「北条氏政」の評価はイマイチ?天下人秀吉に最期まで抵抗するも…

 戦国乱世は、豊臣秀吉の小田原攻めによって幕を閉じ、天下は統一されます。秀吉の天下統一に最後まで抵抗したのが小田原城を拠点に関東に巨大な勢力を築いていた後北条氏の4代目当主・北条氏政(ほうじょううじまさ)です。

 2度汁かけのエピソードなど、決して評価の高くない氏政ですが、実際のところはどうなのでしょうか。今回は氏政の生涯をお伝えしていきます。

氏政の家督相続

 氏政は3代目当主である北条氏康の次子で、天文7年(1538)、または天文10年(1541)の生まれとされており、母親は今川氏親の娘である瑞渓院殿です。

 天文21年(1552)、兄の新九郎が死去したことで氏政が後継者に選ばれました。元服はその直後で、北条氏の嫡子の仮名である新九郎を称しています。天文23年(1554)には幕府相伴衆に氏康が申請しており、さらに武田晴信(信玄)の娘である黄梅院殿を正妻に迎えました。なお、この結婚により、北条・武田・今川による三国同盟が成立しています。

甲相駿三国同盟の略系図
甲相駿三国同盟の略系図

 氏政が家督を継いだのは永禄2年(1559)のことですが、これは領国内の飢饉に対応できなかったことで氏康が責任をとる形で当主の座を譲り、代替わりしたと考えられます。

 父の氏康は「御本城様」と呼ばれながら小田原城にあり、その後も亡くなるまで12年間も君臨していますので、氏政は家督を継いでも実質的な当主ではなかったわけです。


氏康時代の情勢

 合戦続きだった父の存命中は、氏政も多くの戦で父に従ったとみられます。父氏康は関東エリア広域に勢力拡大していきましたが、ここで立ちはだかったのが越後(新潟県)の上杉謙信でした。関東管領の上杉憲政や安房の里見氏の要請を受けた謙信は永禄3年(1560)に関東遠征(北条氏の討伐)に動き出すのです。

上杉謙信のイラスト

 翌年には関東の国衆らの従えて10万という大軍勢で北条氏の本拠・小田原城まで攻めよせてきました。このとき氏康・氏政父子は籠城戦で凌ぎました。さすがの謙信も堅牢な小田原城を攻略することはできなかったようです。その後、北条と上杉は関東で数年間に渡って抗争を繰り返しており、関東の国衆はその時々の情勢でどちらに従属するかの判断を迫られ、二転三転しています。

 特に安房(千葉県)の里見氏とは長い期間にわたって対立、永禄7年(1564)の第二次国府台合戦では氏政の活躍によって北条軍が勝利を手にしています。

 このように北条氏の情勢・外交関係は今川・武田との三国同盟を軸に、上杉や里見らと対立する構図でした。しかし、武田信玄の行動によって外交関係は大きく崩れます。やがて信玄は桶狭間以後に没落の一途をたどっていた今川家に見切りをつけ、徳川家康と結託。永禄11年(1568)に今川領へ侵略を開始。いわゆる「駿河侵攻」であり、この事態に北条氏は今川を支援するため、武田と敵対関係に入るのです。

武田信玄のイラスト

 この戦いで今川は事実上滅亡となり、代わりに北条 vs 武田の戦争が勃発します。外交関係は織田・徳川・上杉も絡んでまさにカオスでした。

今川滅亡後の武田と他勢力の関係
※参考:駿河侵攻で今川滅亡後(1569年)の外交関係

この時期の各合戦の詳細については以下の記事もご覧いただけますと幸いです。




外交方針の転換

越相同盟を破棄し、甲相同盟復活へ

 そうした中、元亀元年(1571)に氏康が死去。この後氏政はただちに外交方針を一転します。当時、北条は武田との戦いを有利にすべく、上杉謙信と同盟交渉を行って「越相同盟」を実現していましたが、氏康の死をきっかけにこれを破棄しています。『異本小田原記』によれば、これは氏康の遺言だったと記されています。

 北条側からすると、それだけこの同盟に実用性はありませんでした。というのも、氏政は信玄との合戦中に何度も援軍要請をするも、謙信は動かずじまいだったのです。

 こうした背景から北条は代わりに武田信玄と甲相同盟を結びます。謙信ではなく、武田氏と再び同盟関係になった方が益ありと考えたのでしょう。

 甲相同盟では、東上野を除く関東圏は北条氏、駿河国は狩野川と黄瀬川より西は武田氏の領土としました。駿河の興国寺城と平山城が北条から武田に割譲され、逆に武蔵の御嶽城は武田から北条に割譲されています。


再び上杉氏と争う

 信玄と結んだ氏政は、再び謙信と敵対して関東を巡って争うことになります。謙信は対外関係が変化したことですぐさま行動を移し、元亀3年(1572)には北条勢と戦っています。

 常陸国の佐竹氏や安房国の里見氏は上杉方に味方しました。さらに下野国の宇都宮氏も佐竹氏と和睦し、北条氏に対峙しています。逆に常陸国の小田氏は北条方に味方しました。氏政は自ら出陣し、上杉方の最前線にあたる北武蔵の羽生城や深谷城、北下総の関宿城を攻撃しており、関東は戦乱状態に陥ります。

