【逸話 LINEトーク画風】「正徳寺の会見(1553年)」斎藤道三の度肝を抜いた?うつけ信長のふるまいとは
- 2020/04/16
美濃の斎藤道三の娘・帰蝶(濃姫)は、尾張の織田信秀との同盟のため、信秀嫡男の信長の正室になりました。それから数年の天文22年(1553)、信長は義理の父である道三と初めて顔を合わせました。それが「正徳寺(聖徳寺)の会見」です。
【逸話】正徳寺の会見
- 【原作】『信長公記』
- 【イラスト】Yuki 雪鷹
- 【脚本】戦ヒス編集部
道三は近頃、人々から「婿殿は大馬鹿者ですぞ」と聞かされており、「信長はそうではない」といつも言っていたが、道三は自信がなくなったのか、信長に実際に会って真偽を見極めてみることにした。
信長は道三の申し出に遠慮もせずに承諾し、木曾川・飛騨川という大河を舟で渡り、出かけて行った。
── 尾張国正徳寺 ──
道三は会見の前準備として、7~800人程の家臣に上品な身支度をさせて正徳寺の御堂の縁に並んで座らせており、信長を迎えたときに驚かせて笑ってやろうと企んでいた。
その上で、道三は町はずれの小家に隠れて、信長が来るのを待って覗き見しようとしていたのである。
すると信長の行列がやってきた。
信長の姿はいつもの "たわけスタイル" であったが、引き連れているお供衆は7~8百人ほどで柄三間半の朱槍500本、弓・鉄砲500挺を持たせるという立派な装備であり、元気な足軽を行列の前に走らせてきた。
さらに、会見場所である寺に着いたところで、信長は屏風を引きまわし、さっと立派な正装に着替えたのである。
この信長の身支度を見て、織田家中の者たちはみな肝をつぶし、誰もがしだいに事情を了解した。
信長は御堂へ出ると、縁の上がり口で道三家臣の堀田道空が出迎えて「お早くおいでなさいませ」と声をかけられるが、信長は知らんぷりして、道三家臣らが居並ぶ前をすいすいと通り抜けて、縁の柱に寄りかかっていた。
しばらくして、屏風をおしのけて道三が出てきた。
信長はそれでもまだ知らん顔をしていたので、堀田道空が近づき、「こちらが山城守殿(道三)でございます」と言うと、
そう言って敷居の内へ入り、道三に挨拶をしてそのまま座敷に坐った。
そのうち、道空が湯漬け(だし味のついた湯をかけた飯 )を給仕した。そして互いに盃をかわし、信長と道三の対面は滞りなくお開きとなった。
道三はにが虫をかみつぶしたような様子で、そう言って席を立った。 道三が信長に見送られて帰るとき、道三の兵の槍は短く、信長の兵の槍が長いのを見て、道三はおもしろくなさそうな顔で、ものも言わずに帰って行った。
そして帰路の途中で道三の家臣が言った。
信長は道三の申し出に遠慮もせずに承諾し、木曾川・飛騨川という大河を舟で渡り、出かけて行った。
── 尾張国正徳寺 ──
道三は会見の前準備として、7~800人程の家臣に上品な身支度をさせて正徳寺の御堂の縁に並んで座らせており、信長を迎えたときに驚かせて笑ってやろうと企んでいた。
その上で、道三は町はずれの小家に隠れて、信長が来るのを待って覗き見しようとしていたのである。
斎藤道三
ふっふっふっ、大うつけがどれ程の器量を持っているのか、この目で確かめてやるわ。
すると信長の行列がやってきた。
斎藤道三
!!!
信長の姿はいつもの "たわけスタイル" であったが、引き連れているお供衆は7~8百人ほどで柄三間半の朱槍500本、弓・鉄砲500挺を持たせるという立派な装備であり、元気な足軽を行列の前に走らせてきた。
さらに、会見場所である寺に着いたところで、信長は屏風を引きまわし、さっと立派な正装に着替えたのである。
信長家臣たち
家臣A:おおお!!なんと立派な!
家臣B:(・・さてはこれまでのたわけぶりは、わざとなされていたのか!)
