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 2018/04/08

「土岐頼芸」美濃守護の座を掴むも、配下斎藤道三の手で追放される

土岐頼芸といえば、皆さんは斎藤道三が成し遂げた「国盗り」の過程で追放された哀れな被害者、という印象を抱いているかもしれません。実際、司馬遼太郎の『国盗り物語』では、彼の野心にただ翻弄される人物として描かれていました。しかし、その生涯を追いかけてみると、彼もまた幾多の政争を勝ち抜いて守護の座にたどり着いていたことがわかります。

そこで、この記事では知られざる頼芸の生き様を、史料や文献から解説していきたいと思います。
(文=とーじん)

内紛治まらぬ美濃で守護の座を争う

頼芸は、文亀元年(1500年)に美濃国で守護を務めていた土岐政房の次男として生まれました。彼は守護の子という恵まれた立場に置かれた一方で、当時の美濃は守護や守護代、有力家臣らが互いに対立しあう環境にありました。

具体的には、政房は次男の頼芸を溺愛したためそれが原因で長男の土岐頼武と頼芸は対立し、さらに頼武を支援する形で政房の敵対勢力である守護代の斎藤氏が敵に回るなど、主君や家臣という本来は味方であるはずの者たちが火花を散らしていたのです。ちなみに、この争いに乗じて松波庄五郎(斎藤道三の父)は勢力を伸ばしていきます。

この対立は戦へと発展し、永正15年(1517年)には頼芸派と頼武派の間で合戦が勃発しました。ここで政房や頼芸は頼武を支援した斎藤氏に大敗し、これによっていったんは家督の座を諦めたかと思うかもしれません。

しかし、なんとその半年後にはふたたび頼武方へ反攻を仕掛け、ここでは彼らの勝利となったようです。実際、頼武を支援していた斎藤利良という人物は彼を連れて隣国の越前へと逃れています。この越前を領有する朝倉氏は常に頼武方を支援していたこともあり、頼芸にとっては長年の敵になっていきました。

こうして守護の座を手にしたかに思えた頼芸でしたが、永正16年(1518年)には最大の後ろ盾であった父が亡くなってしまいます。これによって頼武と利良は帰国を果たし、その後は数年間頼武が後継の守護として振舞っていたようです。

ところが、後ろ盾を失ってもなお頼芸は守護の座を諦めませんでした。大永5年(1525年)には朝倉氏と敵対する浅井氏が美濃国内に逃げ込んできたことで、この浅井氏と手を結んだ頼芸は再び挙兵に打って出ます。

この結果、頼芸の軍勢は頼武を圧倒したようで、その証拠に頼武の支援者であった利良を殺害し、さらに頼武を歴史上から抹殺しました(戦死ないしは没落したと予想され、この時から史料上に名が出てこなくなる)。

こうして守護の座を勝ち得た頼芸。しかしながら、彼の苦難はまだまだ始まりに過ぎなかったのです。

甥との対立が周辺諸国の介入を招き、「忠臣」道三とこれに対処した

守護の職に就いて以降、数年間は美濃で安定した治世を行なっていたようです。それは当時の文書などから推測が可能で、大きな戦が発生したという記録も残されていません。もっとも、天文4年(1535年)には長良川の氾濫による大災害が発生し、多数の死者が出るとともに頼芸の館も流されてしまったようです。

もっとも、この際は頼芸とその家臣として頭角を現していた斎藤道三の奮戦もあり、大事には至らなかったようです。最終的には、頼純を美濃国の大桑城主に任じるという条件で和議が図られ、美濃には頼芸と頼純という「二人の土岐氏」が存在することになりました。

ただし、頼芸側としてはこの処置を良しとしておらず、天文12年(1543年)には頼純の大桑城を襲撃し、頼純を大桑から敗走させました。ここで頼純が身を寄せたのは尾張国の織田信秀であり、この時から彼もまた美濃の情勢に介入するようになります。

