【麒麟がくる】第14回「聖徳寺の会見」レビューと解説
- 2020/04/21
今回の一番の見どころはタイトルにもなっている聖徳寺の会見でしょう。そのため、今回は主人公・光秀の存在がいささか薄い……。帰蝶のことで母と妻からからかわれ、村木砦の戦いではおそらく道三の命令を受けてか、信長がどんな戦いを見せるか偵察に行きました。
信長と道三の会見
聖徳寺(正徳寺)の会見は天文22(1553)年4月に行われました。道中は遠目からでもわかる「うつけ」スタイルで、会見の場には遅れに遅れ、きちんとした正装で現れた信長。ドラマでは兵から衣装から、何から何まで帰蝶がプロデュースしたことになっています。信長も、着なれないものなので着替えに手間取った、と言って「全部帰蝶が用意した」と初っ端から明かします。
兵は寄せ集めだし、大紋は帰蝶が「道三が好きな色」だというものを着せられたのだ、と。なぜ帰蝶があれこれ手配するのかというと、「信長が父に討ち取られるのではないか」と思っているのだ、ということまでしゃべります。
手の内を明かすのは、もちろん帰蝶と信長の戦略でしょう。信長が道三に討ち取られることを危惧し、手を尽くしてこの会見の準備をした帰蝶の行動と心情を語って聞かせることで、道三の娘・帰蝶がどれほど信長を評価し、大切に思っているかが伝わります。それを語る信長もまた、妻を立て、大切にしていることがわかります。
食いはぐれ者の家臣
信長は、織田家の家老を連れてはいませんでした。代わりに、若い家臣ふたりを道三に紹介します。前田利家と佐々成政です。どちらも土豪の三男坊・四男坊で、家を継ぐことはできない身の上です。信長は、「失うものがない食いはぐれ者だから良いのだ」と言います。家も地位も失うものがなく、戦でも格別のはたらきをするのだと。
織田家ももともと神主をしていたとか、いろいろ説はありますが大層な身分の家柄ではありません。父・信秀は自らを「尾張へ出てきてのし上がった成り上がり者」と称し、また「美濃にもいる。そういう男は手強いぞ」と語った、と。信長は自身と道三を重ね、道三のほうも若いころの自分のような信長を見て、気に入ったようです。
話は鉄砲にも及びます。「鉄砲は百姓でも撃てる。その鉄砲は金で買える。これからは戦も世の中も変わっていく。我らも変わらねば」。
家柄が重視される時代は終わります。過渡期にあって、成り上がり者の道三はその先駆者でした。続く信長も成り上がり者ですし、彼が従える利家や成政も、名門出身ではありません。やがてはそこに、秀吉や光秀も加わるわけです。
道三が悔しがったのは鑓の長さだった?
