「徳川家基」突然死した幻の第11代将軍。その死因は何だったのか?
- 2025/01/22
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徳川将軍家では代々、次期将軍職に就く予定の嫡男には「家」の諱をつけるのが慣例でした。このルールに外れているのは2代秀忠(三男)、5代綱吉(四男)、8代吉宗(紀州藩より)、15代慶喜(一橋家より)の4人だけで、いずれも事情がありましたが、逆に「家」の諱を付けられたのに将軍になれなかったのは10代将軍・家治の長男であった徳川家基(とくがわ いえもと)だけなのです。
その原因は18歳(満年齢では16歳)で急逝してしまったからなのですが、家基の急逝には色々な憶測が流れています。それらの憶測も踏まえ、実際の死因はなんだったのか、検証してみましょう。
その原因は18歳(満年齢では16歳)で急逝してしまったからなのですが、家基の急逝には色々な憶測が流れています。それらの憶測も踏まえ、実際の死因はなんだったのか、検証してみましょう。
7つまでは神のうち
まだ医療が未発達だった江戸時代、乳幼児の死亡率は非常に高く「7つまでは神のうち」と言われました。要は7歳になるまでは、まだ神様の手の内にあり、いつ召されてもおかしくない、という意味です。現在にまで残る7.5.3のお祝いというのは、この意味を込めていたのです。ですので7歳までの死亡原因を特定するのは、ほとんど不可能です。逆に7歳を超えて生きながらえた場合、成人まで生きられる見込みが非常に高かったため、14歳から16歳の間に元服という成人式が行なわれ、大人の仲間入りをしました。
家基は無事に元服を迎え、「家基」という名前をもらい、次期徳川将軍確定という人物だったのです。
文武両道に長けた吉宗直系
家基は8代将軍・徳川吉宗の直系(吉宗→家重→家治→家基)にあたります。父の家治(10代将軍)も祖父の家重(9代将軍)も吉宗の血を引いており、頭脳明晰、体に障害のあった家重を除き、武芸も達者な血筋でした。
徳川吉宗
┏━━┳━━┫
宗尹 宗武 家重
┏━━┫
重好 家治
┃
家基
※参考:徳川家基の略系図
家基も例外なく文武両道の才を持ち、元服すると早くも政治に関心を抱いて、当時の老中・田沼意次の施政方針を批判したりしていました。実は、この批判が家基の死に陰謀説が囁かれる原因となってしまうのです。
まずは帝王学として、家基は「あるべき政治の姿」を教わったと思われます。田沼意次の世事に通じた現実的な施政方針が、家基の実直な正義感に触れるものがあったのでしょう。言い方を変えたら「まだ世間を知らない若者が理想を唱えて現実を批判している」という面があったのは否定できません。
私としては、現将軍から絶対的な信頼を受けている田沼意次ほどの現実主義者が、まだ若い青二才である家基の批判を気にするとは思えないのです。しかし陰謀説というのはどんなことでも味方につけて成立させようとするものですから、家基の田沼批判というのも材料にされてしまったのではないかと考えられます。
家基の逝去の状況
天明元年(1779)2月21日に家基は鷹狩りに出かけますが、その帰りに立ち寄った品川の東海寺で突然、腹痛に襲われました。同行していた田沼意次と親しい奥医師・池原雲伯が煎じた薬湯を服用したものの、痛みは治まらず、急遽江戸城西の丸へ戻ります。驚いた父・家治は医師の手厚い治療を受けさせますが、家基は2月24日に亡くなってしまいます。それまでは、どこも何ともなく元気だったのに突然の腹痛から3日後に急逝してしまったのです。家治の嘆きようは大変なもので、しばらくは食事ものどを通らなかったそうです。
元々が病弱であるとか、感染症にかかったというのならば、16歳で死亡するのも納得がいきますが、家基の場合、病弱ではありませんでした。また、感染症なら当時としては天然痘が最有力候補ですが、天然痘の症状である皮膚の隆起が起こったという記述は見当たりません。
天然痘は発症してから死亡するまで1週間以上はかかるため、日数的にもあわないし、腹痛という局所的な疼痛の説明もつきません。「全然、元気だったのに突然死んだ」となると、毒殺を疑う人がいてもおかしくありません。まずいことに家基は田沼意次を批判しており、東海寺で田沼意次と親しい奥医師の薬湯を飲んでいるのです。
「批判的な家基を亡き者にするため、田沼が仕組んだ?」
うがった見方をすれば、このように言われても、おかしくはなさそうです。しかし最初に腹痛に襲われてから薬湯を飲んだのでしょうから、薬湯を飲んだ結果、腹痛になったのではないことが分かります。もし毒を盛るなら、わざわざ腹痛が起きるまで待っていることはないでしょう。普段の生活の中でいくらもチャンスはあったはずなので、池原雲伯が煎じた薬湯が家基の死に関係あるとは考えにくいです。
もし毒だったとしても3日後に死ぬ毒などあるのでしょうか?同じ毒なら即効性の物を使った方が確実でしょうし、奥医師であればなんとでも言い訳はできたはずですから。なので、ここでは批判を気にした田沼意次が仕組んだという陰謀説は「根拠なし」と断じたいと思います。
ならば一体、家基を襲った腹痛はなんだったのでしょうか?
