【風、薫る ガイド】第2回:看護の知識と技術を身につけた専門職トレインド・ナース(Trained Nurse)をめざす決意をする
- 2026/04/24
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神田五軒町、そこは東京のなかの「黒羽」だった
大関和が出産のために里帰りした〝実家〟は、黒羽なのか東京なのか?それについては諸説あるのだが、離婚が成立したのが明治14年(1881)頃というのは間違いない。政府のインフレ抑制策が失敗し、あらゆるモノの価値が急落するデフレが発生した年である。米価も急落し、地方の農村では遊郭などに身売りする娘も増えていた。黒羽の河岸では、女衒に連れられ舟に乗る娘たちの姿がよく見かけられる。もしも、和の〝実家〟が黒羽にあったのなら、彼女もまたこの頃に河岸から舟に乗り、上京の途に着いていたはずだ。
上京後に和が住んだ神田五軒町(現在の千代田区外神田)は、江戸時代に5つの大名屋敷が建っていたことが町名の由来。かつて黒羽藩大関家の上屋敷もここにあった。
新政府は接収した大名屋敷や旗本屋敷の農地転用を推し進め、約102万坪の武家地が桑畑や茶畑となり、当時の都心部は農村のような眺めになっていたという。黒羽藩邸も取り壊されて桑畑になっていたが、敷地の一部はいまだ大関家が所有している。そこに旧藩士や藩にゆかりの者たちが集まって暮らすようになり、和もふたりの子供と母の哲、妹の釛と一緒にここで家を借りて暮らした。
桑畑に囲まれた一角に小さな家々が建ちならぶ。そこで暮らす者たちは知った顔ばかり。早口の江戸弁を話す者などおらず、みんな平坦なアクセントと濁音の多い北関東特有の訛り言葉を話す。なんだか、まだ黒羽にいるような錯覚をおぼえる。ここなら、上京してきたばかりの田舎者も安心だった。
大山捨松が主催した鹿鳴館の慈善バザーに参加
落ちぶれたとはいえ大関家は名家。家老の娘という和の肩書きは東京でも威力を発揮し、上京してからは上流階級の人々と交流する機会も多くなっている。明治17年(1884)6月12日には、鹿鳴館で3日間にわたる大規模な慈善バザーが開催されたが、そこにも、和が参加した記録も残っている。このバザーは〝鹿鳴館の花〟と謳われた大山捨松を中心とする華族の夫人たちの主催でおこなわれたもの。収益は有志共立病院(現在の東京慈恵医科大学附属病院)に寄付して日本初の看護婦学校の設立資金に充てることになっていた。
この頃の和は、医療や看護に関する知識がなく興味もない。上流階級との人脈づくりを目的に参加したようだ。彼女はもともと社交的なタイプなのだが、この頃は何か必死な雰囲気が漂う。上京してから3年が過ぎても、いまだに自活の目処が立っていない。蓄えも減る一方で、焦っていたようだった。
和が上京してきた目的は自活して働くことにある。黒羽のような田舎で女がまともな職に就くことは不可能だが、近代化が急速に進んでいる首都・東京なら道が開けるはず。そのためには、上流階級での人脈作りや情報収集が欠かせない。
文明開花の世を生きるのに、最も役立つスキルは何か?と、それについても考えるようにもなっていた。そして和がみつけた答えが「英語」だった。これは交流のあった高級官僚の鄭永慶の影響が大きかったようである。鄭は近松門左衛門の『国姓爺合戦』のモデルとなった鄭成功の末裔で、江戸時代から代々が長崎奉行所で通訳を務めてきた家柄。彼もまた複数の外国語を使いこなすマルチリンガルだった。
「文明開花の世を生きるのに、外国語は強力な武器になる」と、和はそれを確信するようになっていた。鄭からも初歩的に英語を教わったが、もっと本格的に……通訳や翻訳者として仕事できるほどのスキルを身につけたい。明治の世では売り手市場の業種、英語が堪能であれば、女であることの不利を十分に補完できるだろう。と、英語学校に入って学ぶことにした。
