大坂の陣における豊臣・徳川両陣営のキーマン、総勢30名を一挙ご紹介!

 徳川氏が豊臣氏を攻め滅ぼした2度にわたる戦い「大坂の陣(1614~15)」。関ケ原合戦ほどではないにしろ、かなりの武将が関わった一大決戦でもありましたが、皆さんはどんな登場人物が思い浮かびますか?

 「徳川家康と秀忠父子、豊臣秀頼と淀殿、真田幸村、伊達政宗…」 ここらへんは思い浮かびそうですが、その他はあまり知らない方も多いのではないでしょうか?

 今回、戦国ヒストリー編集部が「大坂の陣」 の主な登場人物、総勢30名を独断と偏見?でピックアップ。豊臣と徳川の両陣営に分け、各人物の略歴(事典風です)をまとめました。さっそく30名の略歴を一挙にみていきましょう!

 まずはじめに。今回ご紹介する大坂の陣の参加者30名の構成は下記のとおりです。「徳川陣営が少ないじゃないか!」というツッコミ等はあるかと思いますが、今後追記も検討いたしますのでご容赦ください m(_ _)m

<豊臣陣営:計20名>
・豊臣秀頼と首脳陣4名
・豊臣譜代家臣5名
・豊臣浪人衆(主力)5名
・豊臣浪人衆(その他)6名

<徳川陣営:計10名>
・徳川譜代大名4名
・徳川外様大名6名

 また補足資料として、以下に大坂の陣の豊臣方の体制図を作成しましたので、事前にご覧いただけると、より読みやすくなるかと思います。


豊臣秀頼と首脳陣4名

1、豊臣秀頼(とよとみ ひでより)

 家康に滅ぼされた豊臣家最後の若き当主。

 豊臣政権下で秀吉と淀殿の間に誕生。のちに豊臣秀次が謀反の嫌疑をかけられて切腹したため、豊臣家の後継者となった。秀吉死後には家督を継いで遺命により、大坂城に入った。

 関ヶ原合戦(1600)では石田三成に与した毛利輝元の庇護下に置かれ、戦後は勝利した家康によって豊臣政権の蔵入地(=太閤蔵入地)を勝手に配分されてしまい、幼少の秀頼は直轄地のみを知行する一大名の立場に転落。しかし、家康が江戸幕府を開設して将軍となった後も、豊臣家の影響力は強くあったため、家康によって大阪の陣(1614~15)で滅ぼされた。


2、淀殿(よどどの)

 秀吉死後、豊臣の実権を握った秀頼の母。

 本名を浅井茶々(あざい ちゃちゃ)といい、近江の戦国大名・浅井長政と信長の妹・お市の方の間に生まれた有名な浅井三姉妹の長女である。のちに秀吉の側室となって秀頼を生み、秀吉死後は幼い秀頼の後見人として乳母の大蔵卿局とともに豊臣家の実権を握った。やがて、家康が天下をとって江戸幕府を開くと、豊臣家を臣従させようと目論む家康と対立していった。

 豊臣と徳川の最終決戦・大阪の陣がはじまり、冬の陣(1614)では大坂城本丸への砲撃を受けて徳川との講和を指示、まもなく再戦となった夏の陣(1615)で秀頼や大野治長らと共に自害した。


3、織田有楽斎(おだ うらくさい)

 徳川との和平に務めた織田信長の実弟。家康と懇意の間柄であった有楽斉は大阪の陣で交渉役を務めた一人である。

 実名は"長益"といったが、秀吉が天下統一した頃に秀吉の御伽衆となり、出家して "有楽斉" と号した。武人としてはともかく茶人として成功し、茶会などを通して交友関係も広かったようである。

 関ヶ原では家康率いる東軍についたが、戦後は豊臣家に出仕を続けて淀殿をサポートし、家康と秀頼の二条城での対面にも尽力している。

 家康は冬の陣の開戦前から水面下で豊臣との和睦交渉に動いていたが、このとき有楽斉は交渉役として和平に務めている。結局、開戦となって不本意ながら家康と敵対する羽目になったが、豊臣の将からも信用されていなかったようである。

 冬の陣の和睦時にも家康から講和交渉を受け、大野治長と共に交渉を重ねており、子を人質にだしている。夏の陣を前に大阪城を退去して豊臣家から離れ、余生を過ごした。


4、大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)

