真田父子の九度山蟄居生活。そして昌幸の最期とは?
- 2020/06/30
石田三成の挙兵に呼応して徳川家康に反旗を翻した「真田昌幸」は、上田城に押し寄せる徳川勢を撃退することに成功しましたが、関ヶ原の戦いで西軍は敗北してしまいます。
その後、昌幸と幸村父子は高野山へ追放されますが、そこでの生活はどのようなものだったのでしょうか?今回は真田父子の九度山蟄居生活についてお伝えしていきます。
その後、昌幸と幸村父子は高野山へ追放されますが、そこでの生活はどのようなものだったのでしょうか?今回は真田父子の九度山蟄居生活についてお伝えしていきます。
西軍の敗北と昌幸の降伏
関ヶ原の戦い後も徳川勢へ反撃
慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原の戦いはわずか1日で決着しました。真田勢の上田城での健闘もむなしく、西軍は大敗。22日、家康は西軍の総大将だった毛利輝元と和睦し、27日には大坂城に入城しています。その間も昌幸はあくまでも家康に抵抗し、華々しく討ち死にすることを望んでいました。上田城を監視していた森忠政に対して夜襲を仕掛けて打ち破る成果もあげているほどです。
しかし家康に加担した昌幸の嫡男・真田信幸(信之)の説得もあって、結局家康に降伏することを決意します。10月には三成も処刑されており、これで家康の反対派はほぼ壊滅となったのです。
上田城は昌幸が退去した後に、諏方頼水、依田信守、大森政成、伴野貞吉らが受け取って入城。そして家康はのちにこの城を徹底的に破壊するように命じています。徳川勢を二度も撃退した上田城はこうして消滅することになりました。
高野山への追放
家康としては天敵で憎き真田昌幸に切腹を命じて滅ぼしたかったのですが、信幸をはじめ、本多忠勝や本多正信ら重臣も異を唱えました。特に信幸の舅であった忠勝は、「昌幸に切腹させるのであれば、自分は信幸と共に上田城に籠もり、家康と戦う」とまで宣言し、家康を驚かせました。
おそらく信幸と忠勝は、助命を保証して昌幸に降伏を決意させていたのでしょう。昌幸もその言葉に期待したからこそ家康に降伏したに違いありません。
この状況で昌幸が再び敵対することはできないだろうという考えもあり、家康は助命嘆願を受け入れました。しかし、裏切った罪を許したわけではありません。昌幸と二男の真田幸村(信繁)は、高野山へ追放される処分となりました。
昌幸は正室である山之手殿を上田に残し、側室や二男幸村らを連れて12月13日に高野山を目指して出立します。一説に昌幸は信幸と別れるときに悔し涙を流したとか。
従った家臣には池田長門守(この時点では甚次郎)、原出羽守、高梨内記、小山田治左衛門、飯島市之丞ら16人が記録されています。こうして真田父子は10年以上に及ぶ蟄居生活に入るのです。昌幸は54歳、幸村は34歳のことでした。
一方、父と訣別した信幸は、幸の一字を捨て、信之(以後信之と表記)と名乗るようになります。この改名は家康家臣として、昌幸の文字を使用することを気兼ねしたもの、とみられています。
九度山での監視生活
ある程度の自由は認められていた蟄居生活
昌幸らは高野山の麓の細川に至り、さらに真田の菩提寺である蓮華定院に移り、最終的には九度山の屋敷に落ち着いています。連れてきた側室と昌幸との間にはこの九度山の生活の中で娘が生れました。逆に飯島市之丞は慶長6年(1601)8月には昌幸の元を離れ上田へ帰還し、信之に仕えています。去る者もいるという過酷な生活の中で、昌幸は心機一転、花押をこれまで使っていたものから、武田時代のものに戻しています。
蟄居生活というと、辛い労働を強いられ、常に監視されているような囚人扱いをイメージしがちですが、どうやら状況はそこまで厳しいものではなかったようです。もちろん昌幸らは紀伊国和歌山城主の浅野幸長に監視されていましたが、ある程度の自由は許されていました。
高野山限定で行動の自由を認められていたという説もありますし、九度山の浦野川の淵や、九度山周辺上下1550m(5町分)の間だけ行動の自由を許されていたという説もあります。
どちらにせよ、読書をしたり、囲碁を打ったり、狩猟や釣などをしてわりかし気楽な日々の生活を過ごしていたようです。隠居生活という感じだったのかもしれません。
収入が厳しくあちこちに借金していた?
