【風、薫る ガイド】第1回:美人と評判の家老の御令嬢だが、取り扱いは難しい……

  • 2026/03/27
:フリーライター
大関 和の肖像(『実地看護法 5版』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
大関 和の肖像(『実地看護法 5版』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
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 近代看護の先駆者である大関 和(おおぜき ちか)は、今年3月末から放送が始まる NHK 朝ドラ『風、薫る』の主人公モデルとしてもいま注目を集めている女性だ。彼女が「日本のナイチンゲール」と称されるようになるまで、彼女の生い立ちを遡り詳しく見てみよう。

黒羽藩家老の御令嬢 「明日からは乞食」と言われ…

 安政5年(1858)5月23日、和は黒羽藩で家老を務める大関弾右衛門の次女として生まれた。

 黒羽藩は下野国(栃木県)北部の那須地方にある1万8000石の小藩ながら硫黄採掘で財政は潤い、最新の銃火器を揃えて精強な軍事力を保有する「下野国の雄藩」とされ、一目置かれる存在だ。それもこれも弾右衛門の功績が大きい。若くして家老に抜擢された彼は藩政改革に尽力し、硫黄鉱山の開発も彼の主導によるものだった。

宿場町のほうから、那珂川と対岸の黒羽城跡の丘陵を望む
宿場町のほうから、那珂川と対岸の黒羽城跡の丘陵を望む

 奥州と北関東を結ぶ関街道は、黒羽の宿場で那珂川と交差する水陸交通の要衝。宿場町に隣接する河岸には領内で採掘された硫黄を詰めた樽が大量に積まれ、舟で各地に運ばれてゆく。戊辰戦争が始まってからは、硫黄の需要が急増している。明治元年(1868)3月に江戸城が無血開城した後、戦火は北関東にも及び、いまは東北地方で会津藩と新政府軍が壮絶な戦いを繰り広げている。

那珂川、かつての川港があったあたり
那珂川、かつての川港があったあたり
黒羽宿の風情が残る街並み
黒羽宿の風情が残る街並み

 黒羽城(黒羽陣屋)は宿場町とは那珂川を挟んだ左岸側、対岸の宿場や街道を見下ろす丘陵地にある。丘の頂から麓に向かって本丸、中の丸、北の丸などの曲輪が階段状に配置され、さらにその外周は広大な三ノ丸に囲われている。丘陵の全域に縄張りされた城塞は、下野国でも有数の規模を誇る。

黒羽城跡(黒羽陣屋)
黒羽城跡(黒羽陣屋)

 麓の城戸から城内に入ると、本丸へとつづいて真っ直ぐ伸びる坂道に沿って家臣団の屋敷が建ちならぶ、大手通りにあたる道がまっすぐに伸びている。弾右衛門の屋敷もこの付近にある。

大関弾右衛門の屋敷跡付近からの眺望、黒羽藩領が一望できる
大関弾右衛門の屋敷跡付近からの眺望、黒羽藩領が一望できる
黒羽城跡(黒羽陣屋)
黒羽城跡(黒羽陣屋)

 黒羽藩も新政府からの要請に応じて奥州の前線に藩兵を派遣している。また、藩庁でも物資調達や新政府との折衝で大忙し。本来であれば弾右衛門がその陣頭指揮あたらねばならぬ立場だが……彼は屋敷に引き籠って騒ぎを傍観している。すでに家老職を辞していた。

「家禄も屋敷も返上して、明日からは乞食をすることになるかもしれぬ。これも、大関弾右衛門の子に生まれし不幸を思って諦めよ」

 藩に辞表を提出した日には、そう言って家族にも覚悟を求めた。家禄や屋敷を返上して藩領内から退去するつもりだった。

 和はこれまで、家老の娘として何不自由なく暮らしてきた。それが明日からいきなり、住む家もなく路頭に迷うことになるかもしれないのだ。想定外の事態に思考が追いつかず、苦悶に満ちた父の表情を呆然と眺めつづけたという。

父は空気の読めない頑固者 その性格を娘も受け継いだ!?

 文久元年(1861)に第15代藩主となった大関増裕(ますひろ)は、弾右衛門を家老に指名して果敢な藩政改革を実行する。弾右衛門の大関家は、その名字からも分かるように藩主の縁戚にあたる。200石の上士ではあるが、当時はまだ若輩者。年功序列の慣例を無視した大抜擢だった。

黒羽神社境内にある大関増裕像
黒羽神社境内にある大関増裕像

 弾右衛門の活躍もあり、藩政改革に成功した黒羽藩の成果は幕府からも注目されるようになる。藩主の増裕も切れ者として幕閣の評判が高まり、慶応2年(1866)に新設された海軍奉行に任じられ、翌年には若年寄にも就任した。幕府では老中に次ぐ要職だが、増裕は気乗りしない。彼は幕府の命運が尽きているのを悟っていた。

 増裕は若年寄就任からまもなく、大政奉還後も京に居座り薩長勢力と睨みあっていた徳川慶喜から上洛を命じられる。その準備を理由に江戸から国元に帰るのだが、このまま幕府に従うか討幕勢力に鞍替えするかで悩んでいたという。

 そして、黒羽に戻ってから気分転換に狩猟にでかけ、獲物を追って金丸八幡宮(那須神社)社殿裏手の雑木林に入ったところ……猟銃の暴発事故であえなく即死してしまう。当時は自殺説や他殺説など様々な噂が流布した。

那須神社(金丸八幡宮)、大関増裕の死亡事故現場
那須神社(金丸八幡宮)、大関増裕の死亡事故現場
黒羽藩主大関家の菩提寺・大雄寺と大関増裕の墓
黒羽藩主大関家の菩提寺・大雄寺と大関増裕の墓

