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「小山田信茂」武田の譜代家老にして、最後に裏切り者として武田家滅亡を決定づけた男の数奇な人生とは

とーじん
 2020/08/25

小山田信茂のイラスト

小山田信茂の名は、戦国ファンであれば一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。戦国最強とも評される武田氏の譜代家老にして、文武に優れた人物であったとされています。

しかし、信茂を最も有名にしているのは、そういった彼の美点ではありません。むしろ、最大の汚点ともいうべき「裏切り」によって武田氏を滅亡に追いやったという事実が、彼の知名度を上げているといってもよいでしょう。

では、最終的に武田氏を裏切ることになった信茂はどのような生涯をたどったのか、彼の家系から探っていきましょう。
(文=とーじん)

国衆としての小山田氏という家柄

信茂が生まれた小山田氏は、武田氏の配下でありながら国衆でもあるという性質をもっていました。この「国衆」という立場が、後の信茂による裏切りに大きくかかわってくることになります。そこで、まずは国衆という立場の概説から、小山田氏そのものの武田家との関係をみていきます。

そもそも「国衆」とは?

国衆とは、室町時代の国人領主を出自とします。それが戦国時代に突入すると、戦国大名と同様に領国を形成し、独自の行政制度をととのえていくなど、権力構造を形成していきました。したがって表面上の制度的には戦国大名のそれとほとんど違いがありません。

では戦国大名とは一体どこが違うのか…。その最大の違いは、そもそも国衆とは戦国大名に従属する立場としてのみ、存在し続けることができたという点です。

その際の戦国大名との関係性は、鎌倉時代の「御恩と奉公」の制度に酷似しています。つまり、大名が攻撃をうければ国衆が軍を出す代わりに、ある程度の庇護をうけるという関係性が構築されていました。

したがって、国衆からしてみれば、戦国大名との関係性は一種の契約のようなものであり、大名に自分たちを庇護する能力がないと判断すれば「契約不成立」となり、大名を裏切ることも珍しくはなかったようです。

すでに、信茂が武田家を裏切った理由がみえてきたのではないでしょうか。

国衆としての小山田氏

さて、今回の主役である小山田氏に話を戻します。

小山田氏の出自ははっきりとしておらず、院政期の名門であった秩父小山田氏の名を、甲斐の新興勢力が騙ったことによって成立したという説が有力なようです。

さらに注目すべき点は、室町時代の明和期には国衆として武田家と敵対関係にあったという事実があります。実際に、信茂の祖先にあたる小山田弥太郎という人物は、武田信虎との戦闘で討ち死にしています。

その後も信虎との小競り合いがありましたが、やがて領国であった都留郡を信虎が庇護する形で小山田氏も力を伸ばし、信茂が家督を継ぐころには武田氏の家臣とみなされるようになりました。

したがって、信茂は国衆と武田氏家臣という両方の側面をもち合わせていた武将であったといえます。

では、ここまでの前提をもとに、次項から信茂自身の生涯をみていきましょう。

出生から家督相続に至るまで

信茂は天文9(1540)年に、小山田信有(契山)の次男として生まれました。兄に家督を継ぐことになる信有(桃隠)がいます。幼名は「藤乙丸」、「弥五郎」であったとされています。

幼年期についてはハッキリと分かっていませんが、史料への初出は『大善寺文書』で、天文19(1550)年に父・兄と大善寺に参拝したという事実が確認されています。

甲州市勝沼町の大善寺本堂
甲州市勝沼町の大善寺本堂(出所:wikipedia

その後、天文21(1552)年に父が病死し、兄が家督を継ぎますが、その兄も永禄8(1565)年に病死。信茂は次男ながらに家督を継ぐことになりました。

信茂は譜代家老衆に属す「御小姓衆」として、騎馬250騎を率いたとされています。この時期にはすでに譜代家老として数えられていたことから、この当時の主君・武田信玄の信任を得ていたことがうかがえます。

信玄治世期の活動!文化面でも活躍をみせました

信茂は信玄の治世下でも文武に活躍していた様子が確認できます。その文武両道ぶりは自他ともに認めるものであったようで、教養人としても名が知られていました。そのような彼の活躍をみていきましょう。

戦や軍政における信茂の姿

まず、永禄12(1569)年のvs 北条における小田原城包囲の前哨戦として、信茂は別働隊として御嶽城(現・埼玉県上川町)や鉢形城(現・埼玉県奇居町)など数か所に攻撃を加え、滝山城下(現・東京都八王子市)に放火したことが確認されています。

小田原攻めと三増合戦の要所マップ。色塗部分は相模国。マーカーの数字は武田軍の立ち寄り順。

これ以前にも『甲陽軍鑑』によれば、川中島の戦いで先陣を切ったという記述や、駿河での合戦に参加したという記述がありますが、記載の内容に矛盾が含まれていることなどから、これは史実とは異なる可能性が高いとされています。

また、元亀元(1570)年に伊豆の韮山城を攻撃していたことが確認できます。元亀3(1572)年には、信玄に同行する形で、いわゆる「西上作戦」に従軍し、三方ヶ原の戦いでは先陣を務めたという記録が残されています。

戦に参加する際に先陣を務めることは武士の名誉とされ、それゆえに武勇に優れた武将がその任をうけるのが一般的でした。つまり、信茂は武田家においても屈指の戦上手であったことがわかります。この際に投石隊を率いたとする通説が知られていますが、これは史料の誤読であるという説が有力なようです。

