織田信長のLINEトーク風エピソード集

戦ヒス編集部
 2019/01/01
カード織田信長

信長の大蛇退治(1558年)

※『信長公記』より

尾張国の中央清洲から五十町(約5・5キロ)ほど東に大きな堤防があり、その西側の「あまが池」という池に恐ろしい大蛇が住むという言い伝えがあった。

──尾張国──

弘治4年(1558年)正月中旬、尾張の安食村福徳郷の又左衛門という者が、雨の降る夕方に「あまが池」の近くを通りかかると、太さひと抱えほどの黒い物が目に入った。

又左衛門

んんっ?なんだあれは?

家臣アイコン

その正体不明の物は胴体を堤に浸していたが、首は土手を超えており、又左衛門の足音を聞くと首を上にあげた。その姿は鹿のようであり、顔をみると眼は星のようで、人間の手の平ほどの大きさの真っ赤な舌を出して、眼と舌とを光らせていたのだ。

又左衛門

う、うわああああーー!

家臣アイコン

これをみた又左衛門は震え上がり、もと来た方へ逃げ帰っていった。

───────

このことが清洲城の信長の耳にはいり、一月下旬ごろに又左衛門から事情を聞き出すと、

織田信長アイコン

織田信長

では明日、堤の水替えをしてみよう。

ということで触れを出し、比良の郷・大野木村・高田五郷・安食村・味鏡村の農民たちに水替え桶・鋤(すき)・鍬(くわ)を持って集まるように命令した。

当日、農民らが集まると、池の周囲に数百の桶を並べ、池の四方から水のくみ上げに取り掛かった。そして4時間ほどで池の水が7割ほどになったが、それ以降はいくら掻きだしても同じ状況であった。

そこで信長は声をかけた。

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織田信長

水中に入って大蛇を探すぞ。

そう言って信長は裸になり、脇差を口にくわえて池に入ったが、やがて水面に顔を出した。大蛇らしいものは見つからなかった。

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織田信長

鵜左衛門、おぬしも入ってみよ!

泳ぎの達者な鵜左衛門も池にもぐらせて探させたが、結局大蛇らしきものは見つからなかった。

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実はこの頃、佐々成政が信長に逆心を抱いているとのうわさがあった。そして成政の居城・比良城は「あまが池」の近くにあった。

佐々成政

うう、まさかここに立ち寄ってこんだろうか・・

佐々成政アイコン

成政はこのとき重病と偽って参加しなかったのだが、信長がついでに比良城に立ち寄って来て、切腹を言いわたされるのではないかと心配していたのである。そして、もし信長が立ち寄ってきた際には討ち取ろうと、家臣と申し合わせていたという。

信長は運が強い男であり、結局、あまが池からどこへも立ち寄らずに清洲城へ帰ったということである。

小牧山移転における信長の策(1563年)

※原作:『信長公記』

信長には優れた計略があり、永禄6年(1563年)に居城を清洲城から小牧山へ移転したときにおいてもその才がいかんなく発揮されている。

信長の居城がおかれた清洲は尾張の国の真ん中に位置し、富裕な土地柄であった。ある時、信長が家中の者を全員同行させて山中の高山・二の宮山(=愛知県犬山市)に上ったときの事である。

━━ 尾張国・二の宮山 ━━

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信長

うむ。この山に築城することにしよう。皆ここへ家を移せ!

家臣たち

家臣たち:えええっ!?

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信長は突如、居城の移転を言いだして、各々の屋敷地の割り振りをする等の指示をしてその日は帰った。

信長は再び二の山に出かけ、さらに先日の趣旨を命令した。

家臣たち

家臣A:この山中に清洲の家を引っ越さなくてはならぬとは・・
家臣B:全く難儀なことじゃ~。
家臣C:ぶつぶつぶつ・・・。

家臣団アイコン

この移転計画に対して家中の者たちは上の者も下の者もみな大いに不満がった。

そのようなことがあったが、のちに信長は今度は別のことを言いだした。

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織田信長アイコン

信長

移転のことだが、やはり小牧山に移ろうと思う。

家臣たち

家臣たち:えっ!?