 増裕が亡くなると、改革の抵抗勢力がとたんに息を吹き返して藩政を牛耳るようになる。弾右衛門は主君の意思を受け継いで、改革に逆行するような施策には苦言を呈しつづけた。そのため「頑固で面倒臭い男」と疎まれて孤立し、家老職を辞することになってしまう。

 弾右衛門は経済通で鉱山運営などの実務にも長けている。藩としても失うには惜しい人材だったが、空気が読めず協調性がないのが弱点。そして、この困った気質は和にも受け継がれることになる。

気乗りしなかった〝年の差婚〟不誠実な夫に愛想が尽き果て……

 明治9年(1876)、和は18歳で結婚した。結婚相手の渡辺福之進も元・黒羽藩士。40歳の中年男だが、多くの田畑を所有する資産家の地主だった。父の弾右衛門はこの縁談に大乗り気である。

 弾右衛門は家老職を辞した後、藩主の未亡人・於万の方に慰留されて藩に居残り、権家知事という〝窓際族〟に追いやられて辛酸を舐めた。廃藩置県後、近隣の白河県(現在の福島県白河市周辺)に雇用されて単身赴任するが、病を患ってすぐに辞職し、いまは帰郷して養生している。病を患ってからはすっかり気弱になり、娘の将来が気にかかる。金で苦労せず生きられるよう、富裕な家との縁談を画策したようだ。

 しかし、和は気乗りしない。2歳の年齢差にくわえて、福之進には複数の妾がいる。それが嫌だった。

 父親譲りの頑固な気性で、自分の意思を絶対に曲げない。嫌なものはきっぱり「ノー」と拒絶する、この時代の女性には珍しいタイプだった。ふだんの彼女であれば、すぐに断っていたはず……だが、病を患ってから塞ぎ込んでいた弾右衛門は「良縁だ」と喜び、最近はよく笑うようになった。その笑顔を曇らせることはしたくない。親孝行のためと割り切って、結婚することにした。

 それから1年ほど過ぎた明治10年(1877)に和は男の子を産んだ。が、この時に夫が息子に「六郎」と名付けたことから彼女の不信感が高まる。

 はじめて産まれた子供になぜ〝六〟の字をつけるのか?と、福之進を問い詰めると、すぐに白状した。彼は妾たちに大勢の子供を産ませていた。男子だけでも5人、だから6人目となる和の子に六郎と名付けたのだと言う。また、複数の妾や愛人との関係が、いまもつづいているようだった。

 和は「妾と別れる」ことを条件に結婚を承諾したのだが、福之進は口約束など最初から守る気はなく、バレた時にも「それの何が悪い」といった感じで開き直った。

 和は嘘がつけない正直者、相手も自分と同じに考えてその言葉をすぐに信じてしまう。騙されやすい。また、正直者は嘘が大嫌い、騙されたと気づいた時の怒りは凄まじい。

「別れなければ、私は実家に帰らせていただきます」

と、激しく詰め寄る。この時、福之進は妾と別れることを再度約束して事を納めたが、その気はない。金を稼ぐ手段もない女が、幼い子を抱えて家を出ていけるはずがない。と、ナメて開き直っている。

 また、当時は金と地位のある者が妾を囲うのは普通のこと、世間から後ろ指を指されるようなことはない。だから、彼には罪悪感はなく、和の怒りが理解できない。若い妻のワガママくらいにしか思っていなかった。

 和も当時の世間の〝常識〟は知っている。たとえ常識であっても、嫌なものは嫌なのだ。そんな妻の気性を福之進はいまだ理解しておらず、後で痛い目を見ることになる。

 福之進と妾との関係はその後もつづいた。さすがに正直者の和も、それには気がついている。いつまでも不義理な夫を許しつづける気はない。明治13年(1880)に長女を妊娠すると、出産のために実家に戻るのだが。この時すでに離婚を決断し、もう二度と夫のところにも戻る気はなかった。

 さて、この時に和が出産のために戻った〝実家〟は、どこにあったのか?

 和が嫁いで間もない明治9年(1876)5月に弾右衛門は亡くなっていることは間違いない。が、その後に実母のテツや弟妹は東京に転居し、和も東京に住む母のもとに行ったという。その一方で、弾右衛門の存命中すでに一家は東京に転居していたという説もある。

 また、大関家は弟の復彦が相続し、当時は黒羽にある屋敷も健在。実母テツや妹がそこに同居しており、和が里帰りした〝実家〟はそこだったという説もあり……で、どの説にも確証はない。

 どちらにしても長女を出産した後、和は〝実家〟に居座りつづけて、二度と夫のもとには帰らなかった。それだけは間違いのない事実だ。和の強情さに辟易して気持ちが冷めていた福之進も、離婚は仕方がないとすぐに了承したという。しかし、六郎は大切な嫡男だけに取り戻そうと強硬手段に出たり、法に訴えたりしたようだが。結局はこれも和の強情さに負けて諦めるしかなかった。

 離婚はなんとか成立した。が、そこからが大変。父が残してくれた蓄えは底を尽きかけている。自活の道をみつけねば、幼いふたりの子供とともに野垂れ死ぬかもしれない。

 文明開花の世、近代化は急速に進んでいるのだが、女性の社会進出にはまだまだ高いハードルが立ちはだかっている。その前途は多難だった。

※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
  この記事を書いた人
歴史、紀行、人物伝などが得意分野なフリーライター。著書に『首都圏「街」格差』 (中経文庫)、『浪花千栄子』(角川文庫)、 『江戸三〇〇藩城下町をゆく』(双葉社)、『戦術の日本史』(宝島文庫)、『戦艦大和の収支決算報告』(彩図社)などがある。ウェブサイト『さんたつ』で「街の歌が聴こえる』、雑誌『Shi ...

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