「上野動物園」誕生秘話──明治の要人たちが奔走、伊藤博文も協力した国家プロジェクト

  • 2026/01/14
 上野動物園(正式には東京都恩賜上野動物園)は、我が国における「近代動物園」の先駆けとして産声を上げました。それまでの日本において、珍しい生き物を見る機会といえば、縁日の見世物小屋で「河童(カッパ)」のミイラや、正体不明の「お化け狒々(ひひ)」といった怪しげな出し物を眺める程度のものでした。しかし、明治という新しい時代の幕開けとともに、上野の山に本物のカンガルーやチョウセンクロクマが姿を現します。

 人々が「自然のままの命」に初めて触れた、知られざる創設の物語を紐解いていきましょう。

名付け親は、あの福沢諭吉

 今日、私たちが当たり前のように使っている「動物園」という言葉。実はこの言葉の生みの親は、以前の一万円札の顔としても知られる啓蒙思想家・福沢諭吉です。

 福沢が西洋の動物園と出会ったのは、文久2年(1862)のこと。徳川幕府が派遣した「文久遣欧使節団」に翻訳方(通訳)として同行した際、パリ、ロンドン、ロッテルダム、アムステルダム、ベルリンという欧州の主要五都市で、現地の動物園を視察しました。

 当時の日本人にとって、生きた動物を系統立てて展示する施設は未知の存在でした。同行したメンバーの日記を覗くと、なんとかしてその実態を日本語に訳そうと「遊園」「禽獣飼育場(きんじゅうしいいくじょう)」「鳥畜館(ちょうちくかん)」など、さまざまな言葉をひねり出している苦労が伺えます。福沢自身も、パリの国立自然史博物館に併設された「ジャルダン・デ・ブラント(パリ植物園)」内の動物園を訪れた際は、まだ「薬園」や「禽獣草木園」といった表現にとどまっていました。

 メンバーの1人がカバの事を“海馬”と訳し、苦労してその様態を説明している記録も残っています。

「牛より大にして口は甚だ広く耳元まで裂け、唇は厚くして三段に切れ、食物をあてがいしときは水中より顕れいで…」

 福沢が初めて「動物園」という言葉を使ったのは、慶応2年(1866)に出版した『西洋事情 初編』の中でした。西洋文明の進んだ施設を紹介する一環として、博物館の付属施設をこう記しています。

「動物園では禽獣魚虫を生きながら養っている。獅子・犀・象・虎・・・燕・雀・大蛇・蝦蟇など世界中の珍獣・奇獣すべてこの園に在らざるものは無し。各々その性に従って食物を与え寒暖湿燥の備えをなす」

 福沢が驚きとともに紹介したこの言葉は、すぐには一般に広まりませんでした。しかし、後に上野動物園が開園し、人々が実際にその光景を目にすることで、ようやく日本語として定着していくことになるのです。

動物園への第一歩

 明治政府が本格的に動き出したのは、明治4年(1871)のことです。文部省の中に「博物局」が設置され、その中心人物として蘭学者・伊藤圭介の弟子である田中芳男が任命されました。

 田中は、慶応3年(1867)のパリ万博の際、フランス政府の要請で作成した日本産昆虫の標本56箱を抱えて渡仏しています。この時、ジャルダン・デ・ブラントの一隅に開かれたメナジェリー(動物飼育場)を訪れ、ナポレオン一世の時代から続く古い動物舎が、文化財として守られながら今なお動物たちを育んでいる光景に深い感銘を受けます。

田中:「日本も文明国家を目指すなら、是非ともこのような施設が必要だ」

 そう痛感し、のちの上野動物園創設への大きな原動力となりました。

田中芳男の肖像(出典:近代日本人の肖像)
田中芳男の肖像(出典:近代日本人の肖像)

