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  • 伊達政宗
 2019/02/25

「愛姫」伊達政宗正室の生涯とは?大名・政宗を支えた賢妻!

愛姫(陽徳院)の肖像画

伊達政宗の正室として知られているのが、政宗の一歳年下である愛姫(めごひめ)です。政宗に生涯連れ添った正室の愛姫は、政宗との間に四人の子どもをもうけました。戦国の世では側室の存在も公に認められていたため、政宗は側室の子どもと合わせて十男四女の子をもつ子だくさん大名としても知られています。

こうした事実はよく知られているものではありますが、一方で愛姫の生涯や人柄については、あまり知られているとはいえません。もちろん、武士の世は圧倒的に男性社会であり、女性で歴史に名を残している人物は少なく、それに影響されて史料も少ないのは事実です。しかし、政宗という大人気武将の正室にしては、やや地味な存在であるという印象もぬぐえません。

そこで、この記事ではあまり知られているとはいえない愛姫の生涯や人柄を、残された手紙文書を中心に考察していきたいと思います。
(文=とーじん)

出生から政宗との結婚まで

愛姫は永禄11年(1568年)に、田村郡美春(現在の福島県美春町)城主・田村清顕の娘として生誕しました。そこから伊達政宗と結婚するまでのことは詳しくわかっていません。

その後、天正7年(1579年)に政宗と結婚します。これは政宗13歳、愛姫12歳の頃のことです。現在の感覚だとあまりにも早すぎる結婚ですが、当時はそもそも寿命が現代の二分の一程度であることを考えれば、現代であればだいたい26歳と24歳の結婚といったところです。そのため、まあまあ妥当といえる年齢ではないでしょうか。

また、戦国の世での結婚のため、もちろん恋愛結婚ではなく政略結婚の一種でした。伊達氏にとって懸案事項であった蘆名・相馬両氏の攻略を構想していた輝宗は、田村氏を伊達方へ引き入れるための戦略として結婚を決断したとされています。一方の田村氏にとっても伊達氏との協力関係は望むところで、両者の思惑が合致したことにより実現した結婚でした。

生涯の大半を人質として過ごした

結婚後、政宗の短慮により田村氏の内通を疑われたことにより、愛姫付きの侍女を殺害されるという騒動が勃発します。これにより、一時政宗と愛姫の仲は険悪なものになったと伝えられています。

しかし、ほどなく夫婦仲は解消していったとされ、冒頭でも触れたように四人の子をもうけています。その後は大名の正室として、その宿命ともいえる人質という立場で生涯を過ごすことになります。

当時は天下人への服従の証として、正室や側室を人質として提供するのが通例でした。こうすることで、謀反への対策と服従の証明がなされていたのです。愛姫は結婚後すぐに政宗が豊臣のもとに下り、江戸幕府成立後も家康ら時の将軍によって人質としての役割を求められ続けました。そのため、政宗の正室ながら生涯仙台の地に足を踏み入れたことがなかったとされています。

ただし、人質という立場の妻にも重要な仕事がありました。それは、江戸で催される節句の際の仕立物を手配することでした。こうした節句のイベントには将軍家や諸大名も出席するので、手抜かりが許されない重要な仕事だったのです。『木村宇右衛門覚書』によれば、愛姫は衣服の仕立てを監督していたとされ、時には自分で衣服を縫うこともあったとされています。

さらに、姑である義姫とも良好な関係を築いていたとされています。『伊達家文書』に収録されている手紙から、義姫手製の提げ袋を大切に愛用している様子が確認でき、人質となって以降数十年間も顔を合わせていなかった義姫との関係性が伝わってきます。

政宗との仲はどうだったのか

先ほども触れたように生涯の大半を人質として過ごしていたため、愛姫と政宗は直接会うよりも離れ離れの時間のほうが圧倒的に長かったことが推測できます。さらに、政略結婚によって結婚した間柄でもあり、実際の愛情のほどがどれほどだったのかを現代的な「結婚」と同様に断定するのは問題があります。

しかし、結論からいえば夫婦仲はかなり良好であったとされています。その様子は、主に政宗と愛姫のやり取りに用いられた手紙から読み取ることができます。政宗は「手紙の鬼」としても知られており、自筆の手紙が多数伝えられているという側面があるためです。

例えば、元和6年(1620年)に娘を江戸の愛姫のもとから仙台へと引き取る際に政宗から彼女に送った手紙の中には「娘を手放すのはさみしいであろうが、数年に一度はそちらに顔を出させるようとり計らうので、今はこちらに寄こしてほしい」と記されています。ここからは、政宗による愛姫への気遣いが確認できます。政宗は実際にこの約束を守ったとされ、娘は数年ごとに江戸を訪れたとされています。

政宗は臨終に愛姫を立ち会わせることを許さなかった

こうして江戸で政宗の人質として過ごしていた愛姫でしたが、政宗が先に天へと旅立つことになります。これは寛永13年(1636年)の出来事でした。政宗の最期については別の記事にも書いているように、結果として江戸で逝去することになりました。また、数年にわたって体調を崩しがちになっていたので、自他ともに最期の時を予感させるには十分なものがありました。

そのため、江戸に在住していた愛姫はたびたび見舞いの申し入れをしますが、政宗はそれを許しませんでした。その理由について、政宗は「見苦しく見せられたものではないので、病気が快復するのを待ってほしい」「武士が女子供に囲まれて死ぬのは本望ではない」と記しています。

この返答に対し愛姫はたいそう落胆していたとされ、「何か会えない特別な事情でもあるのか、病気でも見苦しいとは思わないから一目会わせてほしい」と嘆いていたとされています。

こうして、ついに愛姫は政宗の臨終に立ち会うことはできませんでした。

しかし、『木村宇右衛門覚書』によれば政宗は自身の死の前日、看病にあたっていた女房衆に対し「これまでたびたびの見舞いに感謝しており、いずれ直接会ってお礼をしたい。息子や娘は若く粗相もあるかと思うが、兄弟仲が良好であるようにそなたから助言をしてほしい」と述べていたとされています。

ここからも、愛姫を嫌っていたために見舞いを拒んでいたわけではなく、敬愛の念をもちつづけていたからこそ見舞いを拒んだのだと考えられます。「弱っているところを見られたくない」という政宗のプライドと、「弱っていても一目見舞いたい」という愛姫の情愛には、どちらにも共感できるところがあるように思います。

政宗死後の愛姫とその最期

晩年の愛姫は瑞厳寺で仏門に入り、落飾して陽徳院と称しました。住職の雲居希膺のもとで深く仏教に帰依していたとされ、残された手紙の様子から以前と変わらず穏やかで慈愛にあふれた性格が見て取れます。

その後、愛姫は承応2年(1653年)に天寿を全うしました。前年冬より体調を崩していた愛姫は、かねてから政宗の命日である2月24日に同じく逝去することを望んでいました。その想いが通じたのか、愛姫もまた2月24に亡くなったとされています。

ここまでの内容を整理すると、結果的に政治の表舞台に立つことがなかったために、愛姫の生涯はあまり知られていなかったと推測できます。しかし、人質として生涯のほとんどを政宗と離れて過ごしながらも情愛をもちつづけていたことが想像できる愛姫の姿は、奥ゆかしい「古典的な武士の妻」という価値観から考えれば、まさしく理想的なものだったのではないでしょうか。


【主な参考文献】
  • 佐藤憲一『素顔の伊達政宗:「筆まめ」戦国大名の生き様』洋泉社、2012年。
  • 宮本義己「戦国「名将夫婦」を語る10通の手紙」『歴史読本』42巻10号、Kadokawa、1997年。etc…




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