 秀頼側近の大野治長・治房らの母。淀殿の乳母を努めたことから淀殿の信頼もひときわ厚く、秀吉死後に秀吉正室・高台院(おね)が大坂城を去ると、淀殿とともに豊臣家の政治に関与した。

 徳川による豊臣方との開戦の口実となった方広寺鐘銘事件(1614)では、駿府にいる家康の元へ使者として赴き、家康の意向を大阪城に持ち帰っている。最期は大阪夏の陣で敗戦した際、淀殿や秀頼、そして子の大野治長らと共に自害した。

豊臣譜代家臣5名

5、大野治長(おおの はるなが)

 大蔵卿局の子。淀殿とは乳兄弟にあたることから親密であったとされ、秀頼の実の父ではないかと疑われもしたとの伝承もある。秀吉死後に秀頼の側近として仕え、関ヶ原合戦(1600)では家康に味方したが、その後は再び大阪城へ戻った。

 方広寺鐘銘事件(1614)で片桐且元が謀反の疑いで追放されると、豊臣方を代表する立場となり、大阪の陣では首脳として軍議でも主導権を握り、幸村や後藤又兵衛らの城外出撃論を却下するなどしている。
最期は秀頼らとともに自害した。

6、大野治房(おおの はるふさ)

 大蔵卿局の子で治長の弟。秀吉死後、兄・治長とともに秀頼に仕え、片桐且元の追放後は兄とともに豊臣方を代表する立場となった。

 冬の陣の後に家康の謀略で大阪城の堀が埋め立てられ、城外での戦いを強いられた夏の陣の戦いで活躍。筒井定慶の守る大和郡山城を落とし、徳川方の兵站基地であった堺を放火するなどしている。また、幸村の隊が家康本隊に突撃した天王寺・岡山合戦では、治房隊も徳川の大軍相手に奮戦したと伝わる。最期は諸説あってよくわかっていない。

7、木村重成(きむら しげなり)

 秀頼の乳母・宮内卿局の子。母が秀頼の乳母を務めたことで幼少期から秀頼の小姓として仕えた。

 若くて戦も未経験であったが、大阪冬の陣を前に軍議にも参加している。冬の陣の前哨戦となった今福の戦いでは、豊臣方が劣勢となっていたため援軍に赴いて徳川方の佐竹義宣の軍勢と互角以上に戦っている。実はこれが重成の初陣であった。

 最期は夏の陣の八尾・若江の戦いで、死を覚悟した上で井伊直孝の軍と激突して戦死している。

8、薄田兼相(すすきだ かねすけ)

 橙武者と嘲笑された元・秀吉の馬廻衆。出自は不明。一説に小早川隆景の剣術指南役・岩見重左衛門の二男といわれ、父が同僚に討たれたためにその敵討ちとして各地を放浪したとされている。また、豊臣政権期に仕官して秀吉の馬廻衆になったとされ、のちに浪人となったという。

 冬の陣では博労淵砦を守備していたが、兼相が不在の間に蜂須賀至鎮軍の攻撃を受けて砦はあっという間に陥落させられた。実はこのとき兼相は指揮官でありながら遊郭に出向いており、この失態で味方から見かけ倒しを意味する「橙武者」と嘲笑された。

 夏の陣では道明寺の戦いに参戦し、汚名を晴らすかのように自ら指揮を取って奮戦したが、最期は敵わずに討ち死にした。

9、渡辺糺(わたなべ ただす)

 槍術に長けた秀頼の武術の師範。秀吉のころから豊臣家に仕えた。のちに秀頼に仕えると、槍の名人だったことで秀頼から武術の師範を任されている。

 冬の陣の前哨戦・鴫野の戦いでは指揮官として徳川方・上杉景勝勢と交戦したが、敗退して鴫野砦は奪われている。夏の陣では道明寺の戦いや天王寺・岡山の戦いなど前線で戦った。しかし、大阪城陥落で命運尽きた最期は城内の千畳敷で我が子を切り殺し、自害して果てた。

豊臣浪人衆(主力)5名

10、真田幸村(さなだ ゆきむら)

 信濃国の国衆・真田昌幸の次男。関ヶ原の戦いでは家康と敵対し、九度山に幽閉されてしまうが、徳川と豊臣の大決戦を前に、豊臣秀頼の誘いに応じて九度山を脱出して大阪城へ入城した。

