西郷隆盛と大久保利通の友情…実は最後まで失われなかった信頼関係

  • 2026/06/10
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「死生訂命とか肝胆相照とかいう言葉を今一層超越したちょっとは想像のつかぬ友情」
佐々木克監修『大久保利通』

 大久保利通の次男・牧野伸顕は、父親と西郷隆盛の仲をそう表現しています。周囲があの2人の友情は本人達にしか分からないと言い、大久保自身も「西郷の心が分かるのは俺だけだ」と語り、西郷について伝記を書かせるつもりだったといいます。

 2人は、一般的には明治六年政変で絶縁したと思われているようですが、実はその信頼関係は最後まで失われていなかったのです。

 今回は、西郷隆盛と大久保利通の友情について掘り下げます。

若い頃の西郷と大久保

 西郷と大久保は、同じ鹿児島城下の下加治屋町(現・鹿児島市加治屋町)で生まれ育ち、幼い頃から親しかったと解説されることもありますが、それは厳密には正確ではありません。

 大久保は下加治屋町とは川を挟んで向かい側の高麗町で生まれ、その後しばらくして一家は下加治屋町に転居したといいます。ですが、父の仕事の関係で琉球館の役宅に住んでいた時期もあったようで、大久保18歳の嘉永元年(1848)の日記では、西郷と知りあいだったことは確かですが、普段からよく会う仲ではなかったことがうかがえます。

 おそらく、西郷と大久保が親密になったのは、大久保の父・利世が喜界島に遠島となった、嘉永3年(1850)の「高崎崩れ」(お由羅騒動)という島津家のお家騒動以降でしょう。嫡男である大久保も記録所書役助を免職となり、収入が途絶え困窮する中、母と妹達3人を守らなければなりませんでした。

 その頃、西郷は郷中の二才(にせ)頭を務めていました。二才頭とは、薩摩藩独特の教育制度・郷中教育において、各郷中の青少年達をまとめるリーダーのことです。西郷は二才頭として、生活に困っていた大久保を手助けし、より親しくつきあうようになったのでしょう。

「この二人が一緒におらぬことは稀」
(佐々木克監修『大久保利通』より)

と、言われる程です。

「大久保は親友だ」と言った西郷

 やがて西郷と大久保は、薩摩藩内でそれぞれ頭角を現します。西郷は藩主・島津斉彬に重用されたことを皮切りに、主に軍事面を担い、大久保は国父と呼ばれた島津久光の側近として出世し、藩政に携わるようになります。

 2人は緊密に連携しながら、慶応3年(1868)12月9日の王政復古クーデターを成し遂げ、その後の戊辰戦争などを経て、明治新政府でも重要なポストに就きました。しかし、明治6年(1873)の明治六年政変(征韓論政変)で2人の意見は対立、政変に敗れた西郷は鹿児島に帰り、おそらく2人の間では手紙のやり取りも途絶えたのでないかと考えられます。

 廃藩置県後、秩禄処分や廃刀令など矢継ぎ早に出される政策に、生活が困窮していたこともあり、鹿児島県士族達の不平不満が爆発。ついに明治10年(1877)2月、西南戦争が勃発します。

 西郷は出発直前、挙兵準備に全面的に協力した鹿児島県令・大山綱良に対し、「大久保は親友だ」と言ったといいます。

一体大久保は足下承知の通り幼年より一家親子同様の交りをなしたる者故、拙者に
於て疑いあれば上京を申越すか、又自から帰県してその事情を談ずるか、又委しき
書面にても差越すべき筈なり
『鹿児島一件書類』

 つまり、大久保とは家族同然のつきあいをしていたのだから、会おうとするか手紙をよこすか、いずれにせよコンタクトを取ってくるはず…と西郷は考えていました。西郷は「政府に尋問の筋これあり」として挙兵しましたが、政府としての思惑を、直接大久保に会って糺すつもりでいたようです。

 挙兵の理由とされた「西郷隆盛暗殺計画」に、いよいよ大久保も関与していると考えざるを得なくなった時(実際に関与したかどうかは微妙)、西郷の心境はいかばかりだったのでしょうか。

「今でも逢えばすぐ分かる」西郷に会いに行こうとして止められた大久保

 実は一方の大久保も、なかなか西南戦争への西郷の関与を信じようとせず、なんとか西郷に会おうとしました。しかし、周囲に鹿児島行きを強く反対されて断念。大久保なら、たとえ自分が殺されようとも絶対に西郷に会おうとするだろう、殺されては困る、と周囲は考えたようです。

「今でも逢えばすぐ分かるのだ、逢えばなんでもないのだが、逢えぬので困る」
(佐々木克監修『大久保利通』より)

 大久保は部下に対し、上記のように言ったといいます。お互いに、自分達が会って話せばなんとかなるはずだと思っていても、2人の立場がそれを許しませんでした。

 西郷は9月24日に鹿児島・城山で戦死し、西南戦争が終結します。大久保も翌年5月14日に暗殺されましたが、相次ぐ2人の死を「西郷と大久保は刺し違えた」と評する人もいます。
 

西南戦争後も続いた、西郷家と大久保家の交流

 西南戦争により、西郷は天皇に刃向かった賊とされ、西郷家と大久保家は敵味方に分かれましたが、その後も交流は続いていました。大久保の次男・牧野伸顕と西郷の庶長子・菊次郎は、同時期に留学していたこともあり、ずっと親しくしていたようです。

 西南戦争勃発の直接的な要因となった、鹿児島県士族の政府火薬庫襲撃の報告を受けた際、西郷が「ちょしもた!(しまった!)」と言った話は有名ですが、菊次郎は牧野に手真似も交えてその時の様子を話したといいます。

 武士には、たとえ敵同士となっても私的なつきあいはまた別だという感覚があったようで、明治になってもそれは変わりませんでした。牧野は『回顧録』で、「大体西郷家と大久保家は今日まで非常に親密な間柄」であり、「事実二重の婚姻関係で結ばれている」と語っています。

おわりに

 「親友」同士の2人ですが、西郷の方が3歳年上となるため、現代的なニュアンスとは違い対等な関係ではなく、西郷の方が兄貴分でした。大久保の家来筋の者とのトラブルを、西郷が大久保家に来て自分の家のことのように処理し、大久保も黙って任せていたという話もあります。

 とにかく2人の仲が尋常ではないほど深かったことは、当時から周知の事実でした。困った時にはお互い助けあい、支えあいながら、2人は見事な役割分担で倒幕を成し遂げ、明治新政府の樹立に多大な貢献をしました。

 明治になると、2人は方向性や背負っているものの違いから、次第に進む道が分かれていきます。しかしそれでも、最後まで信頼関係は変わらず、それは次世代以降にも受け継がれたのでした。

【参考文献】
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  この記事を書いた人
物心ついた時には歴史好きでした。 2018年に歴史新書『村田新八』(洋泉社)を共著で出版。 日本史や中国史など歴史は幅広く好きですが、特に幕末維新の薩摩藩を専門にしています。

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