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  • 室町幕府
 2018/04/24

「久米田の戦い」反三好の畠山氏が六角との共闘で、かつての本拠を奪還!
──永禄5年(1562年)

久米田の戦いは、打倒三好に向け、紀伊を本拠とする畠山氏と近江六角氏が南北から挟撃したとき、畠山軍が和泉国の久米田寺周辺で三好長慶の弟・実休の軍勢を迎撃、撃退した戦いである。

合戦マップ

時期永禄5年(1562年)3月5日
勢力三好実休 vs 畠山高政
場所和泉国八木郷久米田寺周辺(現在の大阪府岸和田市)

合戦の背景

河内守護であった畠山高政は、かつて三好政権と友好関係にあったが、永禄3年(1560年)に対立関係となった三好氏に本拠・高屋城を占拠され、紀伊国へと後退していた。

一方、近江の守護大名・六角義賢は反三好の細川晴元と姻戚関係にあったことから、たびたび晴元を助けて三好長慶と戦っていた。 そうした中、永禄4年(1561年)に晴元と長慶が和睦するが、まもなくして晴元が幽閉されてしまう。 これに憤慨した六角氏が畠山氏と通じ、南北から同時に京へ攻め込む計画を立てると、同年7月に両氏は挙兵。六角軍は京都の将軍地蔵山城を占領し、畠山軍は紀伊から北上して大阪の岸和田城を包囲したのである。

これに対して長慶は、対六角軍には松永久秀ら大和衆7千の軍勢を、対畠山軍には三好実休ら河内衆のほか、淡路衆や阿波衆を加えた7千程の軍勢を派遣。こうして合戦の準備は整いつつあったが、いずれの地点(京都と大阪)ともに長期の対峙となった。 先に動きがあったのは六角軍による将軍地蔵山城周辺での戦闘だった。それが同年11月の将軍地蔵山の戦いである。
この戦いで六角軍は松永久秀や三好義興の軍勢を破って快勝しているが、その後も小競り合いが続いたとみられる。

もう一方の戦線の岸和田では、畠山軍が長らく岸和田城を包囲し、三好実休らの軍勢がその近くの久米田寺周辺の貝吹山城に布陣していたが、大規模な衝突にはならず、にらみ合いが続いたようである。

合戦の経過・結果

そして対陣から7カ月ほど経った翌永禄5年(1562年)の3月5日、ついに開戦となる。

『細川両家記』によれば、畠山軍が先に貝吹山城に魚鱗の陣形をとって攻め込み、第一陣が安見宗房隊、第二陣が遊佐信教隊、第三陣が湯川直光隊とし、これに対する実休軍は前衛に篠原長房隊、右翼に三好康長隊、左翼に三好政康隊、中堅に三好盛政隊、そして本陣が三好実休隊という布陣で臨んだという。

戦いは畠山軍が春木川を渡ってきたところから、実休軍が一斉に矢を放って応戦してはじまり、両軍激しい死闘となった。 畠山軍は背水の陣で臨んだが、第一陣・第二陣と崩れはじめた。しかし、実休軍の篠原隊と本陣の距離がひらいた隙をみて、畠山の第三陣が篠原隊の背後に回り込もうとする。すると、篠原隊を助けるべく実休軍は一気に前線に突入したという。
結果、実休の本陣が手薄となり、突然本陣の後方から銃声が聞こえると、馬廻り衆もろとも実休も討ちとられたのである。

戦後

この戦いは両軍合わせて2千もの死者が出たといわれる壮絶な戦いであった。総大将を失った実休軍は総崩れとなり、残兵たちは堺を経てそのまま本拠の阿波へ、また、岸和田城の安宅冬康も脱出して淡路へそれぞれ帰国。また、三好方となっていた高屋城の城兵が逃げだしたため、畠山氏は難なく高屋城の奪還にも成功している。

一方で六角軍のいた京都では、実休軍の敗戦を知った三好勢が勝竜寺城まで撤退し、将軍足利義輝岩成友通の警護で石清水八幡宮へ移された。そして翌3月6日には六角軍が洛中に進軍し、京を掌握することになった。
だが、三好勢はすぐに反撃体制を整え、同年5月の教興寺の戦いにつながっていくことになる。




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