徳川家康の外交(本能寺の変編) 信長死後の大混乱にどう対処していったのか?

家康は武田滅亡からわずかな数か月で、自領を五か国にまで拡大した。
家康は武田滅亡からわずかな数か月で、自領を五か国にまで拡大した。
 天正10年(1582)6月、天下統一に向かって邁進する織田信長は「本能寺の変」により、思わぬ形でその生涯を終えました。当然、織田領国は大混乱に陥りますが、その混乱の裏で甲斐・信濃へと勢力を伸ばし、短期間で5ヶ国を領する大大名に変貌を遂げたのが徳川家康です。

 しかし、そこに至るまでの過程には様々な困難がありました。本記事では家康が一気に5か国領有に至った経緯、本能寺の変によって激変した外交状況等をみていきましょう。

「甲州征伐」の恩賞で駿河国を獲得

 家康は武田勝頼の代の甲斐武田氏とは敵対関係にありました。その領土は三河と遠江の2か国。とはいっても、高天神城での攻防などもありましたので、事実上はそれ以下でした。

 しかし、長篠の合戦(1575)で勝利、また上杉謙信の後継を巡って勃発した御館の乱(1578~80)をきっかけに北条氏が武田と断交したことで徐々に有利となっていきます。この後、北条は織田と同盟関係になったので、武田としては「織田・徳川・北条を敵に回す」という厳しい状況に追い込まれたのです。

 そして、天正10年(1582)の正月、武田氏の一門衆であった木曽義昌が織田氏に寝返るという事態が発生。この裏切り行為に武田勝頼は討伐軍を差し向けますが、義昌に救援を求められた信長は武田氏の征伐を決めます。

 2月3日、信長は美濃方面から嫡男信忠率いる織田軍、駿河方面から徳川軍、関東方面から北条軍が出陣するよう指示、多方面から武田領国に進軍する作戦をとりました。駿河に進出した徳川軍は、武田氏の一門衆である穴山梅雪を寝返らせ、駿府を攻略した後に甲斐へ向けて進軍しました。

 織田・徳川・北条軍の大攻勢を受けたことで武田の家臣・国衆等が次々と裏切り、ついに追い詰められた勝頼は3月11日に自害。ここに武田氏は滅亡しました。その後、家康は恩賞として信長から駿河一国を与えられています。これによって、家康は三河・遠江・駿河の3ヶ国を領する(ただし、穴山梅雪領は除く)大名となったのです。

 ただし、この頃の家康は織田氏に従属する立場であり、政治的・軍事的に織田氏の保護を受けていたという点はおさえておきたいところです。また、その一方で北条氏は何の恩賞も与えられませんでしたので北条氏の恨みを買ったと考えられています。

九死に一生を得た「伊賀越え」

 長年脅威となっていた武田氏の滅亡により、徳川領国には「平和」な時代が訪れようとしていました。しかしそのわずか3か月後の6月2日には、誰も予想しなかった「本能寺の変」が勃発します。信長・信忠父子の突然の死は家康を含め、多くの人々の運命を変えたといえるでしょう。

 この当時の家康は駿河拝領のお礼のため、前月の5月に近江安土の信長を尋ね、そのまま信長の勧めに応じて畿内を観光。変の当日は堺に滞在しており、堺から京に上り信長と合流する予定でした。

 家康は京に向かう道中で信長横死の一報に接したとされています。このときの家康は僅かな供回りしか率いておらず、命を落とすリスクも潜んでいました。滞在している堺は京に近いため、明智勢の襲撃や落ち武者狩りに遭う可能性が高かったのです。

 動揺した家康は三河への帰還を諦めて、京都の知恩院に入り、信長に殉じる意向を表明したとも伝わっています。しかし家臣から説得を受けて、結果的には「甲賀→伊賀→伊勢」というルートで三河への帰還を目指すことになりました。

伊賀越えイメージ
伊賀越えイメージ

 一説にこのルートの決定は、信長から案内役として付けられていた長谷川秀一が、甲賀・伊賀地域の領主層と交流をもっていたため、と考えられています。さらに家康は天正伊賀の乱(1581)で逃れてきた人々を匿っていたため、伊賀経由なら落ち武者狩りに襲撃される可能性は低かった、とする推測もあります。

 伊賀越えの際、家康と行動を共にしていた穴山梅雪とその主従は、独自で甲斐を目指すことを希望。家康の説得にもかかわらず、梅雪は家康と別れた結果、落ち武者狩りに襲われて命を落としてしまいます。

 一方で家康一行は甲賀・伊賀の国衆らの協力を得て、伊勢から海路で三河に無事帰還しました。帰還の最中、家康一行も落ち武者狩りにあったとみられ、200人程度が討ち取られており、一歩も間違えれば家康も梅雪のように落命していた可能性があったようです。

 三河に戻った家康は休むまもなく、明智光秀を討つために6月14日には出陣。しかしすでに羽柴秀吉が光秀を討ち取っていたため、21日に帰陣しました。


北条軍と対峙した「天正壬午の乱」

 その頃、旧武田領国である甲斐・信濃・上野は、信長の死によって政情が不安定化していました。

 甲斐では一揆が起き、信長から甲斐を任されていた河尻秀隆が討たれました。信濃でも森長可や毛利長秀ら織田勢は撤退を余儀なくされています。やがて北信濃には越後上杉氏が、そして上野国へは北条氏が侵攻してくるのです。

