そんな親氏ですが、故郷である徳河郷から流浪の旅に出ます。徳阿弥という時宗の僧侶となって…。長阿弥と名乗った父有親も一緒でした。一緒に旅立ったのは弟(松平八代の二代泰親)という説もあります。
なぜ親氏は、故郷を離れて、流浪の身となったのでしょう? しかも出家して僧になってとくれば、何か深い事情がありそうです。
江戸幕府が編纂した『朝夜旧聞裒藁』には、この疑問に関して、3つの説を述べています。
1つめは、父母が亡くなり、新田氏の宗家に育てられていた親氏ですが、その新田氏の宗家8代目の棟梁である新田義貞が足利氏に敗れて滅ぼされたため、16歳のとき、正平2年・貞和3年(1347)、流浪することになったという説。
新田氏の血脈は岩松氏などの支族によって細々と受け継がれていきますが、宗家に身を置いていた親氏は、わが身を守るために徳河郷を出るしかなかったのかもしれません。
2つめは、応永23年(1416)、関東管領上杉禅秀が鎌倉公方足利持氏に対して反乱を起こした際、親氏ら新田の支族は、禅秀方につき、翌年、禅秀が敗北したため、持氏の追手から逃れるために徳河郷を去ったという説。
3つめは、2つめの説で登場した足利持氏が、室町幕府の将軍足利義教と対立して永享10年(1438)に起こした永享の乱の結果という説。永享の乱で持氏が自刃した後、将軍義教は持氏の仲間であった新田氏の末裔の捜索に動き出します。これを察知した親氏は永享12年(1440)にやむなく徳河郷を離れたというのです。
1つめの説と3つめの説では、100年近く年代のずれがありますが、共通しているのは、徳河郷にいたら命が危険であったということ。親氏は、生き長らえるために徳河郷を離れたのです。徳阿弥という僧となって流浪したというのもうなずけます。
徳阿弥、長阿弥のように「阿」がつく号名(称号)は、浄土宗の僧侶や芸能にたずさわる者などにも見られます。徳阿弥、長阿弥が時宗の僧侶であったということが、後に三河国の時宗の寺での縁を呼び込みました。
遊行寺の境内に宇賀神社という小さい建物があります。宇賀弁財天を祀るこの神社は、親氏らが三河国の寺に移る際に奉納したとされています。遊行寺のHPでは、「諸説あります」とことわった上で、親氏の父を徳阿弥、親氏を長阿弥、そして弟である泰親を独阿弥として紹介しています。このあたりが諸説入り交じって、謎だらけの親氏を象徴しるといえるでしょう。
ちなみに、宇賀弁財天は開運弁財天として多くの人々に信仰されてきました。鎌倉や京都の銭洗弁天が有名ですが、こちらの宇賀弁財天でも銭を洗うことによって、財をもたらすといわれています。
徳川家では、元旦に兎の肉が入った雑煮を食べる習慣がありました。この習慣は、親氏らの放浪中の逸話に由来します。
遊行寺を離れた徳阿弥らは、諸国を流れ流れて、ある年の年の瀬、旧縁をたよりに信濃国の林の郷(長野県小県郡)で暮らす林藤助(光政)という人物のもとに身を寄せました。藤助は、やって来た客人をもてなし、ともに新年を祝うため、雪におおわれた山中で弓を使って一羽の兎を射止め、元旦の朝に麦飯と兎の肉が入った吸い物を振る舞ったそうです。徳阿弥らはとても喜び、藤助は後に三河国で松平親氏の家臣になったと伝えられています。
後の天文12年(1543)、称名寺で開かれた連歌の会で、家康の父である松平広忠が「神々のながきうき世を守るかな」に対して、「めぐりは広き園の竹千代」という句をつけたことから、家康の幼名が竹千代になったという逸話があります。
現在も称名寺は、歌の寺として知られています。称名寺から東へ三里ほど離れたところに坂井郷(愛知県幡豆郡吉良町酒井)という所があります。
徳阿弥は、そこの五郎左衛門という富豪と連歌を通じて親しくなり、五郎左衛門の娘婿となります。そして男の子が生まれるのですが、妻はお産の後に亡くなってしまいました。
このとき生まれた子は広親といい、徳川四天王の一人、酒井忠次の先祖とされています。
妻を亡くした徳阿弥は、坂井郷から北に七里半ほど離れた加茂郡松平郷(豊田市松平町)で太郎左衛門信重という富豪にまたも連歌を通して気に入られ、「婿になって欲しい」と頼まれます。
一説には「弟の面倒も見てもらえるなら」と条件を提示し、受け入れられたという話もありますが、かくして徳阿弥は、還俗して松平親氏と名乗るようになりました。
坂井郷でも松平郷でも連歌を通して、富豪に気に入られ、今で言う「逆玉」に乗って、松平八代の初代、松平親氏が誕生しました。
そんな親氏ですが、『三河物語』では、慈悲に満ちた人だったと述べています。
自ら道具を手に取って、山中の不便な道を切り開いてくれた親氏に対して、郷村の人々は、「必ず御恩に報います」と、感謝の心を表しましたが、親氏は、言葉を発することができず、必死に涙をこらえていました。そんな親氏を見た人々の方が涙にむせびました。
『三河物語』では、このように慈悲に満ちた親氏が人々に尊敬された様子を伝えています。
お涙頂戴の話は大久保彦左衛門の創作かもしれませんが、親氏が川や道を整備してくれたわけですから、領内の人々が親氏に感謝していたことは確かかもしれません。
中山七名を手に入れた親氏には、さらなる野望があったはずですが、松平八代の初代、松平親氏の生涯はここまでです。上野国を出た時期が、史料によって百年近いずれがあったわけですから、没年も同様に史料によって約百年の差があります。二代泰親が親氏の弟であるという説や子であるという説があるのも仕方ないでしょう。
二代泰親以降、三代信光、四代親忠、五代長親、六代信忠、七代清康、八代広忠と、松平家の襷は、元康へとつながれていきました。
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