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「三増峠の戦い(1569年)」北条方の本拠・小田原城まで進出した武田信玄。その退却戦で明暗分かれる

  • 武田信玄
  • 北条五代
 2020/02/19
三増古戦場(出所:<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A2%97%E5%B3%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84" target="_blank">wikipedia</a>)
三増古戦場(出所:wikipedia

姻戚関係を結び、同盟によって争うことなく互いに領土を拡大していった関東の北条氏と甲斐国・信濃国を支配している武田氏でしたが、永禄12年(1569年)についに激突します。

今回はその戦いの中でも明暗を分けた「三増峠の戦い」についてお伝えします。
(文=ろひもと理穂)

信玄の駿河国攻め

甲相駿三国同盟の破綻

もともと北条氏、武田氏、今川氏は甲相駿三国同盟を結んでいました。

三者会合で同盟が締結されたという「善徳寺の会盟」のイメージ
三者会合で同盟が締結されたという「善徳寺の会盟(1554年)」のイメージ

しかし、桶狭間の戦い今川義元が織田信長に討たれた後、今川氏は急激に衰退していき、武田信玄は今川氏が支配する駿河国への侵攻を決意します。信玄にとっては喉から手が出るほど欲しい海に面した領土でした。

永禄11(1568)年2月、信玄は三河国の徳川家康と、今川氏の領土を分け合う密約を交わします。家康は遠江国へ侵攻し、信玄は駿河国へ侵攻するというわけです。

義元の跡を継いで当主となった今川氏真では信玄と家康から挟撃されては到底敵いません。12月に駿河国攻めを開始した信玄は、あっという間に駿府を占領してしまいます。

今川勢救出に動いた北条勢

このとき信玄は駿河国併呑の許可を得るべく、北条氏康・氏政親子(当主は氏政)に対して小田原城に使者を送っています。

北条氏としては今川氏と手を切って、武田氏との友好関係を継続することもできましたが、彼らは今川との同盟関係を優先しました。そして氏政直々に小田原城を出陣し、駿河国へ援軍に向かったのです。

一方、氏真は遠江国へ逃れ、懸川城に籠城して徳川勢と交戦していましたが、永禄12(1569)年5月、北条氏の交渉によって包囲は解かれています。

駿府を攻略した信玄が本拠甲斐への帰路を断たれることを恐れて退却したため、氏真は駿府を取り戻すのですが、北条氏の庇護下に入ったことで今川氏は事実上滅亡という形になりました。

北条氏はこの間、信玄を牽制するため、長きにわたって交戦状態だった越後国の上杉謙信と和睦交渉をすすめてきましたが、6月にそれが実って同盟を結びます。これが越相同盟です。

ただし、その翌7月には信玄も謙信と同盟(甲越和与)を成立させています。

信玄は家康との約束を破り、駿河だけでなく、遠江への侵攻も行おうとしたことで、家康に不信感を抱かれていたのです。要するに、さすがの信玄でも、北条・徳川・上杉の強者たちを同時に敵に回すワケにはいかなかったということです。

信玄の小田原攻め

信玄の武蔵国への侵攻

駿河侵攻の妨害をされ、さらに上杉氏と手を結んだ北条氏に対し、信玄は決戦を覚悟して上野国方面から北条氏の領土に侵攻しました。

永禄12(1569)年9月、信玄は2万の兵を率いて信濃国佐久郡から碓氷峠を越えて、武蔵国鉢形城を包囲。鉢形城を守るのは氏康の四男である北条氏邦で、籠城策をとります。小田原城攻略を目指す信玄は城を攻撃せず、包囲を解いて南下しました。

続いて滝山城がありますが、こちらを守る氏康の三男北条氏照も籠城。信玄は、滝山城は落としておいた方が良いと判断して城攻めをしますが、二の丸まで誘引された末に強力な反撃にあって死傷者を出したために、攻略を諦め、さらに南下しました。

