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【家系図】豊臣秀吉の家系図とともに、父母兄弟や妻子も丸ごと解説!
戦ヒス編集部
2017/11/16
戦国
豊臣秀吉
家系図
【目次】
1.
秀吉の家系図
2.
秀吉の父母・兄弟姉妹
3.
秀吉の妻子
4.
秀吉7人の養子
秀吉の家系図
豊臣秀吉の家系図
秀吉の父母・兄弟姉妹
木下弥右衛門(きのした やえもん)
秀吉の父。出自は百姓、織田家の足軽・雑兵、針売り商人など、多くの説があって定かではない。
仲(なか)
秀吉の母。のちの大政所(おおまんどころ)。美濃の鍛冶・関兼貞(関兼員)の娘ともいう。
智(とも)
秀吉の同母姉。のちの日秀尼(にっしゅうに)。2代目関白となった秀次の母でもあり、
文禄4年(1595年)
の秀次切腹事件では難を逃れたが、孫(秀次の遺児)のほとんどが秀吉によって処刑された。
豊臣秀長
秀吉の異母弟。秀吉の片腕として天下統一をサポートする大きな存在だったが、小田原征伐の翌
天正19年(1591年)
に病没した。
旭姫(あさひひめ)
秀吉の異母妹。秀吉が家康を懐柔する際に家康のもとに嫁いでおり、政略結婚の道具として利用された。
秀吉の妻子
おね
秀吉の正室。のちの北政所。秀吉とおねは戦国時代には珍しい恋愛結婚であった。2人の間には子が産まれなかったため、7人の養子を迎えている。
茶々
秀吉の側室。浅井三姉妹の長女。父の浅井長政は信長に討たれ、義父となった柴田勝家は秀吉との織田家の覇権争いで敗れ、母お市の方とともに自害した。茶々にとって秀吉は親の仇であったが、やがて側室となって秀吉との間に鶴松と秀頼の2人の子を産んでいる。
豊臣鶴松(つるまつ)
秀吉の長男。嫡男として誕生したが、わずか3歳で病没した。
豊臣秀頼(ひでより)
秀吉の二男。母は茶々。関白・豊臣秀次の自害(1595年)後、秀吉の後継者となる。大阪の陣(1614-15年)で家康に敗れ、母とともに自害した。
秀吉7人の養子
羽柴於次丸秀勝
織田信長の四男。幼名は於次丸。信長の生前に秀吉の養子となったが、18歳という若さで病没した。
豊臣秀次(ひでつぐ)
三好吉房の子。秀吉の甥にあたる。のちに秀吉から関白を譲られるが、豊臣秀頼の誕生をきっかけに自害した。
豊臣秀勝(三好秀勝)
三好吉房の子で秀次の弟。朝鮮出兵(文禄の役、1592年)中に現地で病没した。
羽柴秀康
のちの結城秀康。徳川家康の次男。
天正12年(1584年)
の小牧・長久手の戦いでの講和に伴い、秀吉へ養子として出された(実質は人質)。のちに下総の結城氏の養子となった。
羽柴秀俊(ひでとし)
のちの小早川秀秋。木下家定の子。
天正13年(1585年)
に秀吉の養子となる。
慶長5年(1600年)
の関ヶ原合戦のときに石田三成を裏切り、家康を勝利に導いた人物として有名。
羽柴秀家(ひでいえ)
のちの宇喜多秀家。備前国の戦国大名・宇喜多直家の子。のちに豊臣五大老の一人。
八条宮智仁親王
誠仁親王の子。今出川晴季の斡旋で秀吉の猶子となった。将来の関白職を約束されていたが、秀吉の実子・鶴松の誕生で解約となった。
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