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武田氏の滅亡過程で、真田一族はどのように行動したのか?

ろひもと理穂
 2020/04/08

南方からみた岩櫃山。中腹に武田の三堅城のひとつ、岩櫃城跡がある。(出所:<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%AB%83%E5%B1%B1" target="_blank">wikipedia</a>)
南方からみた岩櫃山。中腹に武田の三堅城のひとつ、岩櫃城跡がある。(出所:wikipedia

主家の武田氏が天正10年(1582年)に滅亡しても、真田氏は強かに戦国の世を生き抜いています。武田滅亡時に真田氏当主「真田昌幸」はどのような行動を選択したのでしょうか?

今回はそこに至るまでの真田氏の動きについてお伝えしていきます。
(文=ろひもと理穂)

昌幸の上野国・岩櫃、沼田城支配

新府城築城に参加

天正9(1581)年1月、武田勝頼は敵対している織田氏や徳川氏への備えとして、甲斐国韮崎に居城とすべき新府城の築城を開始しました。この際、勝頼に仕え、郡代であった真田昌幸は、築城に必要な人夫の動員を命じられています。

真田昌幸の肖像画(真田幸正氏所蔵)
真田昌幸の肖像画(真田幸正氏所蔵)

勝頼からの書状には、武田氏の領土全域から人夫を動員して30日間に渡り城の普請を行うことが記されています。さらに2月15日までに甲府に集合すること、軍役衆(兵士として動員された農民)でも糧米の用意や、水役(水運搬業務など)を課すという命令が下されました。

武田信玄の時代には軍役衆はすべての税金負担が免除されていましたが、その特権を失ってしまったワケです。それだけこの頃の武田氏は追い詰められた状況だったことを物語っています。

この新府城築城は武田氏の一族からの反対意見もあったようですが、それでも総動員で行われたために9月には本曲輪が完成しています。

ただし北条氏に仕えていた戸倉城主・笠原正晴が武田氏に寝返り、駿河国と伊勢国の国境で北条勢との戦が始まったため、勝頼の新府城への本拠地移転は12月24日まで遅れています。

遠江国・高天神城陥落のダメージ

武田氏にとって大きな節目になったのが、同年3月、遠江国の要衝である高天神城陥落です(第二次高天神城の戦い)。

高天神城は徳川勢の包囲されている状態であり、岡部元信は勝頼に対して救援要請をしたのですが、勝頼は後詰めを送らずに落城しました。この城では上野国の浦野(大戸)氏なども防衛を担っており、それを見殺しにした武田氏に対して不信感が広がっていきます。

実際に高天神城陥落後、長尾憲景や宇津木氏などの上野国衆が北条氏に寝返りました。高天神城の対応の不手際によって武田氏の威信はみるみる失墜していき、領国の国衆は大きく動揺したのです。

そしてこれが武田氏滅亡を早める原因になりました。昌幸としてもなんとも歯がゆい状態だったのではないでしょうか。

海野氏の粛正

上野国の国衆の動きが慌ただしくなる中、岩櫃城代(城番ではないかという説もあり)の海野長門守幸光、沼田城を守る海野能登守輝幸の兄弟による謀反が発覚します。

これについて記録が残されているのは『加沢記』のみになりますが、どうやら海野氏の勢力拡大を警戒した昌幸が、海野氏と国衆の繋がりを断ったために海野氏が不満を感じたようです。