そして10月には小田原城に到着します。城にいるのは氏康、氏政親子です。まさに武田勢主力と北条勢主力の激突です。

小田原攻めと三増合戦の要所マップ。色塗部分は相模国。マーカーの数字は武田軍の立ち寄り順。

小田原城包囲と撤退

ここでの氏康・氏政親子の決断もまた籠城戦でした。つまり武田勢の侵攻に対して北条勢は徹底的に籠城作戦を貫いたのです。

10月1日に小田原城を包囲した信玄は、城攻めを開始しました。先手は蓮池門をあっさりと突破していきますが、これが罠でした。その先は行き止まりになっており、先手は左右の曲輪から矢を射られて壊滅的な損害を受けます。

外壁の防御にこだわらず、敵を誘引して迎撃するのが北条勢の得意技だったのです。

信玄は城攻めを諦め、城外に放火して敵をおびき出そうと挑発しますが、北条勢はこの誘いに乗りませんでした。こうなると長期戦覚悟となるわけですが、武田勢としては兵站の問題があり、さらに後背に鉢形衆や滝山衆の他に北条綱成が率いる玉縄衆や古河公方衆がいつ出撃してくるかわからず、危機的状況に陥ります。

そのため信玄は小田原城を包囲してわずか4日で撤退を決めたのです。しかし、攻めるのと退くのではまったく状況が異なります。武田勢は北条勢の追撃を受けながら甲斐国へ帰還していきます。

本拠地の城下を焼かれたという屈辱を受けながらも、戦国最強を誇る武田勢を撤退させたわけですから、氏康、氏政親子の采配は見事だったといえます。後は撤退する信玄を追撃して、信玄を討てるかどうかでした。

北条勢の追撃

甲府への帰路の選択

10月4日に突如退却をはじめた信玄。これを知った北条氏政は同日中に謙信に書状を送り、「翌日には追撃して武蔵・相模の間で信玄に決戦を挑む覚悟だ」と伝えています。

武田軍の甲府への帰路は無数にありましたが、侵攻してきた武蔵国から信濃国を経由する道のりはあまりにも長距離でかつ北条勢のど真ん中を突っ切る必要があり、選択肢には含まれていなかったでしょう。そうなると甲府への帰路は4つに絞られてきます。

  • ひとつは武田氏重臣の小山田信茂が開発した「小仏道」
  • さらにその北には幾分平坦な道となる「檜原道」
  • 最短距離ながらもっとも難路とされる「御坂道」
  • 東への迂回ルートで、進軍するにせよ戦うにせよ都合の良い平地が広がる「甲州道」

の4つです。

この中から信玄は甲州道を選びました。北条勢の遊軍として氏照率いる2万の軍勢が武田勢より先に進んでおり、信玄はいつでも氏照と野戦できる平地の広い道を選んだと考えられます。

撤退を開始した信玄は東へ迂回し、【酒匂】で北東に進路を変えて【七沢】へと進み、さらに北の【荻野】、【田代】、【半原】と進んでいきます。

武田軍の撤退と三増合戦の要所マップ。

この先は三増峠です。実は氏照ら2万の軍勢は10月5日には武田勢を迎え撃つべく三増峠に布陣していたのです。さらに氏政率いる北条勢の主力が小田原城を出て追撃していました。

氏康、氏政親子の描いた作戦は、この三増峠で逃げる武田勢を挟み込み、信玄を討つことでした。

氏照はなぜ三増峠を下りたのか

しかし、10月5日の夜になって氏照は三増峠を放棄し、下って相模川西岸の三増宿、道場原、志田原に布陣してしまいます。入れ替わって逆に武田勢が三増峠の高所に布陣しました。なぜ氏照は峠を下りてわざわざ不利な低地に陣を布いたのでしょうか?

