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  • 真田幸村
 2019/04/04

「小松姫(稲姫)」大河真田丸で吉田羊さんが演じた、徳川一の猛将・本多忠勝の娘

大河ドラマ「真田丸」では吉田羊さんが演じた小松姫。凛々しく男勝りな性格で取っつきにくいものの時折見せるデレのギャップにやられた方も多かったのではないでしょうか。

今回は徳川一の猛将・本多忠勝の娘でありながら真田家との友好のために家康の養女となって真田家の嫡男・真田信之に嫁いだ小松姫をご紹介します。
(文=趙襄子)

小松姫はいつ頃輿入れしたのか?

小松姫は天正元年(1573年)に徳川の重臣・本多忠勝の長女として誕生しました。幼名は於子亥(おねい)といい、稲姫(いなひめ)とも称されました。弟には忠勝の後を継ぐことになる本多忠政や本多忠朝がいます。

小松姫が信之の下に嫁いだ時期は定かではありませんが、3つの説があります。

1つ目は天正10年(1582年)織田信長が本能寺で家臣の明智光秀に討たれ、その余波が旧武田領にも及び、旧武田領を巡って勃発した天正壬午の乱の際に信之の父である真田昌幸が家康に臣従した時だという説。

2つ目は家康が秀吉に降った天正14年(1586年)の説。

そして3つ目は、昌幸が上洛して正式に豊臣政権に服属することになった際に、家康の与力大名に任命されたことによって婚姻関係を結んだとされる、天正15年(1587年)以降の説です。

歴史研究家の間では3つ目の説を有力視しており、大河真田丸でもこの説が採られています。その関連からか、豊臣政権下で秀吉が天正17年(1589年)から諸大名の妻子をお膝元の京や大阪に建設された武家屋敷に住まわせたとき、信之も小松姫を自らの屋敷に移したと見られています。

小松姫 婿選びの逸話

このような経緯で信之の元に嫁いできた小松姫でしたが、勇ましい彼女がどうやって信之と出会うことになったのでしょうか。こんなエピソードがあります。

小松姫が家康の養女としてこれから嫁ぎ先を決めようといった矢先のこと。家康はある趣向を凝らしました。 それは家康が子飼いの若い武将を一堂に会して小松姫に相手を選ばせようというもの。

小松姫は相手を吟味しようとしますがどの男も家康の前に委縮し頭を上げないので顔が分かりません。 業を煮やした小松姫は平伏して顔を上げない男たちの髷を掴んで無理やり顔を持ち上げて一人一人見て回りました。 そして小松姫が次の男の髷を掴もうとした瞬間、小松姫の頬を持っていた鉄扇ではたいたのです。

「女子が男の髷を掴むとは何様のつもりぞ!」とでも言ったのでしょうか。その鉄扇男こそが真田信之だったのです。

小松姫は何が起こったのか分からなかったことでしょう。ですが皆が委縮する中一人だけ気概を示した信之に感動した小松姫は、家康の許可をもらって信之に嫁ぐことを決めたのです。

信憑性は何とも言えませんが、小松姫ならあってもおかしくない様なエピソードです。そしてそんな男気溢れる信之に対して陰では大河真田丸のようにデレを炸裂させていたのか想像してしまいます。

沼田城での立ち居振る舞いの逸話

慶長5年(1600年)に起こった関ケ原の戦いの直前のこと。真田家の存続をかけ真田父子は石田三成の西軍に父・昌幸と弟の幸村が。東軍の家康には信之が味方に付くと決め、下野国の犬伏の地で袂を分かつことになりました。

これがいわゆる「犬伏の別れ」です。その後、小松姫にまつわるこんな話もあります。

犬伏の別れの後、昌幸・幸村父子は上田に戻る途中にあり、今や敵地となった信之の沼田城を乗っ取ろうと画策して沼田城の門を叩きます。このとき夫の留守を守っていた小松姫は、二人が信之と決別したことを知っていたため、昌幸を一喝し城に入城させませんでした。

昌幸が入城を諦め、せめて孫の顔を見たいと頼んだところ、小松姫は子供たちを連れてお忍びで城を抜け出して昌幸に引き合わせ、満足した昌幸・幸村父子を立ち去らせた、といいます。

しかしこの行動にも異説があり、この時期の小松姫は大阪の真田屋敷にいて石田方の大谷吉継に保護されていたため事実ではないとする見方もあるそうです。

小松姫の晩年

小松姫は次男・信政と三男・信重に二人の娘と2男2女に恵まれています。 しかし、体調を崩した小松姫は元和6年(1620年)、病気治癒のために湯治場の草津温泉に向かう途中、武蔵国の鴻巣で48年の生涯を閉じました。
なお、夫の信之が小松姫の後を追うのはこれから40年以上先のことになるのです。


【主な参考文献】
  • 平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』(KADOKAWA、2015年)
  • 丸島和洋『真田一族と家臣団のすべて』(KADOKAWA、2016年)




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