それでは昌幸の蟄居生活費はどこから捻出されていたのでしょうか?ひとつは信之からの仕送りでした。信之は家康に対し、敵対した父親の助命嘆願したばかりでなく、追放された後の生活の面倒もみていたのです。実は昌幸は九度山に移ってから火事で屋敷を失っており、その再建のために信之から100両もの借金をしています。信之だけに頼るわけにもいかないので、方々にも借金をして生活していたようです。
真田氏の菩提寺である信綱寺も昌幸に対して心付けをしていますし、蓮華定院と浅野氏も援助しています。監視役の浅野幸長からは毎年50石の支給がありました。
それでも生計が苦しく、幸村の妻である竹林院は真田紐を考案して売り、生計の足しにしていたといいます。さらには昌幸が国元に対して送金の依頼をした書状なども残っています。
ある程度の自由が許されていたにもかかわらず収入が安定していなかったことが、昌幸にはとても不自由を感じさせたのでしょう。生活が相当に窮してかなりのストレスが溜まっていたことが予想されます。
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赦免運動と昌幸の最期
昌幸の赦免嘆願
蟄居生活中、昌幸は信之が家康に重用されていることや、自分の器量を認められていることを信じ、たびたび家康に対して赦免嘆願を続けています。いずれ赦免する気持ちがあればこそ西軍の敗北の際に処刑せず、追放で済ませたという推測もあったに違いありません。昌幸の赦免嘆願は信之や浅野長政、そして家康の側近である本多正信を通じて行われました。
正信から赦免について色よい返事がもたらされたこともあり、一時期の昌幸はかなり楽観視して返事を待っていたようですが、家康は昌幸を許しませんでした。正信も実は昌幸に対し「公事憚りの仁」のため赦免されることはないと割り切っていたようです。
慶長8年(1603)2月に家康は征夷大将軍となり、江戸幕府を開き、慶長10年(1605)には嫡男である秀忠に将軍職を譲っていますが、そんな万全の態勢を整える徳川氏の中にあって、裏切り者の昌幸を赦免する空気はまったくなかったようです。
家康としては天敵であり、憎き昌幸をこのまま飼い殺しにするつもりだったのではないでしょうか。
赦免は認められず無念の死を遂げる
昌幸は旧知の人物に対し、手紙で赦免されたら会いたい旨を伝えていたようです。当初の昌幸はいずれ赦免されると考えていたようですが、時が進むにつれて「家康には自分を許すつもりがない」と感じとったのではないでしょうか。しかし昌幸にはこの状況を打開する策も気力ももはや残ってはいませんでした。
ただ、その間に信之と一度高野山で会ったという記録が残っています。年は不明ですが、5月16日付けの昌幸の書状には、昌幸と共に河原右京が高野山で対面したと記されています。これが昌幸と信之の最後の対面です。
はたしてどのような話を昌幸は信之にしたのでしょうか?その後の昌幸は気力も衰え、旧臣から送られた駿馬を毎日のように眺めてなぐさめとしていたようです。
慶長16年(1611)、昌幸はその罪を許されることなく九度山で重篤となり、6月4日に65歳で息を引き取りました。昌幸の法名は龍花院殿一翁干雪大居士です。
おわりに
昌幸が死の直前に幸村を枕元に呼び寄せ、近々徳川氏と豊臣氏による武力衝突(大阪の陣)が起こることや、合戦となったら籠城しても勝ち目がないため撃って出るようにアドバイスをした、という逸話は有名ですね。昌幸の無念の死を看取った幸村はやがて打倒家康のために立ち上がり、大坂城に入って豊臣方を代表する武将として家康と対峙します。そして昌幸の策に従って徳川勢に攻め込み、家康を切腹の覚悟をさせるほどまで追い詰めることになるのです。
昌幸は死して後も家康を苦しめたということです。やはり真田父子は最後まで家康の天敵だったのです。
【参考文献】
- 黒田基樹『豊臣大名 真田一族』(洋泉社、2016年)
- 平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』(KADOKAWA、2015年)
- 丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社 、2015年)
- 平山優『大いなる謎 真田一族』(PHP新書、2015年)
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