謀略によりのし上がった斎藤道三・義龍父子。その出自を検証する

道三は油商人だったのか

 斎藤道三は一介の油商人から身を起こし、のちに「美濃の蝮」と恐れられた梟雄の一人であるが、今や油商人説は俗説として否定されている。以下、『美濃国諸旧記』などの史料で、道三の生涯をたどってみよう。

 道三の生年は確定しておらず、明応3年(1494)、永正元年(1504)などの説がある。道三の父は松波左近将監基宗といい、西岡(京都市西京区・向日市・長岡京市にまたがる地域)に居を定めていたという。道三の幼名は峰丸。11歳で妙覚寺(京都市上京区)に入寺し、出家して法蓮房と名を改めた。

 やがて還俗した道三は松波庄五郎と名乗りを変え、油商人を生業とした。のちに、油問屋の奈良屋又兵衛の娘を妻に迎えると、山崎屋という屋号で油商売を始め、大繁盛したのである。道三は行商をしており、店舗を構えていなかったという。

 道三には、油を売る際の有名な逸話がある。油は漏斗を用いて壺に注いだが、道三は漏斗を用いず、一文銭の穴に油を通し、こぼれたときは代金を受け取らないことにした。この変わった商売法が人気となり、美濃で道三の名を知らない者はいなかった。

 ある日、土岐氏に仕えていた矢野なる武士が、道三の油売りの方法(一文銭の穴に油を通す技)を高く評価した。そして、油売りの技術を武芸に応用すれば、武士として出世できるのではないかとアドバイスすることがあった。

 助言された道三は、直ちに油売りを止めると、鉄砲や槍などの武芸に励んだ。その後、道三は僧侶時代の同僚で常在寺(岐阜市)に入寺していた日運の仲介により、美濃守護代の長井長弘に仕官した。長井氏に仕えた道三は、西村家(長井氏の家臣)の名跡を譲り受け、西村勘九郎正利と改名したのである。

 長弘は道三を重用すると、美濃守護の土岐政房の子の政頼、頼芸に引き合わせた。政頼は道三と会った瞬間、「面倒を起こす男だ」と直感して遠ざけた。ところが、頼芸は道三の武芸に感心し、登用することになったのである。

道三の大躍進

 永正14年(1517)、道三の主君の頼芸は、兄の政頼と家督を争って敗北してしまった。すると、道三は頼芸を美濃国守護に据えようと考え、政頼の居城・革手城(岐阜市)に攻め込み勝利し、政頼を越前へ追いやったのである。道三は密かに攻撃の準備を進めており、5千5百の軍勢で革手城に夜討ちを敢行したという。

 こうして頼芸は美濃国守護に復帰したが、相変わらず長井長弘が重要な政務を担当したたので、道三は長弘を疎ましく感じていた。その後、長弘は政務怠慢などの理由によって、道三により謀殺された。道三は長井家の名跡を引き継ぐと、名を長井新九郎規秀と改め、稲葉山城(岐阜市。のちの岐阜城)を居城に定めたのである。

 天文7年(1538)、美濃守護代の斎藤利良が病で没すると、道三はその名跡を継いで斎藤新九郎利政と改名した。その3年後から、道三と頼芸は対立するようになった。天文11年(1542)、道三は数千(あるい1万)の軍勢を率いると、たちまち頼芸が籠る大桑城(岐阜県山県市)を落とし、尾張国に頼芸を追放した。こうして道三は、土岐氏に代わって美濃一国を支配することになったのだ。

 このエピソードについては、道三の事蹟だけでなく、父の事蹟も混在しているといわれている。かなり以前に、道三の生涯は新出史料によって改められた。

 道三の父・新左衛門尉は京都・妙覚寺の僧侶だったが、のちに姓を西村に改め、長井氏に仕官した。子の道三は権謀術数を駆使して頼芸を追放し、最終的に美濃国一国を入手したことがわかった(「春日力氏所蔵文書」)。つまり、道三は一代で美濃一国を手に入れたのではなく、親子二代で実現したのである。

義龍は道三の実の子だったのか

 実は、子の義龍が道三の実子だったのかという疑惑がある。道三には、側室に迎えた深芳野なる女性がいた。深芳野は丹後国の一色義清あるいは稲葉通則の娘と伝わっているが、詳細は不明である。生没年もわからない。

 当初、深芳野は土岐頼芸の愛妾だった。享禄元年(1528)、頼芸は深芳野を道三に与えたという。また、道三が深芳野を一目見て気に入り、頼芸に所望した説もある。頼芸は道三のたび重なる要望に根負けし、深芳野を道三に与えたと伝わる。

 それらの話は『美濃明細記』、『美濃国諸旧記』などの編纂物に書かれたもので、どこまで信が置けるかわからない。真偽はともかくとして、道三の子・義龍は深芳野が産んだと伝わる。義龍は、本当に道三と深芳野との間に産まれたのか、もう少し考えてみよう。

 義龍が産まれたのは、道三が深芳野を側室とした翌年、享禄2年(1529)のことである(誕生年は諸説あり)。普通、懐妊してから約10ヵ月で子供は誕生するので、義龍が頼芸と道三のどちらの子なのか、にわかに確定することはできない。

 一説によると、深芳野は道三の側室に迎えられたとき、すでに頼芸の子を宿していたという。これが事実ならば、道三は深芳野が懐妊していた事実を知りながら、側室に迎えたことになる。この説を無視できないのは、道三と義龍との関係がよくなかったからである。

 日頃、道三は義龍が実子でなかったゆえ、無能呼ばわりしていたと伝わる。そうしたこともあり、道三と義龍の仲は険悪だったという。実のところ、長井隼人正が義龍に出生の秘密を明かしたとすらいわれている。

 道三は自分の出自だけでなく、側室の深芳野や子の義龍に至るまで謎だらけの人物だった。そうした謎を記すのは、後世に成った史料のみで、神秘のベールを解き明かすのは難しいといえる。


【主要参考文献】
  • 横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興』(戎光祥出版、2015年)
  • 木下聡『斎藤氏四代』(ミネルヴァ書房、2020年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。