家臣団アイコン

家臣たち

家臣A:でも小牧山なら移転も楽じゃのう~
家臣B:うんうん~よかったよかった。
家臣C:ぶつぶつ・・・・

家臣団アイコン

清洲から小牧山へは麓まで川が続いており、移転の際に家財道具を運ぶのに便利な土地柄であった。このため、みな喜んで移転をしたのだ。

つまり、最初から小牧山移転を命じたら不満がでると考えた信長は、先に二の宮山の移転を伝えて家中の不満が噴出したところ、移転計画の変更を発表したということである。

小牧山のすぐ隣、二十町(約二・二キロ)ほど隔てたところには敵の於久地城があったが、小牧山の城の普請が進んで出来上がっていくと、於久地城は小牧山城から見下ろされる形となった。これを見た敵方は守りきれないと判断し、城を明け渡して犬山の城へ合流して立て籠もったという。

信長、婚姻戦略で信玄にマメに使者を遣わす(1567年)

※『名将言行録』より

永禄10年(1567年)11月、信長が嫡男・織田信忠の嫁を迎えるため、織田掃部助(かもんのすけ)を使者として武田信玄のもとへ遣わし、7歳になる信玄の娘との縁談を申し出たときのことである。

-- 甲斐国・信玄の居城にて --

家臣アイコン

織田掃部助

かくかくしかじか・・・というわけでございます。

武田信玄

うむ。貴公の話はわかった。

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武田重臣ら

重臣A:お屋形様。信長の行動をみるに、その志は実に遠大のように存じます。
重臣B:信長はいま重ねて縁を求めておりますが、腹の内がみえませぬ。
重臣C:ここはお許しにならぬほうがよいかと・・

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武田信玄

信長がわしに親しみを請うのは偽りではなかろう。信長がわしに贈った箱を削ってみると、特別に地が堅くて蒔絵も念が入っておる・・。勝頼を縁者にする2年前と比べて少しも変わっておらぬ。

武田信玄アイコン

信玄はそう言い、信長から毎年贈られてきた唐櫃(からびつ)を取り出してみせた。

武田重臣ら

重臣A:おお!
重臣B:むう・・たしかにお屋形様のおっしゃるとおり・・。
重臣C:たいした念の入れようじゃ・・

家臣アイコン

武田信玄

人の真偽は音信で知れるものじゃ。1度や2度の念入れならともかく、このように何度も十分に念を入れるというこの気配り様は小身の者でさえできぬことじゃ。ましてや国持ちならば、わしも信長も忙しく年々このように気配りすることなどできぬもの・・。

武田信玄アイコン

武田信玄

ところが信長は1年に7度かならず遣いを寄こしてきておる。それもこちらから使いを遣わすなら、その返報もあるだろうが、2年に1度もこちらからは使者をだしておらぬのに・・。
親や主にでもする様にこうして念入れにやるからには、わしらと縁者になりたい信長の心は一層真実であろう。

武田信玄アイコン

信玄はそう言って縁談を受け入れた。信長の気遣いはこのように非常に丁寧な念の入れ様だったのである。

信長、人を用いる道を説く(1568年)

永禄11年(1568年)、信長は上洛して足利義昭を第15代将軍に擁立した。そして義昭が仮御所である京都の二条城へ移ったときのことである。(『名将言行録』)

── 京都・二条城 ──

足利義昭

いまだ戦はまだ止まぬな。身の危険もあるゆえ、勇猛なる将を1人、わが護衛の任にあたらせよ。

足利義昭アイコン
織田信長アイコン

信長

・・承知いたしました。

このときの織田家中では老練な将である佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀の3人が信長に重用されていた。

