【風、薫る ガイド】第3回:断髪のクールビューティー 生涯の盟友・鈴木雅との出会い

  • 2026/05/19
:フリーライター
当時の九段界隈の絵図、路上にあった観光看板
当時の九段界隈の絵図、路上にあった観光看板
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連載初回がまだ未読の方はこちら【風、薫る ガイド】第1回をご覧ください。

職業教育の先駆者マリアが築いた看護の礎

 「看護婦」という言葉は明治時代初期にはすでに医学用語として存在したが、この頃の世間ではまだ馴染みがない。しかし、トレインド・ナースの育成にかかわる者たちは、従来の「看病婦」や「看病人」と区別するためにこの言葉を好んで使ったという。明治 17 年(1884)、大山捨松が鹿鳴館で催した慈善バザーの収益をもとにして、日本初の看護学校が設立されたのだが、その名称も看護婦教育所(現在の慈恵看護専門学校)だった。また、和が入学した桜井女学校附属看護婦養成所も〝看護婦〟を用いている。

 桜井女学校附属看護婦養成所の運営母体である桜井女学校は、明治 9 年(1876)に創立されたミッション系女学校の草分け的存在である。女学校を経営するアメリカ長老教会から、学校の管理を一任されていた女性宣教師マリア・トゥルーは、日本の女性たちが自立するためには職業教育が必要だと考えている。

 看護婦養成所の設立もそのため。看護婦の仕事は人々への奉仕や社会福祉にも貢献できる。トレインド・ナースは欧米で人々から尊敬され、高い報酬が得られる仕事。日本でもいずれそうなるはずと信じていた。

 資金を集め、関係省庁をめぐり開校の認可を取り付け、看護を学ぶのに必要な教本を海外から取り揃え、講師を探す等々。マリアは精力的に動きまわる。その努力の甲斐あって、明治 19 年(1886)に東京で2番目となる看護婦養成所の開校を実現させた。

生涯の盟友・鈴木雅との出会い

 桜井女学校は番町(現在の千代田区の一部)の東郷坂に面してある。ミッション系の私立校は官立の女子師範学校などに比べて自由な校風が多いのだが、この学校はとくにそう。校主(校長)矢嶋楫子の方針で、ここには校則が存在しない。「あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい」というのが矢嶋の口癖だった。

東郷坂(東郷通り)
東郷坂(東郷通り)

 校舎は洒落た感じの洋館で、看護婦養成所も同じ敷地内にある。明治 23 年版の『女学雑誌』によれば生徒数は 145 名、その約4割にあたる 54 名が地方出身者だった。学校敷地内に寮を完備していることもあり、他校と比べると地方から入学者が多かったようである。また、看護婦養成所のほうは全寮制で、東京に家がある者も在学中は寮で暮らすことが義務づけられていた。

 看護婦養成所は2年制。前期の1年間はこの教室で基礎医学や看護学などの講義を受け、後期 1 年は病院での実地訓練が予定されている。一期生は 8 名で、20 歳前後の若い娘ばかり。28 歳で子持ちのバツイチの和は……彼女たちと一緒にやっていけるのか、ちょっと不安だった。それだけに、同期生の中にひとりだけ、自分より1歳年上の鈴木雅がいたことで救われた気分になる。

 養成所の制服は濃紺のワンピースにエプロン掛け、ナイチンゲール・スタイルと呼ばれる近代の看護婦像を象徴するスタイルだ。が、日本髪は似合わない。そのため、和をはじめ生徒たちは、欧米人の女性のように長い髪を束ねてまとめていた。

 しかし、雅だけは「短くしたほうが邪魔にならない」と、ばっさりと断髪。この時代の女性にはかなり珍しいショートヘアで入学式に臨んだという。この頃の感覚だとスキンヘッドにするくらいのインパクトがある。雅は徹底した合理的思考、常に冷静沈着なクールビューティー。看護婦養成所に入る前には、横浜のフェリス・セミナリー(現在のフェリス女子大学)で英語を学んでいる。8人の同期生の中でも最も流暢に英語を操る才女だった。

 性格や漂う雰囲気がまったく違う和と雅だが、2人とも武家の出身で、離婚と死別の違いこそあれ子持ちのバツイチというのも同じ。境遇に共通点が多く、お互い親近感が湧いたようだった。ふたりは寮でも同室で、すっかり親友といえる仲になっている。

 講師として雇ったアグネス・ヴェッチの来日が遅れて開校には間にあわない。そこで桜井女学校の生徒だった峯尾ゑいが臨時講師となり、ナイチンゲールの著書『Notes on Nursing』を翻訳して生徒たちに聞かせる授業がおこなわれた。看護の定義を詳しく説明したこの本は、現在も看護師たちのバイブルとして読まれているという。

 峯尾の英語の成績は学年トップ・レベル。だが、医学はまったくの素人だ。浣腸器や検温器など機器の名称と用途について、本に書いてあることを翻訳できても、それをどのようにして使うのかは知らない。養成所には実習用に取り寄せた欧米の医療機器も揃えてあり、生徒から「使い方を教えてください」と聞かれるのだが、本に書いていないことの説明を求められても彼女に分かるわけがない。

