【奈良県】高取城の歴史 日本三大山城のひとつに数えられる大和国の難攻不落の城

高取城跡
高取城跡
 標高およそ583mの高取山の頂に築かれた山城で、美濃の岩村城、備中の松山城と並び、日本三大山城に数えられるのが大和の高取城(たかとりじょう)です。

 このような標高の高い場所に天守や小天守、櫓や殿舎などまで建てられる例は少なく、貴重な山城の遺構として有名です。今回はこの高取城の歴史についてお伝えしていきます。

南北朝時代に越智氏に築城される

 大和平野の南に位置する奈良県高市郡高取町には標高およそ583mの高取山がそびえています。西には金剛、葛城、南には吉野の山々があり、当初は貝吹く山城の支城として元弘2年(1332)に豪族・越智邦澄によって築城されました。

高取城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

 飛鳥時代に築かれた古墳の転用石が石垣に利用されています。なお、元亀から天正年間には越智氏の本城となりました。

 天文元年(1532)には、大和に侵攻してきた一向一揆衆と戦った興福寺に味方し、一時は高取城を包囲されてしまいましたが、このときは筒井氏や十市氏の援軍によって一向一揆衆を撃退しています。しかし、織田信長が勢力を伸ばし、大和を支配するようになって天正8年(1580)に大和一国一城例を発すると、郡山一城と定められて高取城は廃城となりました。

本多利久によって巨大な山城と化す

 廃城となった高取城でしたが、天正10年(1582)の本能寺の変によって信長が討たれると、天正12年(1584)、筒井順慶は大和を守る支城としての重要性から高取城を再建します。その直後、筒井氏は天正13年(1585)に伊賀上野へ転封となり、替わって大和は豊臣秀吉の弟である豊臣秀長が治めることとなります。

 秀長は高取城には最初に脇坂安治を入れましたが、同年に安治が淡路洲本3万石を与えられたため、同じく秀長の重臣であった本多利久が城主となっています。利久の出生については、『系図纂要』には水野利忠と記されており、『戦国人名辞典』には水野半右衛門と記されており、水野氏であった可能性が高いです。本多の姓は嫡子の本多俊政の代に本多忠勝か本多正重より賜ったと記されています。

 利久は天正17年(1589)、高取城の大規模改修工事を開始します。城下町の整備だけでなく、多門櫓で繋がった三重の天守を築き、さらに三重櫓を17基増築。二の丸には大名屋敷、城郭内には侍屋敷を造営しています。城郭全域はおよそ60000㎡、周囲はおよそ30kmという広大な山城がここに誕生したのです。

 白漆喰塗りの天守や無数の櫓の壮観は「雪かとみれば雪でござらぬ」と詠われるほどの美しさで、芙蓉城とも呼ばれていました。また本丸への坂道はかなり難所で、七曲がりと呼ばれる折れ曲がりの多い道筋に加え、重荷を上げることができたら米一升を与えると伝わっているほどの勾配の厳しい一升坂があり、攻略するのは容易ではない天然の要塞でもありました。

 近世では、交通の不便さや災害を避けるために平地や丘に城を築くことが多く、高取城のように山上に天守や櫓、石垣などの建築物を備えているケースは全国的にもとても珍しい例です。

 利久の跡を継いだ本多俊政は、秀長の死後は婿養子の豊臣秀保に仕え、秀保の死後は秀吉の直臣となり、秀吉の死後は徳川家康に味方しました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際は上杉討伐軍に加わって高取城を留守にしていましたが、高取城に攻め寄せた西軍に対し本多一族が堅く守り抜き敗走させています。この功績を認められて俊政は2万5千石の高取藩初代藩主となりました。

江戸期以降の高取城

 本多氏による支配は利久の跡を継いだ本多政武まで続きましたが、世継ぎがおらずに本多氏は寛永14年(1637)に廃絶となります。その後は城番として桑山一玄、小出吉親らが入城し、寛永17年(1640)には植村家政が旗本から大名に出世し高取藩主となりました。

 植村氏は、松平氏が安祥城城主だった頃からの最古参の家臣で、酒井氏や大久保氏、本多氏らと並ぶ御普代之列の七家に挙げられています。植村氏は廃藩置県が行われる明治維新までの期間、14代に渡って高取城主を務めています。山上という不便な状態でも各建物を管理・維持できたのは、三代将軍である徳川家光の許可があったからだと伝わっています。

 文久3年(1863)、大和で天誅組が挙兵し、高取城に千の軍勢で攻め寄せましたが、高取藩は領民を動員して二千の兵を集め、伏兵と高地からの大砲の攻撃によってこれを撃退します。この戦いで高取藩は二名の軽傷者を出すのみで大勝し、京都守護職の松平容保から感状を受けています。

 ちなみに植村氏が統治していた時代には高取城へ登るのが大変なため、城主の居所は二の丸から下屋敷に移していました。城主が山頂に登るのは正月のような行事のときだけでした。天誅組の変ではこの下屋敷が敵に狙われています。

 版籍奉還によって明治2年(1869)に兵部省の管轄となり、明治6年(1873)に廃城。建築部の大部分が払い下げとなり、残った天守などはそのまま放置され、明治24年(1891)前後に取り壊しされました。

 二の門は子嶋寺、新御殿の表門は石川医院の表門、松ノ門は高取小学校の校門として移築されています。松ノ門は小学校の火事により損小してしまいましたが、平成16年(2004)に児童公園の表門として復元されています。

 このように高取城跡には建築物が残されていませんが、10mほどの高さを誇る石垣などの遺構は残されたままです。国見櫓からは晴天であれば京都タワーや明石海峡大橋までも眺めることができます。

 天守や城門が復元されてはいませんが、石垣などの遺構は貴重な城郭資料なため、昭和28年(1953)に指定名称を高取城跡として国史跡に指定されています。さらに平成18年(2006)には日本百名城に選ばれました。

おわりに

 姫路城に匹敵するほどの美しさを誇った高取城の姿を見られないのは寂しいですが、日本三大山城に数えられるその険しい道筋や石垣からの壮大な光景を体験できるのは魅力的です。

 大軍勢に攻められたという過去はないものの、他勢力に攻められた際にはその堅い守備力を活かして何度も敵を撃退しています。そんな難攻不落の高取城を攻めるつもりで高取城跡を登ってみるのも面白いのではないでしょうか。

補足:高取城の略年表

出来事
元弘2年
(1332)
越智邦澄によって貝吹山城の支城として築かれる
天文元年
(1532)
一向一揆衆に包囲されるも加勢があり、撃退する
天正8年
(1580)
織田信長の指示により廃城となる
天正12年
(1584)
筒井順慶が再建する
天正13年
(1585)
順慶が伊賀上野へ転封となり、豊臣秀長が大和に入国。秀長重臣の脇坂安治が城主となる。安治が淡路洲本へ移封となり、秀長重臣の本多利久が城主となる
天正17年
(1589)
利久が大規模改修を行う
慶長5年
(1600)
関ヶ原の戦いに際し西軍に攻められるも撃退。本多俊政が高取藩初代藩主となる
寛永17年
(1640)
植村家政が城主となる
文久3年
(1863)
天誅組が高取城を攻め寄せるが、これを撃退する
明治2年
(1869)
版籍奉還によって兵部省の管轄となる
明治6年
(1873)
廃城となる
昭和28年
(1953)
高取城跡の名称で国史跡に指定される
平成16年
(2004)
火事で損小し解体保存されていた松ノ門が児童公園の表門として復元される
平成18年
(2006)
日本百名城に選定される


【主な参考文献】
  • いかす・なら 高取城
  • コトバンク

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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