※『信長公記』より
信長には優れた計略があり、永禄6年(1563年)に居城を清洲城から小牧山へ移転したときにおいてもその才がいかんなく発揮されている。
信長の居城がおかれた清洲は尾張の国の真ん中に位置し、富裕な土地柄であった。ある時、信長が家中の者を全員同行させて山中の高山・二の宮山(=愛知県犬山市)に上ったときの事である。
━━ 尾張国・二の宮山 ━━
うむ。この山に築城することにしよう。皆ここへ家を移せ!
家臣たち:えええっ!?
信長は突如、居城の移転を言いだして、各々の屋敷地の割り振りをする等の指示をしてその日は帰った。
信長は再び二の山に出かけ、さらに先日の趣旨を命令した。
家臣A:この山中に清洲の家を引っ越さなくてはならぬとは・・
家臣B:全く難儀なことじゃ~。
家臣C:ぶつぶつぶつ・・・。
この移転計画に対して家中の者たちは上の者も下の者もみな大いに不満がった。
そのようなことがあったが、のちに信長は今度は別のことを言いだした。
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移転のことだが、やはり小牧山に移ろうと思う。
家臣たち:えっ!?
家臣A:でも小牧山なら移転も楽じゃのう~
家臣B:うんうん~よかったよかった。
家臣C:ぶつぶつ・・・・
清洲から小牧山へは麓まで川が続いており、移転の際に家財道具を運ぶのに便利な土地柄であった。このため、みな喜んで移転をしたのだ。
つまり、最初から小牧山移転を命じたら不満がでると考えた信長は、先に二の宮山の移転を伝えて家中の不満が噴出したところ、移転計画の変更を発表したということである。
小牧山のすぐ隣、二十町(約二・二キロ)ほど隔てたところには敵の於久地城があったが、小牧山の城の普請が進んで出来上がっていくと、於久地城は小牧山城から見下ろされる形となった。これを見た敵方は守りきれないと判断し、城を明け渡して犬山の城へ合流して立て籠もったという。