家臣たち

家臣A:やはり将軍様の護衛は佐久間殿か柴田殿か丹羽殿かのう。
家臣B:わしは柴田殿だと思うわい
家臣C:いや、佐久間殿であろう・・

家臣団アイコン

家中の者は皆、将軍義昭の護衛にあたるのはこの3人のいずれかだと思っていた。がしかし、皆の予想に反し、意外な人物が護衛に命じられたのである。

──────

織田信長アイコン

信長

将軍護衛の一件であるが・・
猿(=秀吉)!そちに任せようと思う。頼んだぞ。

秀吉

はっ!?
は、ははあっ!ありがたくお引き受けいたしまする。

木下藤吉郎秀吉アイコン

家臣たち

家臣A:えええっ!?
家臣B:なぜ猿なのじゃ~~
家臣C:うぎゃ~~~!!

家臣団アイコン

家中の者は一同に驚き、一部の家臣らは秀吉を妬んでしばしば信長に讒言したが、信長はこれに耳を傾けずに秀吉をますます重用したのである。

そして信長は常々に言っていた。

織田信長アイコン

信長

人を用いる道は、その者の才能のあるなしによって選ぶべきもの。奉公年数の多い少ないを論ずべきではない。

と。信長が家臣の能力をよく知り、適材適所に用いるのはこのような考えのもとにあった。人々は信長のこのような考えにますます心服したのである。

姉川前哨戦・八相の退き口(1570年)

※原作:『名将言行録』より

元亀元年6月(1570年)、信長は義弟・浅井長政の裏切りに対する報復のために出発し、同28日には姉川の地で浅井・朝倉連合軍と激突。信長はこの戦いに勝利した後、追撃して長政の居城・小谷城付近をことごとく焼き払ってから退却した。(姉川の戦い)

これは合戦より一週間ほど前の21日、信長が小谷城の城下町を広範囲に渡って焼き払っていたときの話である。

── 小谷城 ──

浅井長政

くっ!このようなやり方は勇猛の将のすることではない!!討ってでるぞ!

浅井長政アイコン

老臣たち

老臣ら:殿!お待ちくだされ。それでは信長の思うつぼですぞ!

家臣アイコン

浅井長政

くっ!

浅井長政アイコン

こうして老臣らに諌められた長政は越前の朝倉義景の援軍を待つことにした。

一方の信長は、その間に思いのままに放火し、最前線の兵を森可成と替わらせ、自らは足軽の中にまぎれて八相山の近くまで偵察に行った。そして柴田・池田・森・佐久間らの諸将を集め、明日の退き口が重要である旨を相談していた。

━━ 信長陣営 ━━

織田信長アイコン

信長

わしが先程、斥候(=偵察)にでたあたりに浅井は必ず出てくるだろう。明日の退き口については計画があるゆえ、一切の事はわしの下知に従え。

これに対し、重臣の柴田勝家が言った。

柴田勝家アイコン

勝家

それがしの手勢2千、また、森・佐久間もほぼ同じ兵力ゆえ、明日の殿(しんがり)を務めるのは、人が多いといえども、それがし、もしくはあの2人(森・佐久間)にまわってくると存じます。
浅井は昼の合戦はしないゆえ、退き口にはかならず出てまいりましょう。その際のご策略はいかがいたしましょうか?

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信長

うむ。わしが思うところは少し違う。まず明日は後にわしをおいて、各々は夜中に三里ほど退いてそこで備えよ。明日の殿(しんがり)には手回りの小姓だった者に申しつける。

柴田勝家アイコン

勝家

これは大事なことにございます。若輩の小姓連中だけでは心許ないことですぞ。

織田信長アイコン

信長

小勢ならば、たとえ敗れたとしても一里の間で多くの者が討たれることはない。
このようなところで大勢が敗れれば、退きにくいものだ。小勢ならば険を要して引くことはたやすい。このはかりごとはきっと図にあたるぞ。

柴田勝家アイコン

勝家

・・。なるほど。

これを聞いた勝家はすぐさま篝(かがり)を焚ききってしまうと一里ほど引き下がっていった。そして信長は梁田出羽守・佐々成政・中条将監を呼び寄せ、今日の殿軍を命じ、1番を梁田、2番を佐々、3番を中条と決めた。

── 小谷城 ──

一方の浅井長政は夜が明けて織田の兵が引くのをみて、朝倉の援軍がくる前に討って出るつもりでいた。

浅井久政

長政!朝倉の助けを待たずに出るとは、正気なのか!?

