吉田郡山城の攻防で毛利元就が尼子詮久に勝利した秘密とは

戦いの発端

 安芸毛利氏といえば、鎌倉幕府を支えた大江広元の子孫であるが、室町期に至っても一国人に過ぎなかった。そんな毛利氏を一代で中国地方を代表する戦国大名に押し上げたのが、中興の祖の毛利元就である。

 その画期となった戦いこそが、天文9年(1540)の吉田郡山城(広島県安芸高田市)の攻防だった。吉田郡山城は、毛利氏の居城である。

 16世紀初頭、中国地方で大きな勢力を誇っていたのは、周防の大内氏と出雲の尼子氏だった。中でも尼子氏は、最大時には8ヵ国も支配下に収めたと言われている。毛利氏は、強勢を誇る尼子氏と敵対していた。

 そこで、毛利元就は大内氏を頼り、尼子氏に対抗しようとした。その動きが尼子詮久(のちの晴久)を刺激し、天文9年に勃発したのが吉田郡山城の戦いである。

 天文9年8月、尼子詮久は約3万という大軍勢を率いて、元就を討つべく月山富田城(島根県安来市)を出陣した。しかし、尼子氏の領国の規模からいえば、約3万という数は多すぎる。実際は、1万にも満たなかったのではないだろうか。

 尼子軍が向かったのは、毛利氏が籠る吉田郡山城である。同年9月、尼子軍は吉田郡山城にほど近い風越山に本陣を置くと、湯原宗綱、吉川興経らの家臣を城を取り巻くように配置した。攻城戦のセオリー通りである。

 尼子軍に攻囲された元就は、吉田郡山城で家臣らとともに籠城することになったが、軍勢はわずか3千にも満たなかったという。それだけでなく、城内には、尼子軍を恐れた非戦闘員(村人)が避難しているありさまだった。

 その後、毛利氏と同盟関係にあった大内氏は、家臣の杉隆相が毛利方の小早川興景らとともに坂城(安芸高田市)に入城した。毛利方の家臣は、吉田郡山城に宍戸隆家と天野興定が入り、また宍戸元源が五龍城に、福原広俊が鈴尾城(以上、安芸高田市)にそれぞれ入城した。こうして両軍は、対峙したのである。

※参考:吉田郡山城の戦いの要所(戦ヒス編集部作成)。色塗部分は安芸国

尼子氏の攻撃

 9月5日以降、尼子氏は毛利方を攻撃をしたが、決定的な勝利を収めるまでには至らなかった。ようやく戦局が動いたのは、9月12日になってからだ。同日、尼子氏の軍勢が吉田郡山城下に火を放つと、毛利方は渡辺通らが尼子軍を撃退しようとした。

 毛利方には、作戦があった。まず、足軽に多治比川を渡河させ、途中で退却を命じる。こうして、尼子軍に毛利方の敗走兵を追撃させ、潜ませていた伏兵に追い掛けてきた尼子軍を急襲させるというものだった。

 この作戦は見事に成功し、毛利軍は尼子軍の高橋元綱ら家臣を含め数十名を討ち取ったのである。この戦闘は、鎗分・太田口の戦いである。

 吉田郡山城付近の広修寺や祇園の縄手でも両軍が交戦したが、尼子軍は敗北を喫し、本陣のある風越山に撤退せざるを得なくなった。その後、尼子軍は本陣を青光山(郡山の南西で連なっている青山と光井山の総称)に移すと、元就は風越山の陣に攻め込んで火を放った。

 9月26日、尼子軍の湯原宗綱が約1千5百の兵で坂城を攻撃すると、毛利方の杉、小早川勢が直ちに応戦した。吉田郡山城からも粟屋元良が援軍として派遣されたので、湯原勢は敗北を喫し、宗綱は戦死したのである。

 10月11日、尼子誠久が約1万の軍勢を率い、吉田郡山城に攻め込んだ。元就は兵数でこそ劣っていたが、三手に軍勢を分けて迎撃した。元就も尼子軍を引き付けるべく、約1千の軍勢を率いて出陣した。

 元就勢と尼子軍が交戦に及び、戦いが膠着状態になった頃、尼子軍に毛利軍の伏兵の二部隊が左右から攻め込んだ。結果、尼子軍は壊滅的な敗北を喫して敗走し、家臣の三沢為幸ら約5百人が討ち死にした。この戦闘が、青山土取場の戦いである。

 大内方の陶隆房は内藤興盛らと約1万の軍勢を引き連れ、12月3日に吉田郡山城の近くに到着した。翌天文10年1月、毛利軍は尼子軍と戦い勝利した。その後、毛利軍は宮崎長尾に陣を置いた尼子軍を総攻撃しようとした。

潰滅した尼子軍

 1月13日の早朝、毛利軍は約3千の軍勢で尼子軍を急襲した。攻撃を受けた尼子軍は、あえなく逃走した。結果、毛利軍は大きな戦果を挙げて、吉田郡山城に帰城した。

 大内軍は尼子軍を牽制していたが、本陣の宮崎長尾に尼子氏の援軍が来る気配がないことに気付いた。そこで、大内軍は尼子軍が集結する青光山を奇襲する作戦を立てた。大内軍は迂回して江の川を渡り、尼子軍に近づき、尼子本陣の背後から奇襲したのである。

 奇襲された尼子本陣は、予想外のことだったので大混乱に陥った。尼子軍の尼子久幸は、わずか5百余の軍勢を率いると、青光山で大内軍と激しい攻防を繰り広げた。しかし、久幸が額に矢を受けて討ち死にすると、両軍膠着状態のまま戦いを終えたのである。

 戦後、尼子詮久は諸将を集め、軍議を開催した。尼子軍は連戦連敗したので、諸将のモチベーションは著しく低下していた。さらに、尼子軍は武器や兵糧などの兵站不足に陥っており、戦争を継続するのが困難になっていた。大内義隆が自ら出陣するとの噂も流れたので、もはや尼子氏には勝ち目はないと判断した。

 結局、尼子軍は戦争の継続を断念し、全軍が撤退することになった。毛利・大内の両軍は、出雲へ逃走する尼子軍を追撃したが、積雪に阻まれて断念した。尼子軍は深い雪に撤退を阻まれたが、何とかして出雲に逃げ帰ったのである。


【主要参考文献】
  • 米原正義『出雲尼子一族』(吉川弘文館、2015年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。