ドラマでは、冒頭で特に鉄砲の数が注目されましたが、『信長公記』を見ると、道三は信長の柄三間半の朱槍に驚き、悔しがったとあります。道三の兵がもつ鑓はそれよりも短かったのです。鑓の長さにもいろいろありますが、当時主流だったのは二間半程度のもの。これが大体4.5メートルくらいでした。
一方、信長や家康らが戦で用いたとされるのが三間半で、およそ6.3メートルにもなりました。今回初登場した信長家臣の前田利家も、6.3メートルの鑓を振り回した名手として知られますね。
死期を悟る太原雪斎
一方、100貫もらえると聞いて駿河の金持ちを診にやってきた東庵と駒は、あてが外れて思うほど儲からず、困っていました。そこへ飛び込んできたのが、今川の軍師・太原雪斎を診てほしいという話です。太原雪斎は尾張の信長を警戒し、織田を滅ぼすことが自分の使命だと言います。若い信長は、今川に脅威を与える存在になるかもしれない。そういう不安がある中、雪斎は自分の死期も見えているようで、「あと二年生かしてほしい」と東庵に頼みます。
雪斎が亡くなるのは弘治元(1555)年のこと。今川はそれから5年後、桶狭間の戦いで信長に敗れ、一気に没落していくことになります。雪斎の不安は的中するわけですが、寿命ばかりは思い通りになりません。
このあたりは、尾張内部、また今川との関係にも不安を残したまま亡くなった織田信秀とも重なります。
あわせて読みたい
村木砦の戦い
信長は今川との戦を前に、不在の間の那古野城を守ってほしいと道三に頼みます。美濃では家臣や高政の賛同が得られぬまま、道三の独断で留守を預かる援軍が送られました。道三と高政の板挟みにあい、今回は高政の側について道三の援軍を反対した光秀でしたが、戦の間、道三の命を受けてか、信長の戦いぶりを見に行きました。
信長が鉄砲を巧妙に用いた戦としては桶狭間の戦いが有名ですが、信長が初めて鉄砲を用いたとされるのがこの村木砦の戦いです。
戦は信長の勝利で終わりますが、信長方にも多くの死者・負傷者が出ました。『信長公記』には、信長の小姓衆が負傷し、討死したとあり、信長は感涙した、と記されています。
また、この戦の報告を受けた道三は、改めて「恐るべき男だ。隣国にはいてほしくない」と語った、とあります。
深芳野の死で深まる道三と高政の確執
今回、道三側室の深芳野が謎の死を遂げました。アルコール中毒か、はたまた入水か。死因はよくわからない描写でした。実のところ、深芳野についてはいつごろ亡くなったのかわかっていません。ですので、この展開はドラマ独自のものでしょう。
高政は「父が飼い殺しにした」のを苦にして死んだのだ、と怒りますが、どうでしょうか。道三は確かに「高政に家督を継がせるつもりだ」というようなことを言っていました。それに、妻として深芳野を愛していたように見えます。死を悲しむ様子からもそれがわかります。
娘婿の信長を気に入り、高政を見捨てたことを嘆いて死んだ、ともとれるかもしれませんが、深芳野の憂いはそれ以前からありました。
子の高政は「道三は父ではない、頼芸が本当の父なのでは」と母を問い詰め、ついには直接道三に対して「お前を父親だとは思ってない」と言い放ちました。深芳野は、高政が出自のことを言う度に「お前の父は殿じゃ」と言い含めてきました。
深芳野が憂慮したのは、むしろ父を敬わず、すんなり家督相続できる道から外れようとしている高政の言動だったのではないでしょうか。前回、高政が父を全否定したのが決定打になった気がしてなりません。
母が自分の言動をどう捉え、案じていたか。そこまで考えが及ばず、全ては父のせいだと訴える高政はひとりよがりで、物事を客観的に捉えることができないように見えます。
第1回で数珠の数を大きく数え間違えたのを思い出します。本当のところは深芳野にしかわかりませんが……。
高政は深芳野の死を受け、「これが母の願いだったのだから」と自分に家督相続するよう迫ります。
深芳野は道三が小見の方腹の息子に継がせるのではと案じていた、と高政は言っていましたが、孫四郎や喜平次のことでしょうか。このふたりは高政の弟で、道三が高政よりもかわいがっていたとされます。
ふたりの弟は深芳野腹説、小見の方腹説の両方があってよくわかっていないのですが、「麒麟がくる」では小見の方の子として描かれるのでしょうか。しかしふたりともドラマに登場する様子がありません。
『信長公記』では「いつか自分の息子たちが信長の家来になる時がくる」と言い、「麒麟がくる」では援軍を反対する高政や稲葉良通らに「みな信長にひれ伏す時がくるぞ」と言い放った道三。今回、高政に家督を譲ると約束したそのとき、心の内ではいずれ子どもたちが信長に敗北することを覚悟したのかもしれません。
【参考文献】
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
- 奥野高広・岩沢愿彦・校注『信長公記』(角川書店、1969年)
- ※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
- ※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