 大阪冬の陣では大阪城の出丸・「真田丸」を守備し、その前方にいた徳川方の前田利常・井伊直孝・松平忠直らの軍を圧倒。その幸村の戦いの凄まじさに敵方の家康から寝返りのオファーがとどく程であった。

 夏の陣では後がなくなった豊臣の軍勢は徳川の大軍の中へとびこんでいった。幸村は敵中突破して後方の家康本陣にまで突入、その凄まじさは家康に自害を覚悟させるほどのものであったという。最期は戦い疲れて休息していたところ、松平忠直隊の西尾宗次に発見されて「儂の首を手柄にされよ」との言葉を残して討ち取られた。


11、後藤又兵衛(ごとう またべえ)

 黒田家に仕えた百戦錬磨のつわ者。黒田家の家臣として関ヶ原合戦に至るまで多くの軍功をあげた武人であるが、慶長11年(1606)には黒田長政と確執によって黒田家を出奔した。その後は長政にことごとく仕官の邪魔をされた。

 浪人を余儀なくされ、大坂の陣の際に豊臣の将に加わったのは生活のためにやむを得なかったという。豊臣方ではその器量に一目置かれる存在となり、主力として戦っている。

 冬の陣では鴫野・今福方面に出陣して佐竹義宣や上杉景勝勢と交戦した。夏の陣の "道明寺の戦い"では先鋒を務めた。しかし、後続に薄田兼相や真田幸村らの隊が続くはずであったが、到着が遅れたために伊達政宗の隊など徳川の大軍相手に孤軍奮闘。最期は突撃を敢行して乱戦の中で壮絶な討ち死にとなった。


12、毛利勝永(もうり かつなが)

 元々"森"の姓であった父が秀吉による九州平定(1587年)で功を立て、"毛利"の姓を与えられた。

 関ヶ原では父とともに石田三成方に味方し、戦後は改易となって父共々、土佐の国主・山内一豊に預けられた。かねてから親交のあった山内家では厚遇されていたという。大阪の陣を前に豊臣家からの誘いの密書が届くと、山内家の監視のある中で脱出して大阪入城を果たした。

 冬の陣では大阪城の西北隅を守備した。夏の陣では道明寺の戦いで後続隊として参加。夏の陣の天王寺口の戦いでは幸村同様に最前線に陣を敷いて敵中突破して家康本陣に突入する凄まじい活躍をみせたが、幸村の隊が壊滅して窮地に陥ったためにやむなく大阪城へ撤収した。

 最期は豊臣秀頼の介錯を行った後、子の毛利勝家、弟の山内勘解由吉近とともに切腹して果てた。

13、長宗我部盛親(ちょうそかべ もりちか)

 長宗我部元親の四男であったが、豊臣政権の九州征伐で元親の嫡男・信親が戦死した際、元親によって長宗我部家の後継者に指名。元親死後には家督を継いで土佐の国主となった。

 関ヶ原合戦の後には、西軍に属した事に加え、家督争いが尾を引いて三兄の津野親忠を殺害したことで家康の怒りをかって改易されている。ここに大名家としての長宗我部家は滅びて家臣らは散り散りとなったが、盛親は浪人となって寺子屋の師匠をして生計を立てていたという。この間もお家再興をすべく、徳川幕府の閣僚に向けて再仕活動をしていたが、豊臣と徳川が対立すると、幕府の京都所司代・板倉勝重の監視下に置かれるようになったという。大阪入城の際には旧臣ら1000人ほどの従者を引き連れていたという。

 冬の陣では真田丸後方の大阪城内に陣を構え、突撃してきた井伊直孝・松平忠直軍に応戦した。また、夏の陣では"八尾・若江の戦い"で藤堂高虎隊と激突して奮戦していたが、井伊直孝らの援軍が駆けつけてきたために大阪城へやむなく撤退した。大阪城陥落にともなって逃亡したが、まもなく徳川の兵に捕えられて最期は斬首された。


14、明石全登(あかし たけのり/てるずみ)

 豊臣政権五大老の一人・宇喜多秀家の家臣であり、宇喜多家のお家騒動で重臣らが出奔したのに伴い、家中を取り仕切った。関ヶ原では秀家とともに西軍についたが、東軍が勝利したことで戦後、宇喜多家は改易されて主君・秀家は死罪を免れたものの、八丈島へ流された。