当時の東京にはキリスト教会が主催する英語学校や英語塾が多くあった。維新後に禁教は解かれたが、人々にはまだ邪教のイメージが根強く残っている。普通に布教活動したのでは警戒されてうまくいかない。そこで英語学校を各地に設立し、英語学習を通じてキリスト教の教えを伝えようとした。欧化政策を推進する政府も、英語語学校には好意的ですぐに認可してくれる。
和が通うことになった「正美英語塾」も、主催者の植村正度は「日本プロテスタントの父」と呼ばれた植村正久牧師の実弟。キリスト教会との関係は深い。教材にも聖書が使われ、和も英語学習を通じてキリスト教の教えを知る。生涯ひとりの伴侶と添い遂げることを求める聖書の一文に、前夫の妾の存在に苦しんだ彼女は大きな感銘をうけた。
「日本のナイチンゲール」の誕生
英語学校には主催者の兄である植村牧師も頻繁に訪れる。和も彼と話をするうちに、人柄に惹かれて心酔するようになっていた。とある日にその植村牧師が、「看護学を学んでトレインド・ナースになってみませんか?通訳よりもそちらのほうが、あなたに向いた仕事だと思います」と、和に言ってきた。トレインド・ナース(Trained Nurse)とは正式な看護教育を受けて知識と技術を習得した看護婦のこと。イギリスでは1860年にナイチンゲール看護学校が設立され、専門的な看護教育がおこなわれるようになった。欧米各国もこれに倣って看護学校を開校した。患者を治療する医師と同様に、専門教育を受けた看護婦も医療には不可欠の技術者として尊重される。その考えが、欧米では常識になっているという。
しかし、日本では違う。病院は患者の世話をする者を雇っているが、みんな看護の知識や技術のない素人ばかり。「看病婦」「看病人」などと呼ばれて小間使いのように扱われる。血や膿にまみれた不潔な仕事であり、病気に感染する可能性も高い。当時は不人気職業で成り手がおらず、売春宿を引退した遊女や遣手婆を雇う病院も多かった。それがなおさら看病婦のイメージを悪くしていた。
看護の知識と技術を有するトレインド・ナースが、欧米では尊敬される技術職だということは植村の説明で理解はできた。それでも和の頭には「看病婦=賎業」のイメージがこびりついている。また、トレインド・ナースについて知らない世間の人々も看病婦と同一視して蔑むだろう。
和はいまだ家老の娘という出自にこだわり、人一倍プライドは高かった。他人からそんなふうに見られることに耐えられない。到底受け入れられる話ではなかった。
しかし、植村もそこで諦めるわけにはいかない。キリスト教には古くから医療活動を通じて社会に貢献しようという理念がある。欧米にはその考えに基づいて開校されたキリスト教系の看護婦養成学校も多く、日本でも看護婦学校の創設に向けて動いていた。
近代看護の導入で医療は進歩するだろう。それにくわえて、女性が十分な収入を得られない日本社会では、看護の技術を身につけることで女性たちの自立に役立つ。一石二鳥の妙案。なのだが……そのためにはまず、負のイメージを払拭する必要があった。
日本ではまだトレインド・ナースの認知度が低く、医療従事者にも看病婦と混同している者が多い。わざわざ専門教育を受けて、賤業と見下される不人気職業に就く者がいるはずもない。それでは困る。
小間使いの看病婦と医療を学んだ専門職のトレインド・ナースは違う。そのことを世間一般に知らしめねばならない。それには、家老の娘という和の出自は役に立つ。上流階級の令嬢が看護婦になれば、人々の見る目も変わるはず。イメージ・ガールとしては最適の人材だった。だから、植村も粘り強く説得をつづけたのだろう。そして、
「職業に貴賎はないのですよ。つまらないプライドにこだわり、何もせずに虚しく時間を費やすよりも、人の助けとなる仕事をするべきではないでしょうか」
この言葉が殺し文句になって、ついに和を口説き落とすことに成功した。
トレインド・ナースになる決心をした和は、明治19年(1886)11月に櫻井女学校附属看護婦養成所に第1期生として入学する。同期生8人のなかには、この後、ともに日本の近代看護の礎を築く、生涯の盟友となる鈴木雅の姿もあった。
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