「深芳野」斎藤道三の側室にして、我が子・義龍の出生の秘密をもつ母親の過去とは

深芳野(大河「麒麟がくる」では演:南果歩)のイラスト
深芳野(大河「麒麟がくる」では演:南果歩)のイラスト
美濃国を手中に収めた斎藤道三は、かつての守護であった土岐頼芸を追放することによって権力を手にしました。しかし、彼の野望はよりにもよって息子の義龍によって崩壊させられ、その生涯を終えることになったのは有名な話です。

しかし、この話には検討するべき点があり、それは「本当に義龍は道三の息子なのか」ということでしょう。こうした「道三・義龍非親子説」は昔から囁かれ、その謎を裏付けているのが道三の側室にして義龍の母「深芳野(みよしの)」の生涯なのです。

そこで、この記事では深芳野の過去を分析するとともに、義龍の父がいったい誰であったのかを検討していきます。

道三の側室「深芳野」とは?

まず、深芳野については複数の史料に記載があるため、彼女の実在そのものについては概ね信用しても問題はないでしょう。ただし、その出自および生涯については不正確なところも多く、後世に創作された記述がそのまま史料に残されてしまっている可能性も少なからず存在します。

深芳野の出自について

深芳野の父母については、稲葉一鉄の姉ないしは妹ということで彼と同じ父の稲葉通則、および母の国枝正助の娘というのが近年の研究で指摘されています。これは『稲葉家譜』の記載をもとにした仮説ですが、現状ではこの説が最も妥当かと思われます。

なお、『土岐累代記』という史料では父を丹後の一色義清とみなす記載が確認できますが、史料に不審な点が多くこの記載を信頼するのは難しいという指摘も。

いずれにしても、彼女の出自について不確かな点が多いということは間違いありません。

深芳野の生涯について

そして、その生涯についてはさらに不正確なものとなってしまいます。

深芳野は二次史料である『美濃国諸家家譜』や『美濃国諸旧記』によると、身長約187センチの並ぶものない美女であったとされ、当初は土岐頼芸の妾であったという記載もあります。

ただ、頼芸が目をかけていた家臣の道三のため、享禄元(1528)年に愛妻の深芳野を彼に下げ渡したことで道三の側室となりました。

もっとも、横山住雄氏によればその実態は「道三が父と異なり頼芸派に属した結果として深芳野が彼の手に渡った」というものなようで、これは政治的意図のある行動と見るべきでしょう。

その後享禄2(1529)年に義龍を出産してからは、歴史の表舞台より姿を消すことになりました。したがって、彼女の後半生については全くもって手がかりが存在しないといえます。


義龍の父は道三なのか頼芸なのか

さて、ここまで深芳野の生涯を整理してきて、とある疑問を抱いた方もいらっしゃるかもしれません。その疑問とは、「道三の側室となってから義龍の出産までが非常に短い」という点です。

実際、昨今の研究を反映すると、1年ほどの期間があるものの、かつての通説では大永7年(1527年)に義龍を出産したと考えられていたこともあります。このあたりから、「義龍の父は道三ではなく頼芸なのではないか」という疑問が生じてきたのでしょう。

さらに、他でもない義龍が道三を討ったことで、実父を没落に追いやった道三に復讐を果たしたという「物語」の存在もこの説を後押ししました。こうしたことから江戸時代の後期には同説がまことしやかにささやかれるようになったのです。

ただし、結論から言ってしまえば今になって「義龍が実子か否か」を確定させることが不可能であるばかりでなく、限られた史料内からの推測でも道三の子であることを否定するには至っていないのもまた事実です。

その根拠として、「義龍非実子説」が江戸後期になるまで登場しておらず、近年になって道三に譲り渡された年号が変わってきたことなどが挙げられます。


そもそも、なぜ「義龍非実子説」が登場したのか

最後に、そもそもどうしてこうした異説が誕生したのかを整理して記事を締めたいと思います。この説は何も自然発生的に生まれたものではなく、大きく分けて二つの誕生要因を指摘することができるでしょう。

まず一つに、息子である義龍がそもそも道三の子であることを否定しようと奮闘していたことが大きな要因です。

道三はあくまで「成り上がり者」に過ぎず、一方で頼芸は由緒正しい土岐氏の血を受け継いでいました。当時は領国の支配やステータスの一種として「家格」を重んじたので、義龍にとっては道三の息子であるよりも頼芸の息子であったほうが丁度よかったのでしょう。

こうした義龍による一種の「プロパガンダ」を真に受けた後世の歴史家が、非実子説を唱え始めたのかもしれません。

そしてもう一つが、江戸時代に蔓延していた強烈な「勧善懲悪思想」に影響されたという要因です。

そもそも異説が誕生したのは江戸時代であり、この時期は朱子学の影響で勧善懲悪の思想がもてはやされていました。その思想と先ほど触れた「復讐物語」の美しさがリンクされたことにより、史料には記載のない異説が誕生したのかもしれません。



【参考文献】
  • 和田裕弘『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』中央公論新社、2017年
  • 木下聡「総論 美濃斎藤氏の系譜と動向」『論集 戦国大名と国衆16 美濃斎藤氏』岩田書院、2016年
  • 横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興』戎光祥出版、2015年

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  この記事を書いた人
とーじん さん
上智大学で歴史を学ぶ現役学生ライター。 ライティング活動の傍ら、歴史エンタメ系ブログ「とーじん日記」 および古典文学専門サイト「古典のいぶき」を運営している。 専門は日本近現代史だが、歴史学全般に幅広く関心をもつ。 卒業後は専業のフリーライターとして活動予定であり、 歴史以外にも映画やアニメなど ...

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