 また、このパリ万博には、薩摩藩から密航留学生としてロンドンに渡っていた町田久成(ひさなり)も関わっていました。海外渡航を禁じられていた彼等は幕府の目を盗んで海を渡り、藩の支援を受けながら西洋の文化を吸収していました。この町田もまた、後の上野動物園と東京国立博物館の創設に深くかかわります。

 黎明期の展示は、試行錯誤の連続でした。明治5年(1872)に文部省が発足したのをきっかけに、湯島聖堂の大成殿に展覧場が開設され、入り口にまるで狛犬のように二つの大きな甕(かめ)を左右に並べられます。右にはオオサンショウウオ、左にはクサガメ。これが、日本における公共展示としての「生きた動物展示」のささやかな始まりでした。

 田中は展覧場の開設後、博覧会を計画し、同年3月10日に開催。13日には明治天皇の行幸もあり、田中と町田が展示物の解説をしています。現在の東京国立博物館が3月10日を開館記念日としているのはこの歴史的な日を受けての事です。

 その後、日本は翌年のウィーン万国博覧会に参加するため、全国に布告を出して出品物を集めます。博物局が実質的な博覧会事務局となりますが、全国から集まった収集品が収容しきれず、再び博物館を移転します。日比谷付近の旧大名藩邸を接収し、現在の帝国ホテルに隣接する地を内山下町博物館として開設します。

 物品は2点ずつ集められ、1点はウィーンへ送り、もう1点を国内展示、毎月1と6の日に一般公開しました。その一部で生きている動物の飼育・展示、すなわち「生活セル動物ヲ圏養ス」が開始されました。この内山下町の展示施設こそが、後の上野動物園につながる第一歩でした。やがて、この内山下町博物館と、その付属施設である動物展示場を最終的に上野へ移す計画が立てられ、明治11年(1878)に工事が始まるのです。

動物集めにおおわらわ

 日本初の動物園として、人々の期待を裏切ってガッカリさせるわけにはいきません。職員たちは一丸となり、動物集めにおおわらわです。

「園養動物表」に見る黎明期のスターたち

 明治8年(1875)時点の記録によれば、当時の内山下町博物館(上野動物園の前身)で飼育されていたのは、哺乳類15種、鳥類12種、爬虫類2種など、合計34種と70点。その多くは日本国内で集められたものでした。

 内訳を見ると、当時の苦労が見て取れます。

 陸軍省からは台湾産の「ヤマネコ」が届けられ、北海道からは「オットセイ」がやってきました。記録には、オットセイの餌として1日に大イワシ25匹(代金15銭)と記されています。

 また、価格の記録も興味深いものです。琉球産のワシが7円余りだったのに対し、北海道産のシマフクロウはわずか50銭。当時はまだシマフクロウが身近な存在だったことが伺えます。そんな中、最も高価だったのは、横浜の華僑から買い付けた中国広東省産の「水牛」で、なんと156円。現在の価値にしたら相当な高額ですが、この水牛は上野に移ってからも、珍しい外来種として不動の人気を誇るスターとなりました。

 その他、狐や狸なども集めています。ウィーン万博の団長だった佐野常民がオーストリアから持ち帰ったつがいのウサギもいました。これらの動物たちが後に上野動物園へ引き継がれます。

職員や有力者も協力。「ニホンオオカミ」への執念も…

 しかしまだまだ動物の数は足りません。動物集めには、職員の他に当時の要人たちも一役買いました。

 初代博物局長を務めた町田久成は、自らキジ3羽と故郷・鹿児島から取り寄せたミツバチ1箱を寄贈。のちに帝国博物館長となった山高信離(のぶつら)は、自分のペットとして飼っていた“クヨク”と言う鳥を持って来ましたが、これはハッカチョウか九官鳥ではないかと思われます。伊藤博文は東北で捕獲されたツキノワグマを贈り、海軍省は朝鮮半島産のツキノワグマ(当時の呼称はチョウセンクロクマ)を献納しました。