文化面にも大きく貢献した信茂のもう一つの姿

戦上手でもあった彼は、教養人としてもさまざまな点で能力を発揮しました。

まず、臨在寺の僧侶・鉄山宗純とは優れた漢詩による詩の交換をしていたという記録が、『仏眼禅師語録』にて確認されています。漢詩の交換は、当時における教養人のたしなみとして認知されていました。

また、元亀元(1570)年には焼失した上吉田西念寺の再興に乗り出しました。『西念寺々領仕置日記』を作成させることで、伽藍再興の負担者を明文化するとともに、今でいうところの決算報告をも義務としました。

山梨県富士吉田市上吉田の西念寺(出所:wikipedia

さらに富士参詣道者の減少を憂いた信茂は、関銭の半減を指示し、やがてこれを常態化していきました。この政策は「小山田の半関」と呼ばれています。

このように、戦だけでなく文化面にもマルチな才能を発揮していた、優秀な武将であったといえるでしょう。

勝頼治世期の活動!傾国の士として奮闘するが…

ここまでは順調な生涯を送っていた信茂。しかし、ご存知のように信玄が急逝して以降、国と運命を共にするように彼の人生を暗い影が覆うようになります。

長篠以後、各国との和睦に奮闘する

天正3(1575)年に勃発した長篠の戦いでは、敗北後に勝頼の護衛として退却に貢献しました。しかし、信茂自身は討ち死にせずに退却したことを恥じており、この時点では武田家と運命を共にする覚悟であったことがうかがえます。

その後は、かつて後北条氏の取次を務めていたことから、房総里見氏や上杉氏の取次として、和睦の道を探ることになります。 その一環として、上杉家の家督争いである御館の乱では上杉景勝を支持し、勝頼の妹である菊姫の輿入れにも関与したとされています。

しかし、このことで北条氏政との関係が悪化し、甲相同盟の決裂を招くことになってしまいました。その影響もあり、信茂の領内には頻繁に後北条氏が侵入を試みるようになってしまいます。

武田氏絶体絶命の危機に、大きな決断を下す!

天正9(1581)年になると、後北条氏の侵攻を防ぎきれなくなった信茂は、勝頼に支援を要請。そして翌年には織田軍の侵攻が開始されて、いよいよ武田氏は存亡の危機を迎えます。

信茂は勝頼に従って着陣しましたが、同じ取次という立場の人物が上杉景勝側へと離反したことを知ると、それを嘆いたといわれています。また、同じ取次であった信茂も非難されたようで、被害者意識を強くもっていたことも確認されています。

しかし、結局のところ防戦すらままならなくなった武田軍は、新府城で軍議を執り行ない、信茂の領内に退避したのちに岩殿城で籠城戦を行なうことが決定されます。

岩殿城跡(出所:wikipedia)
岩殿城跡。軍議において信茂はこの城で籠城戦を主張。(出所:wikipedia

この事態に、武田氏と己の共倒れを確信した信茂は、自身の国衆としての在り方を優先し、岩殿城に向かう途中で勝頼を裏切ることを決断。その際、人質として囚われていた老母を力ずくで奪い去ったことで、謀反の意思を明確に表明したとされています。

まとめ:信茂は本当に「不忠者」なのか

その後、敵将・織田信忠のもとを訪ねた信茂は、「不忠者」として誹りをうけたのち、処刑されるという憂き目にあいました。その際、老母・妻・男子・女子と、血縁者もろとも処刑されたとされています。

一見残酷にも映る信忠の決断ですが、信忠からすれば当然の処置をしたにすぎないでしょう。確かに国衆としての背景や武田家に忠誠を誓っているわけではないというのは事実です。しかしながら、信忠からしてみれば、「武田家の譜代家老」としての姿だけが彼にとっての事実だったのです。つまり、不忠者であったというよりは、敵の重臣として処刑されたとみるべきでしょう。

ただ、信茂は本当に「不忠者」だったのでしょうか。ここまで彼の生涯を振り返ってきましたが、一貫して自身の領国である都留郡、つまり国衆としての自分自身に忠を尽くしているようにもみえます。

確かに「武士道精神」という点から考えれば、信茂は不忠者なのかもしれません。しかし、その一方で為政者として冷静に状況を分析し、安易な自己犠牲に走らなかった点を評価する声があってもいいと感じています。

実際に、勝頼に尽くし続けても信茂の読み通り共倒れになっていたでしょう。恐らくあの局面では最善の選択をしましたが、結果的に生きながらえることはできなかった、ともいえます。

もちろん、結果的に勝頼を裏切り、武田氏の命運を決定づけたという事実が消えることはありません。 ただ、信玄・勝頼を忠臣として支え続け、文武両道に才能を発揮し、さらに国衆のトップとして大きな決断を下した小山田信茂という人物は、もう少し再評価されてもいい人物なのかもしれません。

  【主な参考文献】
  • 丸島和洋『戦国大名武田氏の家臣団:信玄・勝頼を支えた家臣たち』教育評論社、2016年。
  • 柴辻俊六編『新編武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年。

  この記事を書いた人
とーじん さん
上智大学で歴史を学ぶ現役学生ライター。
ライティング活動の傍ら、歴 ...


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