この信長の身支度を見て、織田家中の者たちはみな肝をつぶし、誰もがしだいに事情を了解した。
信長は御堂へ出ると、縁の上がり口で道三家臣の堀田道空が出迎えて「お早くおいでなさいませ」と声をかけられるが、信長は知らんぷりして、道三家臣らが居並ぶ前をすいすいと通り抜けて、縁の柱に寄りかかっていた。
信長
・・・・・
しばらくして、屏風をおしのけて道三が出てきた。
斎藤道三
・・・(くっ!生意気なやつめ!)
信長はそれでもまだ知らん顔をしていたので、堀田道空が近づき、「こちらが山城守殿(道三)でございます」と言うと、
信長
お出になったか。
そう言って敷居の内へ入り、道三に挨拶をしてそのまま座敷に坐った。
そのうち、道空が湯漬け(だし味のついた湯をかけた飯 )を給仕した。そして互いに盃をかわし、信長と道三の対面は滞りなくお開きとなった。
斎藤道三
・・・また近いうちにお目にかかろう。
道三はにが虫をかみつぶしたような様子で、そう言って席を立った。 道三が信長に見送られて帰るとき、道三の兵の槍は短く、信長の兵の槍が長いのを見て、道三はおもしろくなさそうな顔で、ものも言わずに帰って行った。
そして帰路の途中で道三の家臣が言った。
道三家臣
どう見ても信長殿は阿呆でございますな。
斎藤道三
だからこそ無念じゃ。この道三の息子どもが、必ずあの阿呆の門前に馬をつなぐことになろうよ。
と言った。そして、それ以後は道三の前で信長を馬鹿者呼ばわりする人は1人もいなくなったという。
ワンポイント解説
この会見は、うつけ(馬鹿)とうわさの信長を、立派な家臣800人を並べて圧倒し驚かしてやろう、という道三の企みのもとで始まりましたが、ふたを開けてみると自分のほうが信長に驚かされて帰ってくる、というオチで終わります。『信長公記』は信長の一代記ではあるものの、このエピソードはすべて道三視点で記されているので、信長側が道三の「会見したい」という申し出をどのように捉え、いかにして会見を迎えたかはよくわかりません。
天文22年(1553)には、信長の父・信秀はすでに亡く、信長は織田弾正忠家の家督相続争い(弟・信勝との対立)、信長をよく思わない守護代の織田彦五郎らとの争い、駿河の今川との争いなどなど、とても余裕のある状況ではありませんでした。
会見は帰蝶が信長に輿入れした天文18年(1549)だったという説もありますが、そうであったとしてもすでに父・信秀の勢力は衰えつつあるころで、道三との同盟はぜひとも継続したいものだったでしょう。
『信長公記』は「信長がうつけかどうか確かめてみよう!」という道三の思いつきのように書かれていますが、実際は信長に見切りをつけて同盟を打ち切るかどうか、という大変な出来事だったはずです。
信長にとっての一大事。『麒麟がくる』では帰蝶主導で準備が進められましたが、実際の歴史でも信長はどのように振る舞うべきかよくよく考えた上で会見に臨んだのではないでしょうか。
結果、うつけと侮る道三を見事に驚かせ、一目置かれる存在となったのです。
正徳寺(聖徳寺)とは
会見が行われた正徳寺(聖徳寺)は、現在の名古屋市天白区にあるお寺です。もともとは美濃の大浦郷(岐阜県羽島市)にあった寺で、木曽川洪水のため転々とし、尾張富田村(現在の一宮市)に移されました。会見当時は富田にあり、ここで行われました。現在の場所よりも美濃に近く、当時は美濃・尾張の両国から税を免除されていたそうです。信長はこの会見以後、正徳寺で軍立ち(いくさだち/出陣の際に軍を整えること)をしたといいます。
「門前に馬をつなぐ」とは?
会見後、自分の兵の鑓よりも信長の兵の鑓のほうが長く立派なのを見てまた面白くなさそうな道三。「信長はたわけでございますな」という家臣に、「だから無念なのだ。いつか自分の息子たちが信長の門前に馬をつなぐことになるだろう」と言います。「門前に馬をつなぐ」とはつまり、「信長の家来になるだろう」という意味です。
信長がたわけであることに違いはないけれど、器量はある。道三は自分亡き後、子らが信長に敗北することを感じていたのかもしれません。
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【参考文献】
- 太田牛一 著、中川太古 訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫、2013年)
- 奥野高広・岩沢愿彦・校注『信長公記』(角川書店、1969年)
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