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  • 武田信玄
 2017/10/18

「三増峠の戦い(1569年)」北条方の本拠・小田原城まで進出した信玄。その退却戦では大勝利?

小田原城まで進軍

2度目の駿河侵攻で大宮城を陥落後の永禄12年(1569年)7月ごろ、甲府に戻った信玄だが、休む間もなく今度は上野国方面から北条領への侵略を開始する。

  • 8月24日:信玄が出陣。やがて碓氷峠を越えて信濃国から上野国へ侵入。
  • 9月9日:南下して武蔵国へ入り、北条氏邦の守る鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)を包囲。
  • 9月:その後、北条氏照の龍もる滝山城(東京都八王子市)を攻撃。
  • 10月1日:北条氏の本拠・小田原城を包囲。

信玄は上述のように次々と転戦して北条氏の本拠・小田原城へ迫ることになった。武田軍が次々と転戦して南下していったのは、北条の各城が堅固で陥落させることはできなかったためである。

この頃、徳川家康は既に武田氏との対決を見据え、北条氏や上杉氏との同盟をもくろんでいたと見られる。一方、上杉謙信は家康からの同盟の誘いのほか、北条氏からの出兵要請も受けているが、信玄との同盟(甲越和与)や越中出陣の影響もあってか、いずれにも応じていないようである。

10月1日に信玄は小田原城を包囲すると、城外や城下を放火するなどしたが、北条方は出撃せずに徹底して籠城戦をとった。 北条方の戦力は各支城に分散されていたゆえの籠城作戦だが、これは武田軍にとって背後から北条方に襲撃されるリスクもあることを意味する。

三増峠は退却戦

こうしたことから信玄は4日に小田原城の攻略をあきらめて、突如退却をはじめた。これを知った北条氏政は、同日に謙信に書状を送り、翌5日には追撃して武蔵・相模の間で信玄に決戦を挑む覚悟だと伝えている。

北条方は氏照・氏邦兄弟らが先に三増峠に急行し、帰路の武田軍を待ちかまえ、氏政ら小田原城からの追撃軍と挟み撃ちしようとした。こうして10月6日に信玄の有名な退却戦・三増峠の戦いがはじまる。

この戦いで武田勢は箕輪城主の浅利信種を失うなどしたが、武田方の記録では数千もの北条方を討ち取って大勝したと伝わっている。・・とはいえ、戦地は険しい山路であったため、武田軍は小荷駄を捨てての退却戦を強いられている。
北条氏政ら追撃軍は合戦に間に合わず、途中で敗戦の報を聞き、小田原へ引き返したという。

北条方に大打撃を与えた武田軍はその夜、津久井の近所道志河畔に夜営し、翌7日には甲斐国都留郡諏訪村(北都留郡上野原町)に着陣した。

戦後、謙信に報告する北条。

戦後の8日と16日には北条方から謙信に対して、信玄との合戦に関する内容の書状を送っている。

  • 8日:当方(北条氏政の本隊)旗本の到着が1日遅れたため、信玄を取り逃がしたのは無念だ。堅い約束にも関わらず(上杉方の)御加勢がなかったのでは致し方がない。
  • 16日:信玄をわずかの手違いで討ち取れなかったのは無念だ。寒天の候だが(上杉方が)信州まで出馬してくれるなら、当方は甲州へ攻め込む(『上杉家文書』)。

謙信が北条方の出兵要請に動かなかったことがうかがえる。



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