現代医学から見た可能性
腹痛というのは誰でも経験があるくらいに、よくある症状です。しかし ”死に至る腹痛” となると、可能性のある病気は限られてきます。考えられる可能性は以下の病気です。- 腹部大動脈瘤破裂
- 胃や腸の穿孔
- 腸への血流遮断(腸間膜虚血)
- 腸閉塞
- 虫垂炎
このうち、「腹部大動脈瘤破裂」は動脈硬化が起きる中高年以上に発生する病気なので除外します。さらに「腸への血流遮断(腸間膜虚血)」は、いわゆる血栓が生じないと起こりえない病気であり、やはり中高年以上がり患しやすい病気なので除外します。また、当時の和食しかない食生活は肉を中心とする現代の食生活とは大きく異なるので、「胃や腸の穿孔」は異物でも飲み込まない限りは発生しにくいと考えられますのでこれも除外します。
結局、残る可能性は「腸閉塞」、もしくは「虫垂炎」ということになります。どちらも年齢には関係なく発生し、発生した場合には現代でも外科的な手術をしない限りは完治できない病気ですし、放置すれば死に至ります。
腸閉塞というのは腸の蠕動運動が止まってしまうのが症状ですが、発生原因は手術後の癒着、一部の近代的な薬剤の副作用などが主で自然発生的なものは虫垂炎、憩室炎などによるものがある位です。ただ、憩室炎が16歳の少年に発生するのは少々考えづらいものがあります。よって可能性として最も高いのは「虫垂炎」、いわゆる盲腸ということになります。
虫垂炎は外科的な手術を行わない限り完治しないのですから、盲腸切除術が一般的に行われるようになるまでは、虫垂炎はかかったら最後、死ぬしかない病気でした。特に虫垂炎が進行すると、内臓に穴が開いてしまい、雑菌が入り込んでくる結果、エンドトキシン・ショックと呼ばれる急激な全身の血圧低下を招いて死に至ります。
稀ではありますが、現代でも誤診等によって虫垂炎が見逃され、エンドトキシン・ショックで死に至った例は存在します。その場合、早ければ症状が起きて1日~2日、通常は3日~4日くらいで死に至るようです。これは家基が辿った経過日数と合致しています。
あるいは虫垂炎によって雑菌が血管内に入り込んでしまい、敗血症を招くというケースも考えられます。この場合も治療法は抗生物質の投与しか手はありません。16歳という年齢と、和食しか食べていないという食生活を考えると、結論として最も自然なのが、急性虫垂炎によるエンドトキシン・ショック、あるいは敗血症で亡くなったというのが妥当な線と考えられます。
虫垂炎は何らかの原因により、虫垂内部で細菌が増殖・炎症を起こすことで発症するのですが、細菌増殖のきっかけが何なのかは、現代でもよく分かっていません。虫垂炎は小学生でも罹りますし、若年・中年・老齢と年齢を問わず発生しますが、江戸時代に虫垂炎を発症したら助かる見込みはありませんでした。
そういった意味では、家基は不運だったというしかないのです。一生、虫垂炎にかからずに過ごす人だって結構、大勢いるのですから。江戸時代に腹痛を起こして死亡してしまったというのであれば、まず虫垂炎によるものを疑うべきなのです。
おわりに
現代でも外科のある病院であれば、必ず一か月に1~2回は虫垂炎の手術があります。つまり、常に一定数の発生があるのが「虫垂炎」という病気です。私達には病院に行って手術してもらうという対応手段がありますが、江戸時代にはその手段がありません。現代と比較して、医療の面から見たら相当に恐ろしい時代であり、運を天に任せるしかありませんでした。
「7つまでは神のうち」ではなく、「一生涯神のうち」と言えるのです。広義には現代に生きる私達も決して例外ではありませんが…。
【主な参考文献】
- 国立公文書館『将軍のアーカイブス 浚明院殿御実紀』
- MSDマニュアル 急性腹痛
- 富永愛法律事務所 判例/ 医療過誤の法律相談 虫垂炎の診断が遅れて死亡したケースについて医師の責任を認めた
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