天正壬午の乱イメージ。かつての武田領(甲斐・信濃・上野)が奪い合いとなった。
天正壬午の乱イメージ。かつての武田領(甲斐・信濃・上野)が奪い合いとなった。

 武田攻めの際、北条は信長に加担していましたが、そもそも信長に脅威を感じて付き従っていたワケですから、信長の死を知れば、敵対行動をとるのは必然でした。上野国は織田重臣の滝川一益が信長から支配を任されていましたが、北条氏との一戦(神流川の戦い)で敗北。命からがら本国である伊勢へ落ち延びています。

 このような混迷する状況下、一方の家康も甲斐・信濃への出兵を企図。近年の研究によると、信長亡き後の織田政権から旧武田領国平定の了承をとりつけた上で、甲斐に進軍したと言われています。家康は信長に従う大名、つまりは織田家の従属化にある大名でしたので、織田政権の一員として甲斐・信濃に出陣したといえるでしょう。

 その織田政権ですが、信長亡き後の織田家では覇権争いが起こります。清須会議の結果、信長の嫡孫三法師を当主にし、幼少の三法師を重臣4人(柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興)が支える体制となっていました。しかし政権運営をめぐって勝家と秀吉との対立が生じ、これが翌年の賤ヶ岳合戦(1583)に繋がっていくのです。

 話を元に戻します。天正10年(1582)7月、甲斐に入った家康は、徳川氏に従った武田家旧臣らの所領安堵を積極的に進めました。一方、信濃の平定は酒井忠次に任せますが、忠次は信濃の諏訪郡国衆の諏訪頼忠の調略に失敗し、頼忠が籠城する高島城の攻防に時間を費やしてしまいます。

 実は頼忠は北条氏に通じていたようです。そして、上野から信濃に入った北条軍は大軍を擁しながら頼忠救援のために諏訪郡に進軍してきました。兵力的には北条軍が圧倒的に有利でした。高島城を包囲していた徳川軍は急いで甲斐に撤退し、家康本軍と合流、北条軍も撤退する徳川軍を追いました。

 8月、北条氏直が甲斐の若神子(山梨県北杜市)に着陣。家康は甲斐の新府城に陣取り、北条軍と対峙しています。このときの両軍の兵士数については史料によって様々ですが、いずれの史料も北条軍が大軍で徳川軍は寡兵である点では一致しています。このため、兵数的には北条軍の方が圧倒的有利でした。しかし、このときの家康は尾張・美濃からの織田軍の援軍を期待していたと考えられています。

 こうした情勢の中、徳川軍は北条軍の攻勢を良く防ぎました。例えば黒駒(山梨県笛吹市)に進出した北条軍を重臣の鳥居元忠が迎え撃ち、撃退しました。また、駿河・伊豆の国境地域でも徳川軍と北条軍の戦いがありましたが、こちらも徳川軍が北条軍を撃退しました。

 さらに信濃では徳川方の依田信蕃が奮闘する中、8月下旬に木曽義昌が家康に従属。10月になると北条氏と対立していた常陸佐竹氏・下野宇都宮氏等(「東方之衆」)の軍勢が家康を支援するために上野に出兵しました。

 この軍事行動に北条方は焦ったと考えられています。というのも上野の軍勢は氏直に従って甲斐に出陣しており、上野には少数の兵しか残っていませんでした。このため、戦局は徐々に北条氏に不利となってきました。

 ただ、家康にも誤算が生じています。援軍を期待していた織田氏の援軍ですが、柴田勝家と羽柴秀吉による内部対立で出陣できないことになりました。そして、織田側は家康に北条氏との和睦を求めてきたのです。

 家康としても北条軍の攻勢を退けることはできましたが、寡兵であるため決定打を与えられるような状況にはありませんでした。このため、家康は北条氏との和睦を進めることにし、10月29日に和睦が成立します。

 この和睦で甲斐・信濃(但し北信濃川中島四郡は上杉領国)は徳川領となりました。ここに「天正壬午の乱」と呼ばれる騒乱は終わりを告げました。


おわりに

 天正10年(1582)という年は、家康にとってまさに飛躍の年になりました。

 様々な苦難があったとはいえ、3月の武田攻め後の恩賞で駿河国を、信長死後の6月~10月の天正壬午の乱の終結でさらに甲斐国・信濃国を手に入れ、一気に5か国の大大名にのし上がったわけです。

 ただ少し気になったのは、近年の研究において、家康による甲斐・信濃への進軍は、織田政権から了承をとりつけた上での行動だったという点です。織田政権の一員として出陣したのなら、天正壬午の乱の後の甲斐と信濃の二か国はそもそも織田政権のものなのでは?とも思えます。

 とはいえ、信長の死によって清須同盟は終了。さらに肝心の織田政権も覇権争いが勃発、しかも勝者となった秀吉と家康の関係はすぐ敵対関係となり、小牧・長久手の戦い(1584)に発展しています。そう考えると、甲斐と信濃はいずれにしろ、家康の手に入っていたのでしょう。


【主な参考文献】
  • 小川雄・柴裕之編『図説徳川家康と家臣団』(戎光祥出版、2022年)
  • 柴裕之『徳川家康-境界の領主から天下人へ ー』(平凡社、2017年)
  • 平山優『天正壬午の乱 増補改訂版』(戎光祥出版、2015年)

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  この記事を書いた人
yujirekishima さん
大学・大学院で日本史を専攻。専門は日本中世史。主に政治史・公武関係について研究。 現在は本業の傍らで歴史ライターとして活動中。

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