岩倉使節団は本当に失敗だったのか? 記録(米欧回覧実記)を鉄道という形に変えた岩倉具視の執念
- 2026/07/29
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岩倉使節団といえば、不平等条約改正の失敗がよく知られている。明治4年(1871)に出発した使節団は、条約改正の予備交渉を目的としていたが、交渉は成果を得られないまま終わった。その印象が強いせいか、岩倉具視という人物は「外交に失敗した公家」として記憶されがちである。
しかし帰国後に残された記録や成し遂げた成果を見ると、岩倉が欧米に何を見ていたかが見えてくる。全100巻に及ぶ西洋社会の記録、実地の体験から生まれた長距離鉄道の構想。これらはすべて、岩倉が「命じたこと」「動かしたこと」の結果だ。外交の失敗という評価の裏側にある、もう1つの岩倉具視像を、使節団の実態から辿る。
しかし帰国後に残された記録や成し遂げた成果を見ると、岩倉が欧米に何を見ていたかが見えてくる。全100巻に及ぶ西洋社会の記録、実地の体験から生まれた長距離鉄道の構想。これらはすべて、岩倉が「命じたこと」「動かしたこと」の結果だ。外交の失敗という評価の裏側にある、もう1つの岩倉具視像を、使節団の実態から辿る。
岩倉使節団とは
明治4年(1871)12月、横浜を出港した岩倉使節団は、総勢107名に及ぶ大規模なものだった。特命全権大使の岩倉具視を筆頭に、木戸孝允・大久保利通・伊藤博文ら、明治政府の中枢を担う人物が名を連ねている。目的は二つ、幕末に結ばれた不平等条約の改正交渉と、欧米各国の制度・産業・文化の視察であった。一行はアメリカを皮切りに、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシアなど12か国を歴訪し、明治6年(1873)9月に帰国する。約1年9か月に及ぶ長期の使節だった。条約改正交渉は各国の同意を得られず不調に終わるが、その一方で、各地で観察された制度や技術は記録として持ち帰られ、後の日本の政策判断に影響を与えていくことになる。
記録を命じた理由
では、その「記録」はどのようにして生まれたのだろうか。使節団には書記官として久米邦武と畠山義成が同行していた。この二人に対して岩倉は、視察したことを調べて記録するよう命じている。その趣旨は『米欧回覧実記』の冒頭に明記されている。西洋では政府は国民の公的機関であり、使節は国民の代理者とされる。各国が産業や制度を惜しみなく見せたのは、自国の発展を誇示したかったからではないか——岩倉はそう読み解き、「見聞したことを広く国民に知らせなくてはならない」と考えた。
条約改正が目的の使節団で、岩倉は同時に「記録を残す」という指示を出している。交渉の成否に関わらず、観察した内容は国家の資産として持ち帰るべきものだと位置づけていた。その結果として生まれたのが、『米欧回覧実記』である。
知の集積——全100巻の実記
全100巻に及ぶこの記録は、制度・産業・文化・地理を網羅した、19世紀西洋社会の総合的な記述となっている。注目すべきはその網羅性だ。制度の記述では法律の内容だけでなく、それがどう運用され社会の中でどんな役割を果たしているかまで踏み込む。産業についても技術だけでなく流通や市場との関係が記される。「何があるか」ではなく「どう機能しているか」を捉えた記録だ。こうした視点は、単に見聞きしたものを書き留めるだけでは生まれない。何を記録すべきかという設計が最初からあったと考えるべきだろう。
条約改正の交渉は失敗した。しかしこの100巻は残り、後から読み返して利用できる形で整えられている。短期的な外交成果ではなく、長期的に効く知識基盤がここで作られた。
その中でも、岩倉に強い印象を残したのが長距離鉄道による物資の輸送である。
鉄道という観察
使節団はアメリカからヨーロッパへと移動する過程で、各地の鉄道を繰り返し利用した。『米欧回覧実記』にも鉄道の記述は随所に出てくる。岩倉は出発前から蒸気機関車の話を聞いていたが、実物は想像以上だったと伝わっている。
イギリスの項では特に鉄道と経済の関係が詳しく記されている。四方を海に囲まれた島国でありながら、鉄道が国内の物資輸送と港湾を結びつけ、経済の基盤になっている。日本と同じ条件の国が、鉄道によって国力を高めていた。アメリカでもヨーロッパでも、どこに行っても鉄道が社会を支えていた。一か国の成功ではなく、普遍的な仕組みとして機能していることが見えてくる。
「長距離鉄道が必要だ」という認識は、帰国後の岩倉の動きとして具体化していく。
観察が形になるまで
帰国後、岩倉の意向を受けた有力華族たちが動いた。旧尾張藩主・徳川慶勝、旧福井藩主・松平慶永らが賛同を集め、東京から青森・新潟に至る長距離鉄道の請願へとつながっていく。実はこの動きは帰国前から始まっていた。明治5年(1872)、まだロンドンに滞在中の岩倉は、イギリスにいた日本人たちに指示を出し、先に帰国させて請願の準備を進めている。視察の途中から、すでに「帰国後に何をするか」を動かしていたのだ。
当時の日本は輸入超過が続き、貿易の不均衡が深刻な問題になっていた。輸出をしやすくするために物流を整えるには長距離鉄道が必要だという訴えが重なり、岩倉は金策にも奔走する。当時すでに新橋から横浜を結ぶ鉄道は存在していた。しかしそれは都市間を結ぶ「点」にすぎない。岩倉が使節団で見てきたのは、国中をつなぐ「網」として機能する鉄道だった。
明治14年(1881)、日本初の私鉄として日本鉄道会社が設立される。路線は段階的に北へと延び、わずか10年で東京から盛岡まで届いた。現在のJR東北本線の大元にあたる路線だ。使節団で見てきたものが、日本の鉄道網として形になった。
おわりに
岩倉使節団は外交交渉の場では成果を得られなかった。しかし岩倉が「命じたこと」「動かしたこと」は、100巻の記録と長距離鉄道という形で日本に残った。何をしたかより、何をさせたかで測るべき人物なのかもしれない。『米欧回覧実記』を読んでいて驚くのは、岩倉が西洋の鉄道に受けた衝撃を、そのまま「すごい」で終わらせていない点だ。貨物も人も運べる長距離路線が必要だと訴え、人を動かし、制度に落とし込んでいく。その結果が現在のJR東北本線の大元になっているというのは、少し信じがたいくらいの話である。
条約改正に失敗した外交官という評価は、おそらく間違っていない。ただ、幕末の公家がここまで近代鉄道の必要性を理解して動いていたというのは、やはり少し驚かされる。
※岩倉使節団の具体的な旅程と滞在地を知りたい方はアジア歴史資料センターの「インターネット特別展・岩倉使節団」をご参照ください。




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