 一方で全登はキリシタンであったことから、同じくキリシタンで黒田官兵衛の弟・黒田直之を頼り、しばらくは黒田家の庇護下に置かれた。しかし、慶長14年(1609)に黒田直之が死没すると黒田家を退去している。

 大阪の陣では豊臣方の招きに応じて4000もの兵を引き連れて大阪入城を果たしたという。キリシタン軍団を編成して戦いに臨み、夏の陣では道明寺の戦いに後続隊として参加、次いで天王寺・岡山の戦いでは別働隊として家康本陣への突入を狙っていたが、豊臣方が壊滅したことを知り、徳川の包囲網を突破して戦場を離脱した。その後の消息は不明である。

豊臣浪人衆(その他)6名

15、塙 団右衛門(ばん だんえもん)

 豊臣政権下で賤ヶ岳七本槍の一人・加藤嘉明に仕えて鉄砲大将に出世したが、関ヶ原では命令を無視して兵を動かしたことで主君の嘉明から叱責を受け、これに腹を立てて出奔。その後は仕官と浪人を繰り返し、豊臣と徳川の戦いの報を知るや大阪城へ入城。

 冬の陣の前哨戦では蜂須賀至鎮の陣に夜襲をしかけ、功をあげた。このとき「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」と書いた木札をばら撒かせ、加藤嘉明に対して自分は大将の才もあることをアピールしたといわれている。

 夏の陣では紀伊の浅野長晟を攻めるため、大野治房の指揮下で出陣。治房は一揆を煽動してからの攻撃を考えていたが、先鋒の団右衛門はこれを待たずに浅野軍と激突。その結果、討ち死にした。

16、石川康勝(いしかわ やすかつ)

 石川数正の次男。父数正は元徳川家の家老で、のちに出奔して秀吉に寝返ったことで知られる。

 冬の陣では真田丸後方に位置して大阪城壁を守備していたが、配下の将が火薬を誤爆させ、康勝は火傷を負っている。ただ、この騒ぎを徳川方が内応の合図と勘違いして大阪城へ突入してきたことで結果的に幸村(真田丸の戦い)を大勝利に導いた。最期は夏の陣で幸村とともに前線を戦って討ち死にした。

17、大谷吉治(おおたに よしはる)

 豊臣奉行・大谷吉継の子。関ヶ原では父に従って石田三成に味方したが、父・大谷吉継は討ち死に。吉治は落ち延びて、その後は各地を放浪したとされる。

 大阪の陣では豊臣の将として大阪入城を果たした。100騎ほどの兵を預けられて指揮官として参戦し、夏の陣では後藤又兵衛が討ち死にした "道明寺の戦い" に参加、最期は天王寺・岡山の戦いで幸村の隊とともに前線で戦ったが、松平忠直の隊に討ち取られた。

18、南条元忠(なんじょう もとただ)

 伯耆国の国人・南条元続の子。関ヶ原の戦いでは石田三成方の西軍に与して伏見城・大津城を攻めたが、東軍の勝利によって浪人を余儀なくされる。

 大阪冬の陣では旧臣とともに大阪城への入城を果たしたが、伯耆一国という条件を受けて徳川方と通じた。しかし、内通が発覚して真田丸の戦いが行なわれる前日に城内で切腹させられた。

19、仙石秀範(せんごく ひでのり)

 信濃小諸藩初代藩主・仙石秀久の嫡男。関ヶ原合戦で石田三成に加担し、家康に与した父・仙石秀久、弟・仙石忠政と袂を分かった。このため、戦後は廃嫡されて浪人となった。

 大坂の陣に馳せ参じて指揮官として戦ったが、夏の陣で豊臣方が敗北すると、丹波国へ逃亡したとも討ち死にしたともいう。

20、浅井井頼(あざい いより)

 近江の浅井長政の子で淀殿の弟。浅井氏が滅亡(1573)したときに信長の残党狩りから逃れたといい、その後は秀吉に仕えた。夏の陣で討ち死にしたとされるが、一説に大阪城を脱出して次姉・常高院を頼って京極氏の家臣となったという。

徳川譜代大名4名

21、松平忠直(まつだいら ただなお)

