「打つと牛になる…」恐怖の迷信に勝った鍋島直正。幕末日本に種痘を広めた“許可の力”とは
- 2026/06/11
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幕末、日本で種痘(しゅとう)が広まった背景には、緒方洪庵や伊東玄朴といった蘭方医たちの存在がある。種痘とは、感染すれば3人に1人が命を落とすと言われた最悪の感染症「天然痘(てんねんとう)」を防ぐため、牛のウイルスをあえて人間に植え付ける、世界初の本格的なワクチン技術(牛痘苗・ぎゅうとうびょう)のことだ。
しかし、この未知の医療を運び、配布し、各地へ普及させるには、医者の技術だけでは足りなかった。「打つと牛になる」とまで恐れられた怪しい技術を受け入れ、導入を許可する政治的判断が必要だったからだ。
その判断を下した人物の一人が、佐賀藩主・鍋島直正である。長崎警護を担っていた佐賀藩は海外情報や蘭学に接しやすい立場にあり、直正自身も西洋技術への理解が深かった。
佐賀藩で進められた牛痘導入と、江戸屋敷を通じた痘苗の配布は、関東以北への普及にも大きな影響を与えたとされる。「許可した人物」という視点から、近代医療の普及を支えた鍋島直正の役割を辿る。
しかし、この未知の医療を運び、配布し、各地へ普及させるには、医者の技術だけでは足りなかった。「打つと牛になる」とまで恐れられた怪しい技術を受け入れ、導入を許可する政治的判断が必要だったからだ。
その判断を下した人物の一人が、佐賀藩主・鍋島直正である。長崎警護を担っていた佐賀藩は海外情報や蘭学に接しやすい立場にあり、直正自身も西洋技術への理解が深かった。
佐賀藩で進められた牛痘導入と、江戸屋敷を通じた痘苗の配布は、関東以北への普及にも大きな影響を与えたとされる。「許可した人物」という視点から、近代医療の普及を支えた鍋島直正の役割を辿る。
長崎警護と蘭学への傾倒
佐賀藩は江戸時代を通じて長崎警護を担う藩の一つだった。長崎は当時、日本で唯一オランダとの交易が認められた窓口であり、西洋の情報や技術が流入する玄関口でもあった。警護という役割上、佐賀藩は他藩に比べて海外の情報に触れやすい立場にあった。鍋島直正はこの環境の中で育ち、蘭学や西洋技術への関心を深めていく。反射炉の建設やアームストロング砲の国産化など、西洋の軍事技術を積極的に取り入れた藩主として知られるが、その姿勢は軍事にとどまらなかった。
現代の感覚でいえば、最新技術の情報が自然と入ってくる環境に育ち、それを積極的に取り込もうとした経営者に近い。西洋の知識を藩の制度に組み込むことへの抵抗が、他の藩主に比べて著しく低かったと考えるべきだろう。
長崎警護は佐賀藩にとって財政的な負担でもあったが、同時に西洋の最前線に触れ続ける機会でもあった。直正がその機会を活かしたことが、後の判断の土台になっていく。
もっとも、当時の蘭学は無条件に歓迎されていたわけではない。天保10年(1839)に起きた蛮社の獄のように、蘭学者が処罰された時代に、佐賀藩が蘭方医を育成し西洋医学を制度に組み込んでいったことは、決して当たり前の判断ではなかった。
佐賀藩の西洋医学受容
直正の西洋への関心は、医学の分野にも及んでいた。佐賀藩では蘭方医を内科・外科・産科など多様な診療科に分けて組織的に育成し、藩医として置く体制が整えられていた。現代における総合病院のように専門科を分けて医師を配置するようなイメージだ。西洋医学を「詳細がよくわかってない外来知識」として遠ざけるのではなく、藩の制度として組み込んでいく姿勢がここに表れている。重要なのは、これが単なる好奇心ではなく、制度として実装されている点であろう。蘭方医を「置く」と決めた時点で、西洋医学は佐賀藩の公式な医療体制の一部になっている。
