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  • 北条五代
 2017/11/19

「北条氏政」父氏康に器量を嘆かれた?後北条四代目

北条氏政の肖像画

戦国乱世は、豊臣秀吉の小田原攻めによって幕を閉じ、天下は統一されます。秀吉の天下統一に最後まで抵抗したのが小田原城を拠点に関東に巨大な勢力を築いていた「北条氏」(後北条氏)です。

今回は「北条氏政」が4代目当主として家督を継ぎ、秀吉に降伏するまでをお伝えしていきます。
(文=ろひもと理穂)

越相同盟の破棄

御本城様の死去

北条氏政は3代目当主である北条氏康の次子で、母親は今川氏親の娘である瑞渓院殿です。天文7年(1538年)または天文10年(1541年)の生まれで、天文21年(1552年)に兄の新九郎が死去したことにより後継者に選ばれました。元服はその直後で、北条氏の嫡子の仮名である新九郎を称しています。天文23年(1554年)には幕府相伴衆に氏康が申請しており、さらに武田晴信(信玄)の娘である黄梅院殿を正妻に迎えました。

家督を継いだのは永禄2年(1559年)のことですが、これは領国内の飢饉に対応できなかったことで氏康が責任をとる形で当主の座を譲り、代替わりしたと考えられます。氏康は「御本城様」と呼ばれながら小田原城にあり、その後も君臨していますので、氏政は家督を継いで12年間も実質的な当主ではなかったわけです。その氏康が死去したのが、元亀元年(1571年)でした。

甲相同盟の復活

氏康が死去すると、氏政はただちに外交方針を一転します。永禄12年(1569年)に越後国の上杉謙信と結んだ越相同盟を破棄したのです。『異本小田原記』にはこれが氏康の遺言だったと記されています。北条氏側からするとそれだけこの同盟は実用性がなかったのです。北条氏は甲斐国を拠点に勢力を拡大する武田氏と争っていましたが、何度援軍の要請をしても謙信は動きません。そのため、上杉氏との同盟を破棄し、武田氏と同盟を結んだ方が北条氏に益ありと考えたのでしょう。氏政は武田信玄と甲相同盟を結びます。そして天正5年(1577年)には氏政の妹が武田氏の当主となった武田勝頼に嫁ぎました。

甲相同盟では、東上野を除く関東圏は北条氏の領土とし、駿河国は狩野川と黄瀬川より西は武田氏の領土として興国寺城、平山城が北条氏から割譲され、武蔵国は御嶽城が北条氏側に割譲されています。こうして北条氏は武田氏と結んで、再び上杉氏と関東を巡って争うのです。

上杉氏との戦い

上杉謙信の越山

謙信はすぐさま行動を移し、元亀3年(1572年)には北条勢と戦っています。常陸国の佐竹氏や安房国の里見氏は上杉方に味方しました。さらに下野国の宇都宮氏も佐竹氏と和睦し、北条氏に対峙しています。逆に常陸国の小田氏は北条方に味方しました。氏政は自ら出陣し、上杉方の最前線にあたる北武蔵の羽生城や深谷城、北下総の関宿城を攻撃しており、関東は戦乱状態に陥ります。

天正2年(1574年)には謙信が越山(関東侵攻)して、4月には利根川を挟んで北条勢と対峙していますし、一度帰国した後、7月にも越山して利根川を渡り、武蔵国まで侵攻しています。しかし佐竹氏が謙信に不信感を持ち、北条氏と和議を結び、関宿城は北条側の手に落ちました。重要拠点である関宿城を押さえたことで、氏政は武蔵国と下総国を勢力下に置くことに成功しました。その後も謙信は里見氏の要請などによって越山していますが、以前のような勢いはなく、天正4年(1576年)を最後にそれも途絶えてしまいます。その間に氏政は里見氏の拠点である佐貫城を攻め、里見氏と和睦を結びました。

御館の乱により上野国支配権を表明

謙信は天正6年(1578年)に死去し、ここで家督を巡る内訌が上杉氏で起きます。「御館の乱」です。上杉景勝上杉景虎というふたりの養子が争うのですが、景虎は氏康の末子で氏政の弟ですから、北条氏は景虎を支持します。同時に勝頼に対しても援軍を依頼しますが、勝頼は干渉することを避け、景勝と和議を結びます。そのため劣勢になった景虎は天正7年(1579年)に滅びました。

勝頼は景勝と姻戚関係となり、同盟を結んだことで、今度は北条氏と武田氏の関係が悪化していきます。景虎を養子に出した際に上野国から手を引いた北条氏でしたが、その景虎が死んだことで、上野国支配権掌握を表明しました。しかし景勝が東上野を勝頼に譲渡したことで上野国を巡って北条氏と武田氏は争うことになったのです。武田氏はすぐに伊豆国の国境に沼津城を築城し、戦う姿勢を鮮明にしました。同時に佐竹氏も北条氏と対立し、下野国小山や下総国古河で戦っており、氏政は武田氏牽制のため遠江国の徳川家康と盟約を結ぶことを決断しました。

