調が比較的安定するようになり、公務への支障もなくなりましたが、恐ろしい病魔の影は確実に忍び寄っていたようです。
慶安2年(1649)の暮れ、突如として腹痛が家光を襲います。年が明けても治りきらなかったようで、さすがに新年の拝賀も取りやめたほどでした。一旦は症状は落ち着くものの、2年後の正月にはまたしても体調不良を訴えるようになりました。『徳川実紀』によれば、頭痛に加えて歩行障害が見られ、手足が麻痺したという記録が残されています。
そして慶安4年(1651)、いくぶん体調が回復したのか、側近らの前で歩きぶりを見せたそうです。ところがそのわずか10日後、伊万里焼の茶碗を鑑賞中に気分が悪くなり、翌日に亡くなってしまったのです。
頻繁に起こる頭痛、手足の麻痺、そして歩行障害という症状から見て、脳梗塞や脳内出血に起因する「脳卒中」の疑いが濃厚です。あまりの急変ぶりだったため、手の施しようがなく、側近たちは一様に愕然とするほかありませんでした。
家光の死因その2 脚気
もう一つ、家光の死因として考えられるのが「脚気(かっけ)」です。これはビタミンB1の不足に起因するもので、その症状は手足の痺れから始まり、知覚に異常が現れるというもの。全身に倦怠感を覚え、つまずいたり転んだりするなど、歩行障害を引き起こすことが特徴です。重症化すると、胸に圧迫感が現れ、最終的には衝心脚気によって死に至ります。これを家光のケースで当てはめてみると、その症状は驚くほどに該当しますね。寛永5年(1628)、家光は瘧(おこり:マラリアの一種)を患った後に足の痛みを訴えました。月例の出仕を取りやめるほどだったといい、それが最初の兆候と見られます。
寛永16年(1639)には、症状がおさまらなかったのか、全ての奥医師に家伝の秘薬を差し出すよう命じました。通常、将軍への投薬は医師たちの協議で決めていたのですが、家伝の薬を出すよう命じるのは極めて異例です。よほど脚気の症状に悩み、苦しめられていたのかも知れません。
そして運命の慶安4年(1651)、家光は突如として「胸の苦しみ」を訴えるようになります。その後、いくぶん体調が良くなったのか、槍や剣の稽古を行うようになり、猿楽や歌舞伎などを鑑賞したといい、側近たちの前で歩く姿を見せるほどでした。
ところがわずか10日後には家光の容態が急変し、意識不明のまま翌日の16時頃に死去したと伝わります。ごく短期間で急死したこと、胸が苦しいと訴えたこと、そして長期にわたって症状に苦しめられたことから総合すると、脚気に伴う心不全、つまり衝心脚気で亡くなったという可能性も、十分に説得力を持っています。
現代では標準的な食事さえしていれば、脚気になることはまずありません。かつて中世を生きた武士たちも、ずっと穀類や豆類を摂取することで脚気を予防してきました。ところが家光の時代になると、幕藩体制の安定とともに食生活が豊かとなり、胚芽が除かれた白米を食べる習慣が始まります。副食を積極的に摂らなかったことで、脚気のリスクが高まってしまったのでしょう。
終わりに
脳卒中にせよ脚気にせよ、進んだ現代医学の知見をもってすれば、発症リスクを下げて未然に防げたはずの病です。しかし江戸時代の未熟な医学では、病気の特定はおろか、有効な治療法すら確立できなかったに違いありません。家康が御三家の種を撒き、のちに徳川吉宗が御三卿を創設した背景には、徳川の血脈を絶やしてはならないという配慮があったのです。※徳川家光の全体像を知る→「徳川家光」総合解説コラムへ

コメント欄