大久保利通の「遺書」 大久保が西郷との対決を決意した背景
- 2026/06/30
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維新の三傑のうちの2人、西郷隆盛と大久保利通は、明治六年政変(征韓論政変)と呼ばれる、西郷の朝鮮への使節派遣の是非で対立。政変に敗れた西郷が故郷の鹿児島に帰ったことで、明治10年(1877)の西南戦争に繋がったとも言われている。
大久保が西郷との直接対決を前に、「遺書」と呼べるものを残しているのはご存じだろうか?なぜ大久保は、西郷との対決に「遺書」を書くほどの覚悟で臨んだのか。その背景と「遺書」について詳しく見ていきたい。
大久保が西郷との直接対決を前に、「遺書」と呼べるものを残しているのはご存じだろうか?なぜ大久保は、西郷との対決に「遺書」を書くほどの覚悟で臨んだのか。その背景と「遺書」について詳しく見ていきたい。
西郷と大久保が直接対決に至るまで
「征韓論」、つまり朝鮮を武力によって従わせようという考え自体は前からあり、朝鮮と物理的な距離が近い長州藩の木戸孝允などが早くから唱えていた。それが明治6年(1873)10月25日に西郷を含む参議5人が下野するという政変に繋がったのは、右大臣・岩倉具視を特命全権大使とし、当時大蔵卿だった大久保をはじめとする政府の主要メンバーが大勢欧米へ外遊した、岩倉使節団の留守中に原因がある。
朝鮮との間に外交問題が起こり、朝鮮の非礼を糺すべきだということで、西郷が自ら朝鮮への使節に志願。しかし、それは戦争に発展する可能性が充分にあり、さすがに太政大臣・三条実美以下の留守政府だけで正式決定できるものではなかった。そのため、岩倉らの帰国を待つこととなったが、日本よりもはるかに進んでいる欧米を見てきた使節団メンバーら(内治優先派)は、使節派遣に反対する。
しかし、西郷はこれはすでに閣議で決まったことだからと、頑として譲らない。そこで、閣議で西郷に対抗できるのは大久保しかいないと、岩倉らは大久保に参議就任を要請。閣議に参加できるのは参議のみで、当時大蔵卿だった大久保には、閣議に参加する資格がなかったからである。
西郷との直接対決を避けるべく、頑なに参議就任を断り続けていた大久保が、ついに了承したのが明治6年10月8日。閣議は12日に開催と決まる。だがその後、閣議は14日に延期となり、8日以降に書かれたと思われるのが、大久保の「遺書」だ。
大久保利通の「遺書」とは
大久保は閣議に向けて、使節派遣反対の理由を7か条にまとめた意見書を書いたり、岩倉と対策を話しあうなど、できる限りの準備をしたようである。その準備の合間に、家族あての「遺書」が書かれたのだろう。この「遺書」は下書きで、途中で終わっている。西郷との直接対決を前に、さすがに大久保も心がざわつき、気持ちを整理するためにも書いたと考えられる。
「遺書」は『大久保利通文書』第5巻に、「参議就任に付き家族に遺せし秘書」として収録され、原文は400字詰め原稿用紙に似た罫線紙に2枚強で、長くはない。その中に、息子達に向けて多少カッコつけて書いた部分はあるかも知れないが、大久保の強い責任感、覚悟、国家への思いなどが、簡潔にストレートに書かれている。
「遺書」の内容
「遺書」は、「分外の御抜擢」により参議や大蔵卿を歴任してきて、今、大蔵卿兼参議となったことへの感謝から始まる。今回はどこまでも参議就任を辞退するつもりだったが、「皇国危急存亡に関係するの秋(とき)と察せられ、この難を逃げ候様の訳に相当たり候ても本懐にあらず」、「この難に斃れてもって無量の天恩(天皇からの恩)に報答」することにしたという。
大久保は続けて、自分は目先のこと(=使節の件か)の処理のためだけに軽挙しようとしているのではなく、十年ないし二十年先のことも考えて、事をなそうとしているのだと書く。
だから今、(殺されるようなことが起こり)安らかな死は迎えられないかも知れないが、熟慮の結果、西郷との対決は自分以外にはできないから、残念ながら参議を引き受けることにしたという。
大久保は自分の一身上においては一点も思い残すことはない、と言い切り、続けて「ただ企望する処」として、遺されるであろう息子達への希望を語る。
「父の志を貫き、各自勉強して心を正し、知見を開き、有用の人物となって国のために尽くすことが、父が残す罪を補うのだと心がけて欲しい」
と。
そして最後に、アメリカ留学中の長男・彦之進(利和)、次男・伸熊(牧野伸顕)の勉強が進んでいるのを喜びかつ励まして、父の死を海外で聞くことになり驚くだろう、と書いて終わっている。
西郷及び薩摩側の事情
しかしなぜ、大久保は殺されることをこれほどまでに強く意識した文章を書いたのか。西郷は、自分が朝鮮で殺されることを前提とし、それにより戦争になることを期待していたようである。つまり死に場所を求めていた、とも言える。その要因として、この頃西郷が肥満治療のための下剤服用により、ひどい体調不良だったことや、旧主筋の島津久光から受けるストレスなどで、精神的に追い詰められていたことも大きいとする解釈がある。
さらに、西郷は薩摩の下級士族達の間ではカリスマ的存在となっており、廃藩後の士族の生活救済にも熱心だった。士族救済の意味もあり、もし朝鮮と戦争になった場合には薩摩の士族達を動員しようとし、部下を下見に派遣したりもしている。
そうした思惑が絡みあい、西郷は執拗に三条に閣議開催を迫り、閣議の延期が決定されたことを受けた10月11日の三条への返信で、もし使節の件が変更されるようであれば、「死を以て国友え謝し候迄」と脅迫まがいのことを書いている。
「国友」とは、朝鮮への派兵を約束した同郷の士族達のことであり、大久保が自分を殺すだろうと想定していたのも、彼らだったと考えられる。
西郷と大久保の直接対決は、薩摩人同士の大きな分断を招きかねず、だからこそ大久保も自分が参議となって矢面に立つ事態を避け続けたのである。
おわりに
結果的に、政変は「内治優先派」が勝利し、負けた側の「征韓論派」の参議は辞表を出して下野し、西郷は鹿児島に帰った。西郷が帰郷にあたり、唯一暇乞いに行った相手が大久保だった。西郷は大久保と、閣議で他人が口を挟めないほどの勢いで激論し、政変で負けたにもかかわらず、大久保にだけ後事を託したということになる。
しかし大久保は突っぱねた。西郷が帰った後、偶然居あわせた伊藤博文が思わずたしなめるほどに激怒したらしい。結果的にこれが今生の別れとなってしまったために、西郷と大久保は明治六年政変で袂を分けたと思われているようだが、二人の関係は、それほど単純なものではない。
西郷も大久保もそれぞれに信念や背負っていたものがあり、この政変に命を懸ける覚悟で臨んだが、政治的立場と個人的な友情はまた別であり、本人達以外には理解できないとも言われた2人の友情は、実は最後まで変わらなかったのである。
それについては、以下の記事をご一読いただきたい。
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