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浅井長政

くっ!・・・止むをえんのか。

浅井長政アイコン

父・久政がしきりにこれを諌めたため、長政は踏みとどまるしかなかった。

浅井家臣ら

家臣ら:敵が引いていくこの機を逸するとは・・。

家臣アイコン

浅井の家臣たちは討って出ないことをののしり、6百ほどの兵と申し合わせ、夜が明けるのを待っていた。

そして夜明けになり、梁田が2百ほどで殿軍を務め、その次に佐々成政、さらに中条とそれぞれ2百に足らぬ小勢を三段がまえに立ち並べ、落ち着いて退くところへ、浅井軍が討って出てきた。

梁田はこれを討ち払って退こうと目をくばった。島弥左衛門・大田孫左衛門が真っ先に進んで討ち入り、手ごろの敵を討ち伏せ、次の殿役である佐々成政に渡そうとするところ、浅井軍がドっとかかってくる勢いに押したてられて引き下がった。

浅井軍

浅井軍:撃てーーーーー!

家臣アイコン
佐々成政アイコン

佐々成政

くっ!

成政がこれを受けて立ち留まるところを浅井衆は鉄砲を撃ちかけてきて、佐々が少しひるんでいると、浅井軍がまた攻めかかり、成政隊は押し立てられたが、成政が殿をして静々と退くところへ、信長の本陣の馬廻り、織田金左衛門・生駒八左衛門・平野甚右衛門らは、今度の殿は大事だとして佐々を見失うまいと走りつけ、とって返して戦ったので、毛屋七丞・浅井新六らは戦死した。

佐々成政アイコン

佐々成政

おのれ、浅井めーーー!

浅井軍は大勢なため、ひるまずにかかってくるので成政はまた引き目になり、みずから5、6度小返ししてから中条に渡した。

中条隊が受け取ったものの、浅井軍の意気込みに中条も浮き足立った。しかし、一里程行くと三田村の向こうに柴田勝家隊が3千ほどで備えを立てて待っていたのに渡すや、柴田も受け取って殿をする。

浅井軍と柴田軍とは巳刻(午前10時頃)から申刻(午後4時頃)まで20町ほどあるところを引きかねて互いに競り合った。信長は雑人にまぎれて竜ガ鼻へ引きとり、森・佐久間・坂井・秀吉らにそれぞれ段層をつけて順に備えをたてさせた。

合戦はこのように続いたので、浅井勢もついに引きとった。この戦いを八相の退き口という。

比叡山焼き討ち(1571年)

※原作:『名将言行録』

信長が比叡山を焼き討ちにする旨を家臣に伝えたとき、佐久間信盛が信長を諌めようとして言った。

佐久間信盛

比叡山は桓武帝( =桓武天皇)がこの寺々を創建なさってから幾千年もの間、王城の鎮めでございました。それゆえ古から今にいたるまで誰一人とて、この寺を犯した者はおらぬのです。それを滅ぼしなされたらどうなることでござりましょう。

佐久間信盛アイコン
織田信長アイコン

信長

おぬしらはなぜわしの邪魔をするのだ!わしはこの国の国賊を取り除こうと言っておるだけであろう!