 家康の次男・結城秀康の嫡子。慶長12年(1607)、父・秀康の死後にわずか13歳で家督を相続。

 初陣となった冬の陣では真田丸から見て右前方に布陣。真田丸の攻防戦で井伊直孝隊と功を競う形で真田丸へ突撃したが、待ち構えていた豊臣方の一斉射撃を受けて多くの死者を出す羽目となった。

 夏の陣でもはじめ、味方の苦戦中に傍観したことで家康から叱責されるなど精彩を欠いていた。しかし、天王寺の戦いでは幸村を討ち取るなど、徳川方で最大の首級を挙げる活躍をし、大阪城一番乗りも果たしている。

22、井伊直孝(いい なおたか)

 徳川譜代重臣・井伊直政の子。慶長7年(1602)の父・直政の死後、徳川秀忠の側近として仕える。

 冬の陣では井伊の赤備えの部隊で臨み、松平忠直隊の隣に布陣。真田丸の攻防戦で松平忠直隊とともに真田丸へ突撃したが、こちらも多くの死傷者をだしている。

 夏の陣では河内方面の先鋒として出陣し、若江の戦いで木村重成を討ち取っている。その後、大坂城の山里郭に篭っていた淀殿・秀頼母子を包囲して銃撃し、自害に追い込むという大功を挙げた。なお、木村重成を討ち取ったのは家臣の"安藤重勝"という者とされる。一説に庵原朝昌という者が討ち取ったが、その功を重勝に譲ったともいう。

23、本多忠政(ほんだ ただまさ)

 家康重臣・本多忠勝の嫡男。慶長14年(1609)に父・忠勝の隠居にともない、家督を継承して桑名藩第2代藩主となる。

 冬の陣では先鋒として大坂城の北側の天神橋方面に布陣。休戦和睦の際、松平忠明らとともに大阪城の堀の埋め立て奉行を担当している。夏の陣では京都御所の警備を勤め、その後の道明寺の戦いで後藤又兵衛隊と激戦を繰り広げた。続く天王寺の戦いでは毛利勝永隊と戦っている。

24、本多忠朝(ほんだ ただとも)

 家康重臣・本多忠勝の次男。冬の陣では大阪城東側に布陣。戦いがはじまると飲酒していたことで敵の猛攻に遭って敗退する不覚をとったといい、これが原因で家康から叱責を受けた。

 夏の陣では天王寺・岡山の戦いで先鋒の大将を務め、毛利勝永軍に対して果敢にも正面から突撃したものの、討ち死にを遂げた。

徳川外様大名6名

25、前田利常(まえだ としつね)

 加賀藩の祖・前田利家の庶子(四男)。長兄・前田利長隠居後、前田家を継いで加賀藩2代目藩主となる。

 冬の陣では徳川軍では最大の3万の軍勢を率い、真田丸の前に布陣し、井伊・松平軍と同様に我先にと真田丸へ突撃した結果、多数の死傷者を出してしまった。しかし、夏の陣では大野治房の軍勢を撃破して大阪城内へ攻め込むと、松平忠直に次いで3200の首級をあげる、という大功をあげている。

26、蜂須賀至鎮(はちすか よししげ)

 秀吉の腹心・蜂須賀小六の孫。関ヶ原では家康に味方した功により、戦後は所領を安堵され、病気を理由に参戦しなかった父・家政から家督を継承して蜂須賀家の当主となった。

 冬の陣では緒戦で木津川口の砦、博労淵砦を難なく陥落させる軍功をあげた。これら戦功は砦を守備する豊臣方の指揮官が不在だった点も見逃せない。(木津川口は明石全登、博労淵は薄田兼相が指揮官。)

 夏の陣では参陣途中、和泉国で一揆を未然に防ぐ役割を担ったために参戦はしていない。また、大阪城が陥落した後、逃亡した長宗我部盛親を捕えている。

27、伊達政宗(だて まさむね)

 奥羽の覇者・独眼竜で知られる。政宗は秀吉死後、五郎八姫(いろはひめ)を徳川家康の六男・松平忠輝に嫁がせ、徳川家と姻戚関係となった。関ヶ原の戦いでは家康に味方して上杉景勝と戦い、戦後に加増されている。