直正が種痘を許可した判断は突発的なものではなく、こうした土壌の上に成り立っていた。直正にとって西洋医学の受け入れは、すでに前例のあることだったのだ。
鍋島直正の許可とその意味
種痘の導入は、藩医・伊東玄朴の進言から始まった。天然痘は当時「不治の病」とされており、玄朴は牛痘による予防接種の可能性に注目し、藩に痘苗の入手を求めた。
直正はこの進言を退けなかった。長崎出島のオランダ商館長に牛痘苗の入手を依頼し、出島の医師・モーニッケがバタヴィアから苗を取り寄せる。嘉永2年(1849)6月、長崎で種痘が施され、接種が成功した。
ただし、種痘の許可を出すことは単純な判断ではなかった。当時は「種痘をすると牛になる」という迷信があったとされ、西洋医学への不信感は根強かった。それでも直正は許可を出し、さらに自らの長男・淳一郎にも接種を受けさせている。
これは形式的な許可ではなく、我が子の命と藩の未来を賭けた判断だったと言えるだろう。伊東玄朴が進言できたのも、直正率いる佐賀藩が西洋医学を制度として受け入れていた土壌があったからだ。
医者がいくら技術を持っていても、痘苗がなければ種痘はできない。そして痘苗を動かすには、許可が必要だった。
江戸屋敷経由の配布と関東以北への波及
牛痘苗は「生きたワクチン」であり、輸送途中で効力を失う危険があった。実際、それ以前にも牛痘苗の入手は何度か試みられていたが、長距離輸送の間に苗が死滅し、成功には至っていない。モーニッケがバタヴィアから持ち込んだ痘苗が嘉永2年(1849)に長崎で接種に成功したのは、そうした失敗の積み重ねの末のことだった。
長崎で種痘を実施したのは佐賀藩医・楢林宗建である。接種成功を受けて、痘苗はすぐに江戸の佐賀藩邸にいた伊東玄朴のもとへ送られた。長崎から江戸へというこの輸送ルートが、関東以北への普及の起点となる。
一方で、長崎から京都へ送られた痘苗によって笠原良策と日野鼎哉が京都で接種に成功すると、牛痘法の有効性が国内の蘭方医に広く知れ渡ることになった。
その報せを聞いた緒方洪庵は、翌月には大坂に除痘館を開いている。牛痘法はわずか数か月の間に、長崎から京都、さらに江戸へと急速に広がっていった。
佐賀藩の対応も速かった。藩は種痘事業を担う「引痘方」を設置して藩内を巡回し、接種を開始した。現代で言えば公費負担による予防接種制度に近い。「許可」にとどまらず、藩として制度化へ踏み込んだのである。
この後、佐賀藩江戸藩邸の伊東玄朴に送られた痘苗から、牛痘法は関東以北へと広がっていく。この経路がなければ、関東以北での種痘普及は大きく遅れていたともいわれる。緒方洪庵の除痘館が大坂にあったことを踏まえると、西日本の拠点と関東以北を結びつけたのは、鍋島直正の判断と、西洋医学を志す蘭方医たちのネットワークだったのである。
おわりに
鍋島直正といえば反射炉や海軍、北海道開拓への関与が語られることが多い。しかし佐賀藩が種痘の配布経路を担っていたという事実は、あまり表に出てこない。今のように治験を重ねて安全性を確認する仕組みがない時代に、自分の長男を含む藩の人々への接種を許可し、費用まで藩が負担した。それだけ天然痘が深刻な脅威だったとも言えるが、これほどのリスクを背負って一歩を踏み出した直正の英断こそが、東日本の未来を大きく変える原動力となった。
世界保健機関(WHO)が天然痘の根絶を宣言したのは1980年のことだ。イギリスの医学者・ジェンナーが牛痘接種を発見してから約180年、日本で種痘が始まってから130年余りをかけた根絶である。
佐賀藩の判断はその長い連鎖の一部だった。許可した人物の名は残りにくい。それでも、許可がなければ何も動かなかった。鍋島直正という人物の仕事は、そういう種類のものだったのだと思う。

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