武田氏との戦い

信長への従属

天正8年(1580年)にもなると、織田信長の包囲網はすでに崩壊しており、信長と互角に戦える勢力も残されていません。官位も正二位・右大臣にまで昇進しており、信長はまさに天下の政の中心にいます。織田氏と徳川氏は同盟を結んでいましたから、その徳川氏と北条氏が同盟を結ぶということは、織田氏に味方するということです。天下の形勢が確実に信長に傾いている状態で、氏政は信長に従属することを決意します。そして外交交渉によって、氏政の嫡子である北条氏直の正室に信長の娘を迎える約束を取り付けました。

しかしなかなか織田氏と姻戚関係を結ぶ話が進展せず、その間にも伊豆国では武田勢と戦いが続き、佐竹勢には上野国まで侵攻を許し、下総国飯沼城を攻略されています。氏政はこの時点で19歳の嫡子に軍配団扇を譲渡しました。これは家督を譲ったことを内外に示したものです。氏直が北条氏の正式な当主になったことで、信長の娘を娶る話を前進させようと考えたのでしょう。氏政は43歳という若さでしたから、「御隠居様」と呼ばれながら実質的には北条氏の当主として君臨し続けました。これは氏政の父親である氏康のやり方を継承したものです。

武田氏の滅亡

長篠の戦いに敗れて以降も勢いのあった武田氏でしたが、天正9年(1581年)に遠江国の拠点である高天神城を徳川勢に攻略されてからは、衰退の一途を辿っていきます。氏政も好機と見て駿河国長窪城を攻略、また西上野の宇津木氏の調略にも成功して領土を拡大しました。

天正10年(1582年)2月になると織田氏は信濃国の木曾氏を寝返らせ、武田氏の拠点へ侵攻していきます。織田氏から直接北条氏への援軍要請はなかったと考えられますが、その動きは徳川氏から北条氏に届いていたようです。織田氏・徳川氏の侵攻に呼応して、駿河国方面には氏政の弟である北条氏規が総大将を務めて吉原城まで次々と城を攻略し、河東地域を制圧しています。また上野国方面にも氏政の弟の北条氏邦が総大将を務めて領土拡大を図りました。そして武田氏は甲斐国まで侵攻を許し、織田氏に滅ぼされてしまいます。この勢いには氏政も驚いたでしょう。北条氏を長く苦しめてきた武田氏が瞬く間に滅びていったからです。

しかし、織田氏と北条氏は未だ姻戚関係にはなく、正式な連合軍としても認められていなかったようで、戦後処理で上野国は織田氏が占拠し滝川一益が関東御取次役となって東上野の領土を北条氏から没収しています。また駿河国の統治も徳川氏が認められたことで、北条氏は逆に領土を狭められてしまったのです。氏政としてもここまで巨大になった織田氏に対抗できないと考えたのでしょう。この指示に従っています。

北条氏の滅亡

なぜ氏政は秀吉への従属を拒否したのか

北条氏としてはこのまま織田氏に従属し、現状の領土を維持しようとしていた矢先の6月に本能寺の変が起り、信長が死去すると同時に一益と氏政が互いに警戒して戦準備をします。上野国倉賀野で北条勢と一益の軍勢はぶつかり、緒戦で氏邦が敗れたものの、氏直が大勝して挽回したことで、一益は撤退しました。北条勢はこのまま東信濃に侵攻しています。一時は徳川勢と信濃国で衝突しそうになりましたが、織田信雄の仲介によって和睦し、天正11年(1583年)には、家康の娘である督姫が氏直の正室として嫁ぎました。

しかしその家康も豊臣秀吉に従属したことで、北条氏は秀吉に従属するか、徹底抗戦するかを迫られるのです。この時、氏政は秀吉に従属することを拒絶しています。家康すらも軍門に降ったわけですから勝ち目がないことはわかっていたでしょうが、関東管領まで務めた北条氏が百姓出の秀吉の下につくことが許せなかったのかもしれません。天正16年(1588年)には氏規が和議のために上洛していますが、氏政の反対を押し切っての氏直の決断だったと考えられます。この時期に当主としての権限は氏直に完全に移ったようです。

小田原城の開城

秀吉は正式に氏直が上洛することを要望しますが、北条氏側はこれを引き延ばしにかかります。そして天正17年(1589年)11月、真田氏の領土に北条氏に仕える沼田城城主の猪俣邦憲が攻め込んだことで秀吉は北条氏討伐を決意し、全国に追討命令が出されました。

謙信や信玄の侵攻にも耐えきった小田原城でしたが、さすがに秀吉率いる大軍を支えることができず、天正18年(1590年)6月には開城。氏直は家康の娘を娶っていることもあり、高野山追放の処分で済みましたが、責任をとって氏政と御一門衆代表として弟の北条氏照が切腹しています。こうして関東に巨大な勢力を築いた後北条氏は滅亡したのです。同時にこれによって秀吉の天下統一が成され、戦国乱世の時代は終息しました。

まとめ

北条氏を滅ぼした暗愚な当主というイメージが強いですが、武田信玄、上杉謙信、織田信長、徳川家康、豊臣秀吉という戦国時代を代表する戦国大名と覇を競いあったわけですから、北条氏政もまた戦国大名としての力量は優れていたといえるでしょう。ただし、家康が秀吉に服従したことだけが氏政にとって大きな誤算だったのかもしれません。

参考文献 黒田基樹「中世武士選書・戦国北条氏五代」 黒田基樹「戦国北条氏と合戦」





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