信秀とは一進一退の攻防を繰り広げるも、最終的には講和

織田家および朝倉家の後援を得た頼純は、天文13年(1544年)に美濃へと襲来しました。勢力としては頼純方が優勢であったものの、彼を支援した織田家や朝倉家の軍勢も万全という訳ではなく、さらに道三の計略によって一進一退の攻防が繰り広げられました。

最終的には天文15年(1546年)にふたたび講和が結ばれ、これにより恐らく頼純の次期守護内定と頼芸の引退が約束されたものと推測されます。ところが、その頼純は翌年に急死。これにより、信秀はふたたび美濃への侵攻を企画しました。

天文17年(1548年)の美濃攻めにおいても道三を始めとした美濃衆はよく戦いましたが、小手先の工夫ではどうにもならない勢力の差を目の当たりにした道三は、織田家に対して危機感を抱いたことでしょう。同時に、信秀もまた隣国駿河の今川家に押され始めており、道三と挟撃された場合のことを想定する必要性が生じました。

こうしてお互いの利害が一致した道三と信秀は、信秀の嫡男信長と濃姫の婚姻を決定します。こうしてひとまず美濃の安全は保障されたのですが、ここで注目するべきは「守護であるはずの頼芸の名前が登場しない」ということでしょう。

本来であれば家臣の立場にある道三は、この時期から「国盗り」の野望を隠さなくなっていきます。無論織田家との講和もその計画の一環であると推測され、対外的に見ればだれの目にも道三の反意が明らかになっていました。

こうして権力の掌握を掲げた道三は、天文18年(1549年)頃には実質的に美濃国を掌握していたと目されています。頼芸の追放に関しては年号が定かではありませんが、遅くとも翌年には美濃国を追われたと考えられており、彼の守護生活は唐突に終わりを告げました。

守護返り咲きを目論むも、不遇の晩年を送ることに

美濃を追われた当初は、道三と親戚関係にあった信秀に対し、彼の不義理を訴えかけています。ところが、肝心の信秀は当時病に倒れており、代返した家臣らも頼芸に同情的である一方で、具体的な行動は起こさないという対応をしたようです。

こうして美濃奪還の望みが事実上潰えた頼芸は、親戚の六角氏を頼る形で落ちのびていきました。この時期にはすでに出家をしていたようで、実の弟がいた常陸国に土岐氏ゆかりの財宝や系図などの品々を送っていたようです。

その後、永禄11年(1568年)に六角氏が織田の軍門に下ると、頼芸は近江国を出て甲斐の武田氏を頼りました。武田氏には美濃国ゆかりの快川紹喜という僧がいたため、恐らく彼の伝手で甲斐国を紹介されたのでしょう。

しかしながら、時は下って天正10年(1582年)には武田領を制圧した信長の手によって頼芸が隠居していた恵林寺は焼き討ちに遭い、彼もまた信長の手の者に捕らえられてしまいました。ただし、この際にはかつて土岐氏の家臣であった稲葉良通(一鉄)の嘆願があり、それによって一命をとりとめています。

当時すでに失明していたともされる頼芸は、約30年ぶりに良通に導かれる形で織田領となった美濃へと帰還を果たしました。同地で余生を過ごした頼芸は、思い残すことが亡くなったかのように同年中には亡くなってしまいました。

なお、頼芸は文化面の造詣も深く、特に鷹の絵を得意とした画家としても有名です。彼の子孫には江戸幕府にて絵描きになっている人物がいるほどで、そうした才能は確かなものだったのかもしれません。


【主な参考文献】
  • 戦国人名事典編集委員会編『戦国人名辞典』吉川弘文館、2006年
  • 横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興:戦国美濃の下克上』戎光祥出版、2015年
  • 木下聡「総論 美濃斎藤氏の系譜と動向」『論集 戦国大名と国衆16 美濃斎藤氏』岩田書院、2016年




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