意外にちょいワル!?名将明智光秀の性格・人物像を読み解く

明智光秀と言えば、戦国武将には珍しく公家の習わしにも通じた教養人で、どちらかと言えば聖人君子的な性格というイメージがあるように思う。しかし、当時日本で布教活動を行っていたイエズス会の宣教師、ルイスフロイスが記した『日本史』をはじめとする複数の歴史資料からは、通説の光秀とはまた違ったキャラクターが垣間見れるのである。

早速、それらを基に光秀の性格についてもう一度検証してみよう。

ルイスフロイスの『日本史』における光秀の人物評価

ルイスフロイスの『日本史』と言えば、織田信長の "人となり" を詳細に記述していることで知られるが、その他の戦国武将についての記述も見られ、その中には明智光秀に関するものもある。

ところが、どういうわけか、この『日本史』における光秀の記述は、これまであまり重要視されてこなかったようである。通説のイメージとかけ離れた人物評であったというのが、その一因である可能性は否定できない。

フロイスによれば、光秀は

・己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた
・彼(光秀)の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者が信長への奉仕に不熱心であるのを目撃して自らがそうではないと装う必要がある場合などは、涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった
・裏切りや密会を好む

という一面も持っていたと評されている。これを額面通りに受け取ると、光秀は出世に関してはかなり腹黒い部分があったということになる。

しかし、フロイスはこうも述べている。

宗教面で光秀は悪魔とその偶像の大いなる友で、イエズス会に対しては冷淡であるばかりか悪意を持っていた。

ここで言う「悪魔」というのは仏教のことを指しているとされる。光秀はどうやら仏教寄りの武将で、イエズス会に対してはあまり好意を持っていなかったようである。

このことに対する不満が、光秀の人物評に表れているという可能性を考え合わせると、『日本史』における光秀の評価を鵜呑みにすることは少々危険かと思われる。しかしながら、少なくともかなりのしたたかさを持ち合わせた武将であるということは言えそうである。

意外に残忍・冷酷な面も…

『天台座主記』によると、明智光秀は比叡山焼き討ちを考えていた主君・織田信長を強く諫めたとされているが、近年発見された雄琴城主・和田秀純宛の光秀の書状の内容はそれを覆すものであった。

信長比叡山を焼く『絵本太閤記 二編巻六』
信長比叡山を焼く『絵本太閤記 二編巻六』

比叡山焼き討ちの10日前である9月2日付の書状には、「仰木の事は、是非ともなでぎりに仕るべく候」とある。仰木とは現在の大津市仰木町のことであるが、当時この地は比叡山延暦寺の焼き討ちに非協力的であった。

要するに、光秀はこの地の者を皆殺しにせよと命じているのである。従来のイメージとはかけ離れた残忍さが垣間見える書状である。

しかし、この「なでぎり」という表現は、豊臣秀吉の太閤検地に関する書状にも見られ、敵対する勢力に対しては苛烈な態度で臨まざるを得ない戦国武将独特の事情も見え隠れしているようにも思える。とはいえ、光秀のどちらかと言うと聖人君子的なイメージが薄らいだことは確かであろう。

ちなみにフロイスの『日本史』にも、「刑を科するに残酷」との記述が見られるのは興味深い。


家臣・領民には慈悲深かく愛妻家

『老人雑話』によると光秀は

「仏のうそは方便という。武士のうそは武略という。土民百姓はかわゆきことなり」

と述べたという。

領民に対する温かな眼差しが感じられる言葉である。実際、善政を行った光秀を今でも偲ぶ地域が存在している。例えば、京都府福知山市では現在でも光秀を悼む丹波福知山御霊大祭が行われ、光秀の遺徳を今に伝えている。


また、滋賀県にある西教寺には、近江堅田の戦で戦死した18人の家臣を弔うため、その名を列記し西教寺に米を寄進したとする寄進状が残されている。戦死した家臣の冥福を祈るための書状であるが、当時このような配慮を見せる武将は稀であったという。

光秀は愛妻家だったという数々の逸話も伝えられている。中でも、正室となる煕子が輿入れの前に疱瘡に罹り、顔に痘痕ができてしまった。しかし光秀はこれを気にせずに正室として迎え入れ、側室を1人も持たなかったという話は有名である。

これらの逸話は歴史的資料に記述がないこともあり、真偽を判断する術はない。しかし、謀反人というイメージとかけ離れた逸話が少なからず残されているところを見ると、仲睦まじい夫婦であった可能性は高いであろう。

以上のことから、光秀が家臣・領民・妻など身内の者をいかに大事にしていたかが窺えよう。

信長に匹敵する合理的精神を持ち合わせていた

能力主義で家臣を登用

光秀と言えばどちらかと言うと保守的というイメージを持っている人が多いように思われる。ところが、少なくとも家臣の登用に関しては、信長と同様に能力主義であったとされているのである。

織田家中でいち早く「家中軍法」を制定

「家中軍法」とは、簡単に言うと、明智家中における軍事の決まり事をまとめたもの。この軍法が制定された1581年当時、織田家中でこのような軍法を定めた武将は、光秀以外にはいなかった。

具体的な内容は、前半が軍団の規律について、後半が禄高に応じた軍役の基準について定められている。他の武将もその後、家中軍法を制定しているところを見ると、これがいかに画期的なことだったのかがわかるだろう。

国人衆を家臣として任用

武将が新たな領地の統治を任された場合、自分の家臣を各地の代官として任用して領民支配を行うのが一般的であったこの時代、光秀は違った方法で領国経営にあたっていたことで知られる。

光秀はナント、元からの支配層であった国人衆を取り込み、家臣として代官に任用したのである。

国人衆はその土地の事情に通じているため、領国経営がスムーズにいくというのが光秀の持論であったらしい。実際、『明智軍記』には家臣団についての記述も見られるのだが、その中に丹波の国人衆の名が書き連ねてある。

善政を布いたという語り伝えが多々聞かれる理由はこの辺にもあると思われる。

実は野望大だった?

光秀が野心家だったというイメージを抱いている人は、正直少ないと思う。ところが、様々な資料の中には光秀の野望の大きさを示唆する記述が何点か見られる。

『山鹿語類』には、若き日の光秀が芥川にて大黒天の木像を拾った際のエピソードが残されている。

周りの人々が「大黒天を拾えば千人の長になれると聞きます。」と言ったところ、光秀は「私の志はそのように小さな物ではない。」と言って、その像を手放したという。

また、『太閤記』には、毛利元就が、仕官にやってきた明智光秀を召し抱えなかったというエピソードがあるが、そこで元就は召し抱えなかった理由を次のように述べている。

「才知明敏、勇気あまりあり。しかし相貌、おおかみが眠るに似たり、喜怒の骨たかく起こり、その心神つねに静ならず」

簡単に言うと才気溢れるが、狼のような一面を隠し持っているということである。

元就は光秀の隠された野望に気がついたのかもしれない。似たような記述が『石山軍記』にも見られることは注目に値する。

ここに挙げた『山鹿語類』、『太閤記』、『石山軍記』はルイスフロイスの『日本史』や『信長公記』に比べると歴史的資料としての正確性がやや欠けると言う点を考慮すると、光秀の野望が大きかったと断定することは難しいだろう。

しかし、現代風に言うと「恐ろしくデキル男」だった光秀が、控えめな野望で満足できたかというと、その点も疑問ではある。



【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

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