【家系図】豊臣秀吉の家系図とともに、父母兄弟や妻子も丸ごと解説!

  • 2017/11/16
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 戦国時代の寵児として、農民から天下人へと昇り詰めた豊臣秀吉。その波瀾万丈な生涯は多くの人を魅了しますが、彼の家族に目を向けると、天下統一の裏に隠された複雑な人間模様が見えてきます。

 子宝に恵まれなかった秀吉は、親族や他家から多くの養子を迎え、巨大な「豊臣ファミリー」を形成しました。しかし、実子の誕生によってその歯車は狂い始め、一族の絆は時に悲劇を生むことにもなります。

 本記事では、秀吉の父母・兄弟から、正室・おね、側室・茶々、そして運命に翻弄された養子たちまで、豊臣家の家系図と各人物をざっくりとご紹介いたします。秀吉が築き上げた帝国の「光と影」を、血縁関係から紐解いていきましょう。

秀吉の家系図

 秀吉の家系図を俯瞰すると、秀吉を中心とした「血のつながり」と「政略的なつながり」が複雑に絡み合っていることがわかります。

 父・弥右衛門と母・仲から生まれた兄弟たちは、秀吉の天下取りを支える強固な身内となりました。一方で、正室・おねとの間に子がなかったことは、豊臣家の将来に大きな影響を与えます。秀吉は、織田信長や徳川家康といった有力者の息子、あるいは姉・智の子である秀次らを養子に迎えることで、政権の基盤を固めようとしました。

 しかし、晩年に側室・茶々との間に秀頼が誕生したことで、それまで後継者とされていた養子たちとの関係に歪みが生じます。この家系図は、単なる家族の記録ではなく、豊臣政権が誕生し、そして終焉に向かうまでの権力闘争の縮図そのものなのです。

豊臣秀吉の略系図
豊臣秀吉の略系図

 上記で秀吉の系図を確認したら、次に各人物の簡単な事蹟(事典風です)をみていきましょう。

秀吉の父母・兄弟姉妹

木下弥右衛門(きのした やえもん)

 秀吉の父。出自は百姓、織田家の足軽・雑兵、針売り商人など、多くの説があって定かではない。


仲(なか)

 秀吉の母。のちの大政所(おおまんどころ)。美濃の鍛冶・関兼貞(関兼員)の娘ともいう。

智(とも)

 秀吉の同母姉。のちの日秀尼(にっしゅうに)。2代目関白となった秀次の母でもあり、文禄4年(1595)の秀次切腹事件では難を逃れたが、孫(秀次の遺児)のほとんどが秀吉によって処刑された。

豊臣秀長

 秀吉の異父弟。ただし、近年では秀吉と父母を同じくする兄弟だったとの見方が有力。秀吉の片腕として天下統一をサポートする大きな存在だったが、小田原征伐の翌天正19年(1591)に病没した。


旭姫(あさひひめ)

 秀吉の異父妹とされるが、同父妹との説もある。秀吉が徳川家康を懐柔する際、家康のもとに嫁いでおり、政略結婚の道具として利用された。

秀吉の妻子

おね

 秀吉の正室。のちの北政所。秀吉とおねは戦国時代には珍しい恋愛結婚であった。2人の間には子が産まれなかったため、7人の養子を迎えている。


茶々

 秀吉の側室。浅井三姉妹の長女。父の浅井長政は信長に討たれ、義父となった柴田勝家は秀吉との織田家の覇権争いで敗れ、母お市の方とともに自害した。茶々にとって秀吉は親の仇であったが、やがて側室となって秀吉との間に鶴松と秀頼の2人の子を産んでいる。


豊臣鶴松(つるまつ)

 秀吉の長男。嫡男として誕生したが、わずか3歳で病没した。

豊臣秀頼(ひでより)

 秀吉の二男。母は茶々。関白・豊臣秀次の自害(1595)後、秀吉の後継者となる。大阪の陣(1614~15)で家康に敗れ、母とともに自害した。


秀吉7人の養子

羽柴於次丸秀勝

 織田信長の四男。幼名は於次丸。信長の生前に秀吉の養子となったが、18歳という若さで病没した。

豊臣秀次(ひでつぐ)

 三好吉房の子。秀吉の甥にあたる。のちに秀吉の養子となって関白を継承。しかし、秀吉に実子・秀頼が誕生すると疎まれ、謀反の疑いをかけられることに。最後は高野山へ追放されて切腹を余儀なくされ、秀次の一族も処刑された。


豊臣秀勝(三好秀勝)

 三好吉房の子で秀次の弟。文禄の役(1592)において現地で病没した。

羽柴秀康

 のちの結城秀康。徳川家康の次男。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでの講和に伴い、秀吉へ養子として出された(実質は人質)。のちに下総の結城氏の養子となった。


羽柴秀俊(ひでとし)

 のちの小早川秀秋。木下家定の子。天正13年(1585)に秀吉の養子となる。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦のときに石田三成を裏切り、家康を勝利に導いた人物として有名。


羽柴秀家(ひでいえ)

 のちの宇喜多秀家。備前国の戦国大名・宇喜多直家の子。のちに豊臣五大老の一人に抜擢されるが、関ヶ原の戦い(1600)で西軍主力として敗北。八丈島へ流罪に。以後、約50年に及ぶ不遇の島生活を送り、天寿を全うした。


八条宮智仁親王

 誠仁親王の子。今出川晴季の斡旋で秀吉の猶子となった。将来の関白職を約束されていたが、秀吉の実子・鶴松の誕生で解約となった。

おわりに

 いかがだったでしょうか。秀吉の家系図を紐解くと、そこには「家族」という枠を超えた、天下人の執念と苦悩が刻まれています。

 実の弟である秀長の支えによって天下を盤石なものにし、正室・おねが家庭を守り、多くの養子たちが家紋を広げる。一見、完璧に見えた豊臣のネットワークは、皮肉にも秀吉が切望してやまなかった「実子(秀頼)」の誕生によって崩壊の序曲を奏でることとなりました。

 秀次切腹事件(1595)や、関ヶ原の戦い(1600)での小早川秀秋(秀俊)の裏切りなど、家系図に登場する一人ひとりの生涯を追っていくと、秀吉が築いた黄金時代がいかに危ういバランスの上に成り立っていたかが分かります。

 歴史を動かしたのは合戦の勝敗だけではありません。この複雑な家系図の中に流れる「血」と「情」、そして「野心」こそが、豊臣家の、そして日本史の大きな転換点を作ったと言えるでしょう。

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