織田信長アイコン

信長

わしは天下の乱を鎮めようと王の道の再興のため、身命を惜しまずに1日足りとも心安んじたことはない。
昨年に摂津を攻め、まさに両城が落ちようとしているときに浅井と朝倉が兵を挙げ、わが方の後ろをうかがった。

重臣たち

重臣ら:・・・・・・。

家臣団アイコン
織田信長アイコン

信長

わしは両城をそのままにし、浅井・朝倉を山上の城中に押しあげてそこで滅ぼそうと人を遣わし、僧たちを諭した。

織田信長アイコン

信長

そして、かくかくしかじか・・・・・で僧らに丁寧に説いたが、その結果はどうだ?
奴らはこれでも従わずにしきりに凶徒を助け、我らの前に立ちふさがって抵抗したのだぞ!これは国賊という他にない!!

重臣たち

重臣ら:うっ・・・・・

家臣団アイコン
織田信長アイコン

信長

よいか!いまこれを刈りとっておかねば、憂いを天下に残すことになるであろう。また、奴らは僧の掟を犯し、禁じられたものを食し、妾を持ち、さらに誦呪(=仏事で陀羅尼 (だらに) などを唱えること)を無用として行なわないと聞いておる。

それでいかにして国を鎮めることができるのか。取り囲んで焼き払い、奴ら一人たりとも生かしておくな!

重臣たち

重臣ら:うううっ・・・・・

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信長、乞食に情けをかける(1575年)

※『信長公記』より

美濃国と近江国の境に山中(=岐阜県不破郡関ヶ原町)というところがあり、その道のほとりで、身体に障害のある者が雨露にうたれ、乞食をしていた。

信長は京都への行き来にこれを見ていて、たいそう哀れに思っていた。

そんなある時、信長は乞食に対して不審をいだき、町のとある者にふと聞いてみたときのことである。

── ある日 ──

織田信長アイコン

信長

たいてい乞食というものは、住まいを定めずに各地をさすらい歩くものだが・・
あの者(=乞食)はいつもこの地におる。何かワケでもあるのか?

町人

はい。昔、この山中の宿で常盤御前(=源義朝の妾、義経の母)が殺されました。
その報いによって殺した者の子孫は代々、身体に障害をもって生まれ、あのように乞食をしております。

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町人

世間でいう〝山中の猿〟とは、あの者のことでございます。

町人アイコン
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信長

そうであったか・・・・。

そして、やがて信長は6月26日に急に上京することになった。

--上京に向けて出発--

こうした多忙の最中、信長は乞食のことを思い出して、木綿二十反を自ら用意してお供の者に持たせた。
そして上京途中の山中の宿で馬を止めると、お供の者に以下のように命じた。

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信長

この町の者ら全員を出頭させるように触れを出せ。言いつけることがある。

町の人々はどんなことを言いつけられるのかと、おそるおそる出頭したところ、信長は木綿20反を乞食のために下賜し、町の人々にこれを預けた。

町の人たち

ざわざわ・・・

家臣アイコン
織田信長アイコン

信長

そなたら。この木綿の半分を費用にあてて近所に小屋を作り、この者を住まわせて、飢え死にしないように面倒を見てやるのだ。

町の人たち

ざわざわざわざわざわ・・

家臣アイコン
織田信長アイコン

信長

そして近隣の者たちは、麦の収穫があったら麦を1度、秋の収穫後には米を1度、1年に2度ずつ毎年、負担にならぬ程度に少しずつ、この者に分け与えてくれれば、わしはうれしく思う。

と言った。

町の人たち

うううっ・・なんとありがたい事じゃ~(涙)

家臣アイコン

この信長の恩情に、乞食の ”猿” はいうまでもなく、町の人々も泣かぬ者はなかった。そして信長のお供の者たちも皆、涙を流し、それぞれ少しの銭を拠出したのであった。

町の人々はお礼の言いようもない様子であり、 "情深い信長には神仏の加護があり、きっと一門は末長く栄えるだろう" と思ったのであった。

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  この記事を書いた人
戦ヒス編集部 さん

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