信長は本当に浅井朝倉の「薄濃ドクロ盃」で酒を飲んだのか?『信長公記』が語る真相

  • 2026/05/03
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 信頼していた義弟・浅井長政の裏切りによって、一度は窮地に陥った織田信長。しかし立ち直りは早く、たちまち姉川の合戦(1570)で雪辱を果たしました。そして天正元年(1573)に朝倉・浅井ともども滅ぼします。

 しかし信長の怒りはまだ収まりませんでした。信長は朝倉義景、浅井久政・長政父子の首級を「ドクロ盃」に加工させ、そのドクロ盃で家臣たちに酒を呑ませたというのです。この三人に対し、なぜ信長はここまで怒り狂ったのか?そもそも本当のことなのか?俄かには信じられません。

 という訳で、今回は信長が作らせたと言われるドクロ盃の真相について紹介したいと思います。皆さんが大河ドラマ「豊臣兄弟!」を楽しむ参考になれば幸いです。

『信長公記』の記述は?

 結論から言いますと、このドクロ盃エピソードは後世の創作であり、信長が三人のドクロで盃を作らせたという事実はありません。ただし元ネタは『信長公記』にあり、そこにはこのような記述が残されています。

……天正二年甲戌
正月朔日 京都帰国面々等在岐阜にて御出仕有各三献にて召出しの御酒有他国衆退田の已後 御馬廻計にて

古今不及承珍奇の御肴出候て又御酒有去年北国にて討とらせられ候

一朝倉左京太夫義景首 一浅井下野 首 一浅井備前 首 已上三ツ薄濃にして公卿に居置御肴に出され候て御酒宴各御謡御遊興千々万々目出度御存に任せられ御悦也……

※『信長公記』巻七「義景浅井下野浅井備前三人首御看之事」より

【意訳】
 天正2年(1574)1月1日、新年の挨拶に来た者たちが退出した後、馬廻の者だけで呑んでいたところ、信長が「珍しい肴を見せてやろう」と、昨年北国(近江・越前)で獲ってきた三つの首を持ってきた。
 一つは朝倉義景(左京太夫)の首。一つは浅井久政(下野守)の首。そして浅井長政(備前守)の首である。それぞれすでに骸骨となっており、薄濃(はくだみ。漆を塗って金粉をまぶす)にした上で公卿たちに見せてきたという。これを見た馬廻たちは実にめでたいことだと大いに盛り上がり、その様子を見て信長はご満悦だった。


 ……いや……「盃にはしていない」というだけで、殺した敵の首級を宴席の見世物にしたというだけでも、十分すぎるほど狂気的ではないでしょうか。

 それにしても、信長に「首を薄濃ドクロに加工しろ」と言われた家臣は、たまったものではありませんね。

薄濃ドクロの作り方

 ところで薄濃ドクロはどうやって作るのでしょうか。恐らく動物の骨格標本を作る時と同じようにしたものと考えられます。

  • 一、首級を数時間煮込む
  • 一、煮上がった首級から肉や筋などを丹念に取り除く
  • 一、綺麗になったドクロをよく乾燥させる
  • 一、漆を塗る
  • 一、金粉をまぶす

 首級を煮込んだり肉を取り除いたりするのはもちろん、綺麗になったとはいえドクロに漆を塗ったり金粉をまぶしたりするのも、なかなか精神的にハードな作業でしょうね。

 不気味に光る黄金のドクロ……実際には金ピカではなく、黒いドクロが金色に輝くような趣向であったものと考えられます。

 余談ながら、子供の頃に見たマンガ「黄金バット(昭和5・1930年~)」を連想しました。

なぜ信長はこんなことを?

 とまぁ盃にしようがしまいが、なかなか狂気的な振る舞いに及んだ信長。しかしその意図は、必ずしも「憎き仇敵を、死後も辱め続ける」ものとは限らなかったようです。

 例えば首実検において、敵将の首級に化粧を施すなど丁重に取り扱うのは、単に祟りを恐れただけではありません。やはり命を賭けて戦った相手なればこそ、首級に対しては最大限の敬意を払ったのでしょう。今回の信長にしても、朝倉義景・浅井久政・浅井長政がそれだけ強敵であり、それを倒したことに対する喜びと敬意を表したものと考えられます。

 そもそも『信長公記』は、信長の側近であった太田牛一(おおた ぎゅういち/うしかつ)が、信長を顕彰する目的でその言行を記録していました。

 もし薄濃ドクロが当時の価値観に照らして批判されるべきものであれば、あえて記録しなかったのではないでしょうか。現代の私たちからすれば「うわっ、信長って残酷……サイコパス?」と感じてしまうような行為でも、当時の人々は違った見方をしていたのかもしれません。

その後、薄濃ドクロはどうなった?

 正月の宴席に供された三人の薄濃ドクロは、その後どうなったのでしょうか。

 これまで討ち取って来た多くの敵将たちと同じく、それぞれに葬られたものと考えられます。あるいはどこかへ大切にしまっておいたのか……もしそうなら、本能寺の変にともなう兵火で焼失してしまったのかもしれません。

 ちなみに三人の墓所は以下の通りです。

  • 朝倉義景……一乗谷朝倉氏遺跡(福井県福井市)
  • 浅井久政……徳勝寺(滋賀県長浜市)
  • 浅井長政……徳勝寺(滋賀県長浜市)

 果たして彼らの遺骸に首から上はあったのか否か……今後の究明が待たれます。

終わりに

 今回は信長の残虐性を強調するドクロ盃のエピソードを紹介しました。

 確かに信長が三人のドクロを宴席に供していたものの、盃にはしておらず、また死者を辱める意図ではなかったようです。果たしてNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、三人の最期とドクロがどのように描かれるのか、注目していきましょう!

【参考文献】
※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
  この記事を書いた人
鎌倉の最果てに棲む、歴史好きのフリーライター。時代の片隅に息づく人々の営みに強く興味があります。 得意ジャンル:日本史・不動産・民俗学・自動車など。 執筆依頼はお気軽にどうぞ!

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