 さらに、当時日本に招かれていた「お雇い外国人」たちも協力します。フランス人のジョルジュ・ブスケは、北海道旅行の際に手に入れたエゾシカのつがいを寄贈しました。一方で、彼ら外国人は日本独自の希少動物(ニホンオオカミ、ニホンカモシカ、トキなど)を本国へ送る拠点としても博物館を利用していたようです。

 そんな中、博物局がどうしても手に入れたかったのが、日本の肉食獣の象徴である「ニホンオオカミ」でした。岩手県に対し、「まだ当館にはオオカミの子供がいないので、ぜひ4頭購入したい」と依頼。予算10円を提示しましたが、岩手県側が捕獲した個体は次々と死んでしまいます。

狼のイラスト
狼のイラスト

 ようやく「手に入った」との連絡が来たものの、岩手県からは「生け捕りは難しく、餌の肉代や頑丈な檻の製作費がかさんだ。代金として22円22銭を頂きたい」と、当初の倍以上の価格を提示されました。これには博物館側も「収容場所の確保が難しい」と回答を濁し、結局この交渉は立ち消えになってしまったという、なんとも世俗的なエピソードも残っています。

上野動物園の開館

 明治15年(1882)、内山下町博物館は上野公園に移転し、後の東京国立博物館となります。同時に動物飼育場も博物館付属施設として移転、ここに初めて「上野動物園」と名乗る動物飼育・展示場が開設されました。

 同年3月20日、明治天皇の行幸を仰ぎ、上野動物園と東京国立博物館の開館式が挙行されます。式が終わったのち午後2時半からは早速一般公開され、待ちかねていた来園者がぞくぞくと入園しました。前年の4月7日に内務省から農商務省が分離し、博物局は農商務省の所属になっていたので、この時の上野動物園は博物局天産課に付属しています。

 当時の上野動物園は樹齢300年を超える杉や松・樅の木などの大樹がうっそうと生い茂り、東照宮寄りの敷地は森林のような様相を呈していました。開園当時の主な施設は鳥獣室・猪鹿室・熊檻・水牛室・水禽室などで、哺乳類では朝鮮黒熊・狐・狸・水牛・蝦夷鹿などが、鳥類では丹頂鶴・真鶴・真雁・鴛鴦・鳶などが飼われていました。

 9月20日には園内の観魚室が公開され、日本最初の水族館として観覧客に公開“うおのぞき”と言う名前で親しまれます。大山椒魚が呼び物で、金魚や鯉・鮒などが飼われていました。

その後も増える動物たち

 開園後も精力的に動物を集めていきます。翌16年2月には、軍艦筑波がオーストラリアから持ち帰ったカンガルー1頭がやって来ます。

 実は、カンガルーに関しては興味深い裏話があります。上野動物園が開園する前年の明治14年、イギリスから皇后陛下宛てにカンガルーが贈られていました。しかし、このカンガルーは内山下町博物館で飼われた後、上野ではなく、現在の新宿御苑内にあった「新宿動物園(宮内省主猟局動物飼育場)」に移され、そこで繁殖にも成功しています。

 この「新宿動物園」では、フタコブラクダや熊、獺(カワウソ)などが飼育されており、実は一般非公開の皇室専用の動物園でした。人目にさらされず、ストレスの少ない環境だったため、ここでは動物たちがよく繁殖しました。ここで増えた丹頂(タンチョウ)やカンガルーが上野動物園へと送られ、展示を支えるという協力体制が築かれていたのです。

 新宿動物園は、もともと狩猟用の鳥獣の増殖を目的としていましたが、大正13年(1924)に上野動物園が東京市に移管されたときに廃止になりました。

おわりに

 日本初の近代動物園として誕生した上野動物園。福沢諭吉が言葉を与え、田中芳男や町田久成といった先駆者たちが「文明の証」として情熱を傾けたこの場所は、今や年間300万人を超える日本一の入園者数を誇り、日本を代表する動物園として活動を続けています。


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  この記事を書いた人
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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