 天正2年(1574)には謙信が越山(関東侵攻)して、4月には利根川を挟んで北条勢と対峙していますし、一度帰国した後、7月にも越山して利根川を渡り、武蔵国まで侵攻しています。しかし佐竹氏が謙信に不信感を持ち、北条氏と和議を結び、関宿城は北条側の手に落ちました。重要拠点である関宿城を押さえたことで、氏政は武蔵国と下総国を勢力下に置くことに成功しました。

 その後も謙信は里見氏の要請などによって越山していますが、以前のような勢いはなく、天正4年(1576)を最後にそれも途絶えてしまいます。その間に氏政は里見氏の拠点である佐貫城を攻め、里見氏と和睦を結びました。

 なお、翌天正5年(1577)には氏政の妹が武田氏の当主となった武田勝頼に嫁ぎ、甲相同盟を強化しています。

謙信死後の「御館の乱」では?

 こうした中、上杉氏では天正6年(1578)に謙信が死去し、ここで家督を巡る内訌が起きました。いわゆる「御館の乱」です。

 上杉景勝と上杉景虎という、2人の謙信の養子が争うのですが、景虎は氏康の末子で氏政の弟ですから、北条氏は景虎を支持します。ちなみに御館の乱が勃発したときの対立構図は概ね以下のとおりです。

◆ 景勝派
  • 上杉景勝
  • 直江兼続
など…
VS
◆ 景虎派
  • 上杉景虎
  • 北条氏(援軍)
  • 武田氏(援軍)
など…

 氏政は景虎支援のため、同盟相手である武田勝頼に対しても援軍を依頼します。勝頼は越後に進軍しますが、あろうことか途中で景勝に和議を持ちかけられて同盟を結び、撤退してしまいます。これで形勢が一気に不利となった景虎は採取的に天正7年(1579)に自害を余儀なくされました。

 氏政は景虎を養子に出した際に上野国から手を引きましたが、景虎の死によって上野国の支配権掌握を表明。一方で景勝は東上野を勝頼に譲渡しました。武田と上杉は姻戚関係となり、北条は再び武田と敵対関係に入るのです。


信長への従属

 武田氏はすぐに伊豆国の国境に沼津城を築城し、戦う姿勢を鮮明にしました。同時に佐竹氏も北条氏と敵対し、下野国小山や下総国古河で戦っており、氏政は武田氏牽制のために遠江国の徳川家康と盟約を結ぶことを決断します。

 天正8年(1580)にもなると、織田信長の包囲網はすでに崩壊しており、信長と互角に戦える勢力も残されていません。官位も正二位・右大臣にまで昇進しており、信長はまさに天下の政の中心にいます。織田と徳川は同盟を結んでいましたから、その徳川と北条が同盟を結ぶということは、織田氏に味方するということです。

 天下の形勢が確実に信長に傾いている状態で、氏政は信長に従属することを決意します。そして外交交渉で嫡子である北条氏直の正室に信長の娘を迎える約束を取り付けました。

北条氏直の肖像画(法雲寺所蔵)
氏政の嫡子でのちに5代目当主となる北条氏直。

 しかしなかなか織田氏と姻戚関係を結ぶ話が進展せず、その間にも伊豆国では武田勢と戦いが続き、佐竹勢には上野国まで侵攻を許し、下総国飯沼城を攻略されています。

 氏政はこの時点で19歳の嫡子に軍配団扇を譲渡しました。これは家督を譲ったことを内外に示したものです。氏直が北条氏の正式な当主になったことで、信長の娘を娶る話を前進させようと考えたのでしょう。氏政は43歳という若さでしたから、「御隠居様」と呼ばれながら実質的には北条氏の当主として君臨し続けました。これは氏政の父親である氏康のやり方を継承したものです。

武田氏の滅亡

 長篠の戦いに敗れて以降も勢いのあった武田氏でしたが、天正9年(1581)に遠江国の拠点である高天神城を徳川勢に攻略されてからは、衰退の一途を辿っていきます。氏政も好機と見て駿河国長窪城を攻略、また西上野の宇津木氏の調略にも成功して領土を拡大しました。

 天正10年(1582)2月になると、織田氏は信濃国の木曾氏を寝返らせ、武田氏の拠点へ侵攻していきます。織田氏から直接北条氏への援軍要請はなかったと考えられますが、その動きは徳川氏から北条氏に届いていたようです。

 織田氏・徳川氏の侵攻に呼応して、駿河国方面には氏政の弟である北条氏規が総大将を務めて吉原城まで次々と城を攻略し、河東地域を制圧しています。また上野国方面にも氏政の弟の北条氏邦が総大将を務めて領土拡大を図りました。

 武田氏は甲斐国まで侵攻を許し、織田氏に滅ぼされてしまいます。北条氏を長く苦しめてきた武田氏が瞬く間に滅びていったのですから、氏政も織田軍の勢いには驚いたでしょう。しかし、戦後処理で北条家は憂き目に遭っています。