ただし謀反は吾妻郡7氏の報告により昌幸は事前に看破しており、叔父の矢沢頼綱に相談しつつ、主君の勝頼に海野氏粛正の許可を得ました。

ちなみに輝幸の子の海野幸貞は、頼綱の娘婿でしたが、真田氏に刃を向ける企みを知って頼綱は粛正に賛同したようです。

昌幸はまず岩櫃城の幸光の屋敷を攻めて幸光を自刃させ、さらに沼田城に調略を仕掛けて輝幸と幸貞を城外へ追い出し、それを追撃して自刃に追い込んでいます。

こうして真田氏は吾妻郡、利根郡の安定的な支配を手に入れたのです。

武田勝頼晩年の主な拠点マップ。色塗部分は甲斐国、()は城主。

勝頼最後の軍議での昌幸の献策

信長の甲州征伐の開始

一方で織田信長は朝廷に働きかけ、正親町天皇に勝頼を朝敵と認めさせて武田氏討伐の大義名分を得ています。

さらに信濃国と三河国の国境の砦構築を実施しつつ、三河国の東条城へ兵糧を搬入するなど、翌年の春に控えた武田氏の領土侵攻の準備を着々と進めていったのです。

そして翌天正10(1582)年1月、信濃国木曾郡の木曾義昌(信玄の娘婿)が織田方に寝返ると、その討伐のため2月には勝頼自身が新府城を出撃し、諏方上原城へ入りました。しかし、高天神城の陥落で信頼を失っていたため、目前の伊那郡だけでなく駿河国、遠江国の防衛ラインがあっさりと突破されていきます。

そして2月28日、駿河国江尻城主・穴山梅雪(信玄の娘婿)が徳川方に寝返ると、態勢を立て直すために勝頼は新府城に帰還しています。御一門衆筆頭格の梅雪が寝返ったという衝撃は大きく、この時点で武田勢の勢いは完全に失われており、逃亡する兵が後を絶たない状態でした。

最後の決戦で昌幸は岩櫃城での籠城を主張した?

新府城に帰還した勝頼は3月2日、最後の軍議を行っています。

籠城して30日は持ちこたえるだろうと期待していた仁科信盛、小山田昌成らが守る高遠城もあっさりと陥落し、新府城を完成させることもできません。勝頼に残された選択肢はわずかなものでした。

  • 1、勝頼の嫡男である武田信勝が唱えた「新府城に籠城し、城を枕に潔く討ち死にする」
  • 2、小山田信茂が唱えた「岩殿城での決戦」
  • 3、真田昌幸が唱えた「上野岩櫃城での決戦」

岩櫃城であれば地形の起伏も険しいことから大軍で攻めにくく、越後国の上杉氏の援軍も期待できます。

岩櫃城の堀切
岩櫃城の堀切

『長国寺殿御事蹟稿』によると、昌幸は甲斐国から命からがら岩櫃城に帰還してその準備を進めました。しかし勝頼側近の長坂釣閑斎光堅が、真田氏は外様であり、小山田氏は譜代であるという意見を述べ、昌幸の案は却下されてしまいます。

ただし、勝頼は昌幸の献策に感謝し、真田氏の人質を返しています。

岩櫃城に向かった昌幸と家族の動向は?

ところで武田滅亡の直前、昌幸の家族らはどこで何をしていたのでしょうか?

武田勝頼は家臣たちに人質を提出させていました。人質は新府と甲府に分けて置かれ、真田昌幸・木曾義昌・保科正直らの人質は新府に、穴山梅雪・小笠原信嶺らの人質は甲府にいたといいます。

ということは、信幸や幸村も人質として新府城にいたのでしょうか。この点について、歴史家の平山優氏は「少なくとも信幸に関しては人質として新府城にいた可能性が高い」といった見解を示しています。

幸村に関しては特に言及していませんが、普通に考えれば幸村も新府城にいたと考えられますね。

ちなみに武田滅亡を目前に迎えていた人質たちの顛末を簡単にまとめてみました。

  • 木曾義昌の人質:母・長女・嫡男の3名が処刑(『甲斐国志』ほか)
  • 小笠原信嶺の人質:信嶺の裏切りで母が自刃(『開善寺過去帳』)
  • 穴山梅雪の人質:家臣が穴山氏の本拠・下山へ移動させた。
  • 保科正直の人質:家臣の機転で嫡男・正光が新府を脱出した(『保科御事歴』)
  • 真田昌幸の人質:全員勝頼から返還された。

こうしてみると真田の人質以外は処刑か逃亡となっています。昌幸は武田家への忠節を貫きましたが、他の者はみな勝頼を裏切っているので当然のことと言えますね。

岩櫃城へ向かった真田一向

甲斐国から命からがら岩櫃城に帰還したという昌幸ですが、一方で勝頼から返還された昌幸の家族のその後はどうだったのでしょうか。

軍議の後の真田一族の動向には諸説あります。新府城を脱出したことは共通していますが、向かった先や経過はそれぞれ異なっているようです。

脱出したのは幸村、信幸、山手殿の他、家来と与力を合わせて三百余人。幸村一行は信濃の本領である真田を目指したが、不穏な情勢下で次々と脱落して百人程に減ってしまったが、矢沢・大熊・木村らが真田母子を守り、野武士に襲われることもなく真田郷に辿り着いたという。(『古今沼田記』)