大きな理由として考えられるのは、手はず通りに運ばなかったことが挙げられます。小田原城を出た氏政の軍勢は武田勢を追撃していましたが、武田勢の殿の抵抗に苦しみ、思うように前進できていなかったのです。

信玄が三増峠に布陣し、氏照に決戦をしかける時間になっても氏政の軍勢はまだ到着できていません。その時点で三増峠まであと一里半の荻野付近です。

そうなると死に物狂いで突撃してくる武田勢を単独で正面で迎え撃つことになり、かなりの死傷者が出るおそれがありました。それを避け、氏政の軍勢と合流して武田勢を叩く作戦に切り替えたのだと推測されます。

どちらにせよ信玄に帰路を空けてしまったことには変わりありません。結果としてこの決断が北条側にとっては凶と出てしまいます。

三増峠の戦い

武田勢VS北条勢の決戦

高所に布陣した信玄は氏照の布陣を一望できます。

ここでの選択肢はふたつでした。「氏政の主力が到着する前にひたすら逃げるか、その前に氏照の軍勢を蹴散らすのか…。」

このまま敵に背を向けると、今度は氏照の軍勢の追撃が始まり、ますます被害は大きくなります。だからこそ信玄は氏照に決戦を仕掛けたのです。それは10月6日の早朝でした。

ここまで必死に逃げてきた武田勢が、ここで反撃に転じたのです。氏照としては撤退する武田勢に襲いかかろうとそのときを待っていたでしょうから、まさかという気持ちもあったかもしれません。

意表を突かれた北条勢でしたが、その中には戦上手の猛将・北条綱成もいましたから、緒戦はこの綱成が武田勢の左翼の大将を務める浅利信種を討って優勢に進めています。

しかし高所から指揮する信玄は、もっとも動きの鈍い古河公方衆の部隊に集中攻撃を加えて氏照の陣を崩します。これにより氏照は一端、田代まで退くことを決断しました。陣を立て直すためです。

この時点では武田勢が優勢です。やはり見晴らしのよい三増峠の高所を信玄に譲ってしまったことが仇となっていました。

伏兵の妙

田代まで退いた氏照は陣を立て直して進軍を再開し、反撃を試みます。ここに至ってもまだ氏政の主力が到着していませんので、武田勢の殿がどれほど粘り強く抵抗したのかがわかります。

一方で信玄は軍勢を分けており、山県昌景率いる別働隊が伏兵となって氏照らが進軍してくるのを待ち構えていました。

籠城戦では武田勢を巧みに誘引して撃破していた北条勢でしたが、やはり野戦となると武田勢の方が一枚上手だったということでしょう。この昌景の伏兵が氏照の軍勢に致命的な損害を与えることに成功しました。奇襲を受けた氏照の軍勢は混乱に陥り、多数の死傷者を出して撤退します。

この戦いで亡くなった北条側の兵はなんと3269名と伝わっています。兵なり民なり、なるべく味方の死傷者を出さないように籠城戦を繰り返してきた北条氏にとってみたら驚くべき損害といえます。

これを知った氏政は追撃を諦め、小田原城へと引き返しました。信玄は勝ち鬨をあげさせ、甲府へと帰還しています。

なお、武田氏を牽制するために北条氏は上杉氏と同盟を結んでいましたが、応援の要請をいくらしても謙信は動かず、この同盟は結果としてまったく効果を発揮していません。

これが北条側の不信感に繋がり、氏康の死後、越相同盟の破棄という決断を氏政はしました。そして再び武田氏と同盟を結ぶのです。

まとめ

籠城戦では北条勢、野戦では武田勢が優れているという印象を強く残した信玄の小田原攻めですが、信玄の家臣の中にはこの強行策に批判的な者も少なからずいたようです。

仮に氏政の軍勢が武田勢の殿を蹴散らし、予定通りに三増峠で信玄を挟撃していたら、武田勢は致命的な損害を受け、もしかすると信玄すら討ち取られていた可能性があったからです。

そう考えてみると、この戦いで最も功績があったのは、氏政の追撃を必死に食い止めていた武田勢の殿だったのかもしれません。殿の兵はまさに命を捨てて信玄を守ったのです。


【参考文献】
  • 黒田基樹『図説 戦国北条氏と合戦』(戎光祥出版、2018年)
  • 伊東潤・板嶋恒明『北条氏康 関東に王道楽土を築いた男』(PHP研究所、2017年)
  • 黒田基樹『 中世武士選書 戦国北条氏五代』(戎光祥出版、2012年)


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