 上野国は織田氏が占拠して重臣の滝川一益が関東御取次役となり、北条氏の東上野の領土は没収されてしまいます。さらに駿河国の統治も徳川家康に与えられ、北条は領土を狭められてしまうのです。

 北条は織田と未だに姻戚関係になく、正式な連合軍として認められていなかったようですね。氏政としてもここまで巨大になった織田氏に対抗できないと考えたのでしょう。結局はこの戦後処理を受け入れているのです。

天正壬午の乱

 北条氏としてはこのまま織田氏に従属し、現状の領土を維持しようとしていた矢先の6月に本能寺の変が勃発します。

 当時の織田家は武田を滅ぼしたばかりだったため、甲斐・信濃・上野の旧武田領の支配は信長の死をきっかけに崩壊。北条をはじめ、上杉や徳川など周辺大名の草刈り場と化しました(天正壬午の乱)。

 まず北条勢は上野国に向かって進軍、神流川の戦いで滝川一益を敗走させると、今度はそのまま東信濃へと進出。北から南下してきた上杉軍とは決戦を行わずに和睦しました。

天正壬午の乱の情勢:天正10年6月~7月中旬頃
天正壬午の乱の情勢:天正10年6月~7月中旬頃

 その後は甲斐方面に南下し、北条と徳川の決戦の様相を呈することになりますが、最終的には織田信雄の仲介によって終結となります。その和睦条件はおおむね、

  • 甲斐国と信濃国は徳川家康のもの
  • 上野国は北条氏のもの
  • 北条氏直と家康の娘・督姫の婚姻

というもの。ただ、当時徳川に属した旧武田家臣の真田昌幸はこの条件に納得しませんでした。

 真田昌幸は自力で上野国の沼田領を領有していただけにこの条件は到底受け入れがたいものであり、沼田領を北条に明け渡すことはしなかったのです。いわゆる 「沼田領問題」 であり、以後、北条と真田は何度も上野・沼田領を巡って衝突することになります。

真田昌幸の肖像画(真田幸正氏所蔵)
智謀の将・真田昌幸は氏政にとってまさに天敵だった。

北条滅亡への道

秀吉への従属に拒否し続けた氏政

 やがて天下の趨勢は豊臣秀吉に傾き、家康さえも天正14年(1586)に秀吉に従属します。これで北条氏も秀吉に従属するか、徹底抗戦するかを迫られることになりますが、氏政は秀吉に従属することを拒絶しています。

 秀吉は天正15年(1587)の年末、いまだ従属下にない関東の北条氏と奥羽の伊達氏を配下にすべく、関東・奥羽惣無事令(領土拡大を目的とした合戦を禁止する法令)を発令。しかし、氏政はこれを無視し、「沼田領問題」のある上野国では依然として北条氏邦が沼田領侵攻を継続していました。

 家康すらも軍門に降ったわけですから勝ち目がないことはわかっていたでしょうが、関東管領まで務めた北条氏が百姓出の秀吉の下につくことが許せなかったのかもしれません。

 それでも秀吉から家康を介しての上洛要請を受けたことで、天正16年(1588)8月には氏規が和議のために上洛しています。これは氏政の反対を押し切った氏直の決断だったと考えられ、北条氏として秀吉に臣従したことを意味します。

 この時期に当主としての権限は氏直に完全に移ったようであり、秀吉は正式に氏直が上洛することを要望しますが、北条氏側はこれを引き延ばしにかかります。

沼田裁定と名胡桃城事件

 そうした中、沼田領問題の実態調査をすすめていた秀吉は天正17年(1589)2月に沼田領の3分の2を北条氏、3分の1を真田氏の所領とする裁定を下します。

 これで長きにわたった沼田領問題は決着となったはずでしたが、なお火種はくすぶっていたのでしょう。同年11月には真田氏の領土である名胡桃城に北条家臣の猪俣邦憲が攻め込むという事件が勃発。この事件をきっかけに秀吉は北条討伐を決定とし、全国に追討命令が出されることになるのです。



最期

 謙信や信玄の侵攻にも耐えきった小田原城でしたが、さすがに豊臣秀吉率いる大軍勢を前にはどうしようもできませんでした。天正18年(1590)6月には開城。氏直は家康の娘を娶っていることもあり、高野山追放の処分で済みましたが、責任者である氏政や弟の北条氏照らが切腹しています。

 こうして関東に巨大な勢力を築いた後北条氏は滅亡したのです。同時にこれによって秀吉の天下統一が成され、戦国乱世の時代は終息しました。

 氏政は北条家を滅ぼした暗愚な当主というイメージが強いですが、武田・上杉・織田・徳川・豊臣といった戦国時代を代表する大名家と覇を競いあったわけですから、彼もまた戦国大名としての力量は優れていたのではないでしょうか。ただ、家康が秀吉に服従したことだけが氏政にとって大きな誤算だったのかもしれません。




【主な参考文献】
  • 黒田基樹『図説 戦国北条氏と合戦』(戎光祥出版、2018年)
  • 黒田基樹『 中世武士選書 戦国北条氏五代』(戎光祥出版、2012年)

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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