 冬の陣では嫡男・秀宗とともに出陣し、家康本陣の近く・大阪城の南に位置する大和口方面軍として布陣した。

 夏の陣では道明寺の戦いに参戦すると、先に到着していた豊臣方の後藤又兵衛隊と衝突し、銃撃の末に又兵衛を討ち取る功をあげた。なお、遅れて到着した真田幸村らとも交戦している。翌日の天王寺の戦いにも参加し、トータルで首級500余を挙げたという。

 なお、伊達隊は一説に道明寺の戦い、または、天王寺の戦いで味方の神保相茂隊数百人を射殺した(味方討ち)というが、実際のところは諸説入り乱れており、真相は定かではない。


28、藤堂高虎(とうどう たかとら)

 何度も主君を変えた三大築城名人の1人。

 秀吉の死後、元々親交のあった家康に接近し、関ヶ原では東軍に味方して決戦で大谷吉継隊と戦うなど功をあげた。戦後は伊予国宇和島8万石から今治を加増され、合計20万石となった。また、慶長13年(1608)には伊賀国・伊勢国へ計22万石に加増移封されており、これは豊臣方との決戦に備えてのものであったという。

 冬の陣では大阪城の南に布陣した。夏の陣では井伊直孝隊とともに河内方面の先鋒として出陣。八尾の戦いで長宗我部盛親隊と戦い、盛親の策にかかって苦戦に陥ったが、若江の戦いで木村重成を討った井伊直孝隊の救援によって助けられた。

 なお、盛親は敗走して大阪城へ戻っている。翌日の天王寺の戦いでは前日の戦いでの被害が大きかったことから先鋒を辞退し、岡山口の二番手としての布陣を余儀なくされた。


29、佐竹義宣(さたけ よしのぶ)

 常陸国の戦国大名・佐竹義重の長男。

 石田三成とは懇意の間柄であり、関ヶ原では西軍に味方しようと上杉景勝と密約を交わしたというが、一方で徳川秀忠へ援軍を出すなど、佐竹氏の態度ははっきりしていない。戦後しばらく経ってから水戸54万石→出羽20万石へ減転封となっている。

 冬の陣では今福の戦いで今福砦を一旦は占領するも、豊臣方の木村重成・後藤又兵衛らの救援に遭い、劣勢となって多数の死傷者を出した。しかし、上杉景勝による鉄砲の援護射撃で窮地を脱し、結果的に今福砦を占拠することに成功した。

 夏の陣では出陣の命を受けて出羽から大阪へ向かっていたが、その前に大阪城が陥落となって参戦できなかった。

30、上杉景勝(うえすぎ かげかつ)

 元々は豊臣五大老の一人という大大名。関ヶ原合戦では東軍の家康と敵対して「東の関ヶ原」といわれた慶長出羽合戦で伊達政宗らと戦った。このため、戦後は会津120万石→出羽米沢30万石へ減封という憂き目にあっている。

 冬の陣では先鋒として大阪城の東・鴫野へ出陣し、鴫野の戦いで鴫野砦を陥落。さらに鴫野砦のすぐ北で行なわれていた今福の戦いで苦戦を強いられていた味方の佐竹義宣隊を鉄砲射撃で救援し、今福砦も陥落させるという戦功をあげている。

 夏の陣では京都の守備にまわり、豊臣方と一戦も交えなかった。


おわりに

 いかがだったでしょうか。印象に残った人物はいましたでしょうか?

 もちろん大阪の陣に関わった人物はこの記事で紹介したものがすべてではありません。読者さまからのリクエスト等の機会があれば追記していきたいと思います。

 長文をご覧いただきまして、ありがとうございました。


【主な参考文献】
  • 平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』(KADOKAWA、2015年)
  • 丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社、2015年)
  • 小林計一郎編『(決定版)真田幸村と真田一族のすべて』(中経出版、2015年
  • 小林計一郎『真田幸村のすべて』(新人物往来社、1989年)
  • 小和田哲男『知識ゼロからの真田幸村入門』(幻冬舎、2015年)
  • 新人物往来社『真田幸村 野望!大坂の陣』(新人物文庫、2010年)
  • 大人のための歴史研究会『図説 真田幸村がよくわかる本』(知的生きかた文庫、2015年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
戦ヒス編集部 さん
戦国ヒストリーの編集部アカウントです。編集部でも記事の企画・執筆を行なっています。

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