昌幸自身が妻子ら真田一族を引き連れて新府を出立。岩櫃城へ向かったが、途中でたびたび一揆の襲撃に会い、これを撃退しながら進んだという。一行は女中も馬に乗せて昼夜問わずに先を急いだが兵糧・飼葉も尽きて疲労困憊したという。そうしたところ、先の山より弓・鉄砲を備えた武装集団が現れた。

昌幸らはまたもや襲撃かと身構えたが、武装集団は昌幸ら一行を心配した沼田衆や吾妻衆らであったといい、無事に岩櫃城に辿り着いたという。(『滋野世紀』)

昌幸ら一行は飢えと疲れに悩まされながらも、小諸から草津街道を経て沼田へ帰ったという。(『真武内伝』)

どれが真実かは不明ですが、NHK大河「真田丸」の放送では上記内容がミックスされたものだったと思います。

一族生き残りのために、北条と通じていた!

昌幸の北条氏への備え

昌幸は北条氏の動きも警戒しており、武田滅亡の5日前である3月6日付の書状で沼田城を守る頼綱に指示しています。

その内容は、兵力を増強するために牢人衆に米を分配し、真田氏の料所を与えて雇用するというものでした。主家の武田氏が滅亡寸前の状態であっても、織田勢・徳川勢・北条勢相手に一歩も退かない構えを見せているところは、さすが粘り強い真田氏です。

ちなみに『長国寺殿御事蹟稿』によると、信茂の裏切りを知った昌幸は信茂を討つために出陣しようとして、周囲に諫められたと記されています。

ここまで追い詰められた状況で、そのような無謀な行為を昌幸がしようとしたとは考えられませんが、岩櫃城に勝頼を迎えられたら、武田勢を結集させて抵抗することもできただけに、昌幸としては口惜しかったに違いありません。

北条氏邦からの書状

先を見据えて様々な戦略を練ることに長けている昌幸ですから、やはり武田氏が滅亡した場合のことも想定していたようです。

それが昌幸宛に送られた北条氏邦の書状の内容に見受けられます。

この書状は武田滅亡の翌日にあたる3月12日付けであり、そこには北条氏への帰属を願う昌幸を歓迎するという内容が書かれています。

つまり、昌幸は八崎城主の長尾憲景を通じ、事前に北条氏に接触していたのです。彼のこうした動きの真意について、歴史研究家の平山氏らは以下2つを推察しています。

  • 新たな従属先を模索していた。
  • 北条氏の支援を得て、武田家存続を模索した。

上記いずれにせよ戦う構えを見せながら、従属の打診も密かに進めていたというのはいかにも昌幸らしいやり方ですね。

なお、歴史研究家の丸島氏は、「北条氏は既に織田政権に従属を表明していたので、北条が武田を支援するのは現実味を欠く」とみています。

まとめ

新府城を出て岩殿城を目指した勝頼でしたが、小山田信茂が離反したことが大きく響き、3月11日には甲斐国山梨郡田野で自刃。ここに名門、甲斐武田氏は滅亡しました。

ちなみに『長国寺殿御事蹟稿』によると、武田滅亡を知ったときの昌幸は泣き叫び、土壇場で裏切った小山田信成を復讐しようといきり立ち、周囲に諌められたといいます。

昌幸は北条氏邦の勧誘もありましたが、最終的には仇である織田氏に降り、沼田城や岩櫃城を手放しました。それほどまでに織田氏の強さを昌幸は認めたということでしょう。しかしすぐに本能寺の変が起り、昌幸に再起のチャンスが訪れるのです。


【参考文献】
  • 丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社、2015年)
  • 平山優『大いなる謎 真田一族』(PHP研究所、2011年)
  • 平山優『真田三代』(PHP研究所、2011年)

  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。
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