「小松姫(稲姫)」大河真田丸で吉田羊さんが演じた、徳川一の猛将・本多忠勝の娘
- 2020/07/02
今回は徳川一の猛将・本多忠勝の娘でありながら真田家との友好のために家康の養女となって真田家の嫡男・真田信之に嫁いだ小松姫をご紹介します。
本多忠勝の娘
小松姫は天正元(1573)年に徳川の重臣・本多忠勝の長女として誕生しました。ちなみに小松姫という名は通称であり、実名は「於子亥(おねい)」、「稲姫(いなひめ)」など諸説あります。弟には忠勝の後を継ぐことになる本多忠政や本多忠朝がいます。
小松姫はいつ頃輿入れしたのか?
小松姫が真田信之の下に嫁いだ時期は定かではありませんが、以下のようにいくつもの説があります。- 天正10(1582)年説。天正壬午の乱の際に真田昌幸が家康に従属したときにあたる。
- 天正11(1583)年説(『甲陽軍鑑』)
- 天正14(1586)年説(『沼田記』)。家康が秀吉に降った年にあたる。
- 天正15(1587)年以降の説(『大鋒院殿御事蹟稿』ほか)。昌幸が秀吉に降り、家康の与力大名になった以降にあたる。
歴史研究家の間では上記のうち一番下の説を有力視しており、大河真田丸でもこの説が採られています。
その関連からか、豊臣政権下で秀吉が天正17年(1589年)から諸大名の妻子をお膝元の京や大阪に建設された武家屋敷に住まわせたとき、信之も小松姫を自らの屋敷に移したと見られています。
婿選びのエピソード
このような経緯で信之の元に嫁いできた小松姫でしたが、勇ましい彼女がどうやって信之と出会うことになったのでしょうか。こんな逸話があります。
小松姫が家康の養女としてこれから嫁ぎ先を決めようといった矢先のこと。家康はある趣向を凝らしました。それは家康が子飼いの若い武将を一堂に会して小松姫に相手を選ばせようというもの。小松姫は相手を吟味しようとしますがどの男も家康の前に委縮し頭を上げないので顔が分かりません。業を煮やした小松姫は平伏して顔を上げない男たちの髷を掴んで無理やり顔を持ち上げて一人一人見て回りました。
そして小松姫が次の男の髷を掴もうとした瞬間、小松姫の頬を持っていた鉄扇ではたいたのです。
「女子が男の髷を掴むとは何様のつもりぞ!」とでも言ったのでしょうか。その鉄扇男こそが真田信之だったのです。
小松姫は何が起こったのか分からなかったことでしょう。ですが皆が委縮する中一人だけ気概を示した信之に感動した小松姫は、家康の許可をもらって信之に嫁ぐことを決めたのです。
信憑性は何とも言えませんが、小松姫ならあってもおかしくない様なエピソードです。そしてそんな男気溢れる信之に対して陰では大河真田丸のようにデレを炸裂させていたのか想像してしまいます。
沼田城でのエピソード
慶長5年(1600年)に起こった関ケ原の戦いの直前のこと。真田家の存続をかけ真田父子は石田三成の西軍に父・昌幸と弟の幸村が。東軍の家康には信之が味方に付くと決め、下野国の犬伏の地で袂を分かつことになりました。これがいわゆる「犬伏の別れ」ですが、その後、小松姫にまつわるこんな話もあります。
── 上野国・沼田城 ──
昌幸
もうすぐ沼田じゃ源次郎(=真田幸村のこと)!わしゃ~久々に孫の顔でもみたいのう~。
(フフ。・・ついでに沼田城を乗っ取ったるわい。)
幸村
・・・(苦笑)
こうして昌幸ら一行は沼田城に着くと、夜には沼田城に使者をだし、城内で休息したい旨を伝えた。そして、このとき信幸の妻・小松姫が応対した。
小松姫
!!!?どういうことです?
いまなぜ家康公を見捨てて、なぜ帰陣なさるのですか?
昌幸の使者
理由は存じあげませんが、にわかに上田に戻ることになりました。
小松姫
夫も一緒にいるのですか?
昌幸の使者
いえ、伊豆守殿(=信幸)は家康公に従軍なさいました。
小松姫はこれに安堵の表情を浮かべた。そして・・。
小松姫
女とはいえ、この城を預かっている以上、舅(=昌幸)といえども夫の敵となった者を城内にお入れすることはできませぬ!
それでも城に入ると申すならば、城に火をつけ、私は我が子と一緒に討死するまで。どうかお引き取りください。
こうして昌幸の使者が帰ろうと城門まで辿り着いたとき、既に櫓には兵が守備しており、弓鉄砲が備えられていた。
そして使者が城外にでると、小松姫は侍女らに薙刀を持たせ、鉢巻き・たすき掛けの姿で指揮を執ったという。
一方で使者から復命を受けた昌幸は・・・。
昌幸
フフフ、そうか・・・。事情を察しなかったわしの軽率な誤りじゃったわ。
それにしてもさすがは本多の娘じゃ~~。
幸村
父上・・どうやら義姉上は本気のようですな。
そして昌幸は再び沼田城に使者をだし、自分の意志を伝えた。
昌幸の使者
殿(=昌幸)はなにも沼田城を取ろうとしているわけではなく、ただ "孫の顔がみたいだけ" とのことでございます。ご心配なさらずに。
小松姫
・・・。
(義父上様・・・。孫たちは元気にしていますよ。)
こうして小松姫は孫を連れ、昌幸と孫を引き合わせた。昌幸らは和やかな一時を終えて、その後上田城へ向かったのであった。
これは小松殿の勇敢さや聡明さを伝えているエピソードですが、史実では信之の正室は大坂屋敷におり、大谷吉継が信之の正室も保護していると昌幸に伝えていますので、残念ながら創作の可能性が高いでしょう。
小松姫の晩年は?
小松姫は次男・信政と三男・信重に二人の娘と2男2女に恵まれています。晩年には体調を崩した小松姫。元和6年(1620年)に病気治癒のために湯治場の草津温泉に向かいますが、その途次の武蔵国の鴻巣で48年の生涯を閉じました。
なお、夫の信之が小松姫の後を追うのはこれから40年以上も先のことです。
【参考文献】
- 平山優『真田信之 父の知略に勝った決断力』(PHP新書、2016年)
- 丸島和洋『真田一族と家臣団のすべて』(KADOKAWA、2016年)
- 平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』(KADOKAWA、2015年)
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