「私の説明は何をいっているのかわからないと、よく文句をいわれました。そのたびに大関さんが大きな声で一生懸命弁解してくれたことを覚えています」

 これは峯尾が晩年になってから、キリスト教系団体同人誌の取材を受けた時のコメント。人が困っているのを見てほうっておけず、必死になって庇ってしまう。ここでも和の性格の一端が垣間見られる。

帝国大学病院の看病婦取締に就任

 11 月になってやっと講師のアグネス・ヴェッチが着任する。彼女はナイチンゲール看護学校を卒業した一期生、病院での実務経験も豊富なベテラン看護婦だった。

 前期1年間はアグネスから基礎医学や看護学の講義を受ける。彼女が早口で喋る言葉には難しい専門用語も多く、英語を学んだ和でも話が理解できないことがよくあった。通訳を任された雅が、それを澱みなく日本語に訳して生徒たちに説明する。抜群の英語スキルにくわえて準備も怠りない。授業の前日には分厚い辞書を広げ、難しい専門用語を調べあげて授業に備えている。優秀な通訳であり最も勉強熱心な生徒だったという。

桜井女学校からも近く、和が洗礼を受けた一番町教会跡地(現在の千代田区三番町付近)
桜井女学校からも近く、和が洗礼を受けた一番町教会跡地(現在の千代田区三番町付近)

 この頃は、帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)附属第一病院でも、近代的な看護法の導入が検討されていた。同病院内で「看護法・看病術実地訓練」をおこなうことになり、アグネスが講師を依頼される。それが縁で桜井女学校看護婦養成所の生徒たちも、委託生として訓練への参加が認められた。明治20 年(1887)10 月、前期の講義を終えた和たちは、附属第一病院に出向いて実地訓練に参加した。

当時、附属第一病院のあった場所。画像の建物はその後に建てられたもの
当時、附属第一病院のあった場所。画像の建物はその後に建てられたもの

 この病院は日本で最大級の医療施設で、最先端の医療機器を取り揃えている。が、そこで働く医師たちの思考回路は古臭い。権威主義に囚われてエリート意識が高く、看病婦などは小間使いの使用人としか思っていない。身の回りの世話まで言いつけてきたりする。

 しかし、看病婦の実情を見れば、見下されて仕方がないところもある。血と膿にまみれる汚い仕事であり、また、男性患者の肌に触れることもある。普通の女性だと尻込みして、多少賃金が良くても成り手がいない。そのため、この病院は吉原の遊郭で遣手婆を引退した者を雇用して頭数を確保していた。彼女らは看護の知識がなく感染症に知識もないから、平気で血や膿がついた包帯を素手で触る。また、患者のベッドの横で長煙管の煙草を吸いながら談笑するなど、仕事に対する意識やモラルも低かった。

三四郎池。かつての帝大附属第一病院は三四郎池に隣接してあった
三四郎池。かつての帝大附属第一病院は三四郎池に隣接してあった
東京大学の象徴である赤門
東京大学の象徴である赤門

 病院の実態を知った和は唖然となってしまう。欧米の病院にいる医師や看護婦はみんな、素晴らしい技量と高い意識を持って仕事をするプロフェッショナル集団だと、アグネスからそんな話を聞かされ、期待に胸弾ませていた。自分もそういった場所で働き、スキルを磨きあげたい……しかし、ここでは権威主義が服を着たような医師と、看病婦たちのスキルや意識の低さに呆れるばかり。

 直情気質の和は黙っておれず医師に意見し、看病婦たちが目に余ることをやらかすと注意したりするようになる。そのため医師たちは「生意気な女」と嫌い、看病婦たちには煙たがられた。プライドを傷つけられた医師から怒鳴られたこともあり、研修期間中は色々と軋轢を生んでいた。

 しかし、病院上層部の彼女への評価は意外と高い。明治 21 年(1888)10 月に実地研修を終えて桜井女学校看護婦養成所を卒業した後、引き続き医科大学附属第一病院外科で働くことになる。しかも、外科看病婦取締という役職まで与えられた。これは現在の看護師長に相当し、大勢の看病婦たちを監督指導する立場にある。また、雅も同じく内科看病婦取締となり医科大学附属第一病院で勤務することになった。当時、外科のトップにある佐藤三吉教授などは「大関は僕の友人である」と公言して、医師と同格に扱っていたという。

看護婦取締就任後、和は団子坂に借家を借りて家族と同居。ここから第一病院に通って働いていた
看護婦取締就任後、和は団子坂に借家を借りて家族と同居。ここから第一病院に通って働いていた
佐藤三吉教授の銅像
佐藤三吉教授の銅像

 和は頭の回転が早く適切な判断ができるうえに肝も据わっている。不測の事態が起きても、テキパキと動いてくれるから現場では頼りになる存在だった。また、この病院は華族や高級官僚などの上流階級の患者が多い。上流階級の人々は看護婦にもそれなりの家柄の者を求める傾向があり、家老の娘という由緒ある家柄の彼女がいてなにかと助かる。そこも大きく加点評価されていたようだ。

※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
  この記事を書いた人
歴史、紀行、人物伝などが得意分野なフリーライター。著書に『首都圏「街」格差』 (中経文庫)、『浪花千栄子』(角川文庫)、 『江戸三〇〇藩城下町をゆく』(双葉社)、『戦術の日本史』(宝島文庫)、『戦艦大和の収支決算報告』(彩図社)などがある。ウェブサイト『さんたつ』で「街の歌が聴こえる』、雑誌『Shi ...

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