「おね(のちの北政所、高台院)」秀吉の正室は内助の功だけの女性ではなかった!

秀吉の正室おねと言えば、戦国の女性の中では1、2を争うほどの知名度である。しかし、その知名度とは裏腹に豊臣政権においてその手腕に絶大なる信頼を寄せられていた「できる女」であったという点はあまり知られていない。実は豪気であったおねの人物像に迫ってみたい。

養子であったおね

おねと言えば、浅野家の生まれというイメージが強い。しかし、実際は養子であり、そもそもは杉原家の出であるという。

生年には諸説あり、定まっていない。史料に見えるのは、浅野長勝の養女になる辺りからである。ちなみに豊臣政権の五奉行として活躍する浅野長政は長勝の養嗣子である。

秀吉の妻に

1561年8月、おねは秀吉に嫁ぐ。ドラマなどではおねは最初、身分の差などから、自分に好意を持つ秀吉に冷たかったという筋書きが多い。

しかしながら、このあたりの記述は一次史料にはないようだ。判明しているのは当時としては大変珍しいことに、恋愛結婚であったらしいということだ。おね14歳のことと伝わる。2人の結婚式は周囲の反対もあって、極めて質素なものだったようである。

秀吉との間には子がなかったとされ、親類や小飼いの家臣によって家臣団を形成していくほかなかった。このことが、やがて豊臣政権のアキレス腱となっていくのである。

ところで、おねについて調べていくうちに、興味深いウワサにたどり着いた。新婚当時、秀吉がまだ身分が低かったため生活はかなり苦しかったという。

手柄を立てるのも、先立つものは銭であったのだろう。懐妊したおねに出世のための妨げになるので、堕胎するよう秀吉が諭したというウワサがあるという。これを裏付ける一次史料は今のところないようであるが。

そもそも、秀吉には1男1女を授かったという説も存在する。

男子は側室の南殿が産んだ石松丸で、長じて秀勝と命名されたがわずか7歳で亡くなってしまう。
女子のほうは謎が多く、生年すら不明である。

長浜にある舎那院所蔵の弥陀三尊には、「江州北郡 羽柴筑前守殿 天正九年 御れう人 甲戌歳 奉寄進御宝前 息災延命 八月五日 如意御満足虚 八幡宮」と銘記されているという。ところが、舎那院はこの碑銘について、秀吉の母・大政所のために寄進されたものとしているらしいのだ。

大政所は76歳で死去したと言われているので、れう人(麗人)という表現との齟齬があるという説もある。やはり、どうやらこの碑銘は秀吉の女子の可能性が高そうだ。とすると、その女子の母は誰であろう。おねという可能性はないか。というのも、秀吉が仮に身分の低い女性に手をつけて生まれた女子であれば、わざわざ碑銘など刻ませるだろうかという疑問が起こるからである。

側室が産んだのであれば、何らかの記録が残るのが普通ではないだろうか。あくまで消去法による推測に過ぎないが、おねの子である可能性はゼロではないと思われる。

信長の手紙

長浜12万石の領主となり、側室を持てるようになった秀吉は、次第に女癖の悪さを発揮しはじめる。

おねのことだから、最初はお家の安泰のためと割りきっていたに違いない。しかし、秀吉の色狂いは少々度を越していたのだろう。信長に面会する機会があり、その席で秀吉の浮気について直訴したとも言われている。

ちなみに、おねが信長に「直訴」したのはこれが初めてではない。秀吉は信長の4男・秀勝を養子に迎えているが、これはおねの懇願によるものだという。

主君の子を養子にすることで、織田家とのパイプを強くする狙いがあることは明らかであろう。そんな奮闘をよそに女遊びにうつつを抜かしている秀吉に不満を爆発させるのも無理はない。

信長はそのようなおねの心情を察し、何と天下布武の朱印入りの書状を送ったのである。部下の正妻に公式の体裁で送られた非常に珍しい書状であるので、以下に原文を載せておきたい。

仰せの如く、今度はこの地へはじめて越し、見参に入り、祝着に候。
殊に土産色々美しさ、中々目にも余まり、筆にも尽くし難く候。
祝儀は仮に、この方よりも何やらんと思い候はば、その方より見事なる物、持たせ候間、
別に心さしなくのまま、まずまずこの度はとどめ参らせ候。
重ねて、参りの時、それに従うべく候。

就中、それの見目ぶり、形まで、いつぞや見参らせ候折節よりは、十の物廿ほども見上げ候。
藤吉郎、連々不足の旨申のよし、言語同断、曲事候か。
何方を相尋ね候共、それさまの程のは、又二度、かの禿ねずみ、相求め難き間

これ以後は、身持ちを良う快になし、いかにもかみさまなりに重々しく悋気などに立ち入り候ては然るべからず候。
ただし、女の役にて候間、申すものと申さぬなりにもてなし、然るべく候。

尚、文体に羽柴には意見、請い願うものなり。

又々 かしく
藤吉郎 女ども

のぶ

内容をざっと述べておくと、

「秀吉があなたに不満を言っているようであるが、とんでもないことだ。あの禿げねずみがあなたほどできた女性を得られるわけはないのだから正妻として嫉妬などせず、堂々としていなさい。」


といったところであろうか。秀吉だけでなく、おねも重要な人物であると信長が認識していたことをうかがわせる書状である。

北政所

1582年、本能寺の変が勃発する。このとき、秀吉は毛利攻めで中国地方にいた。同時期、おねは長浜城にいたとされる。

光秀の居城坂本城と長浜城はどちらも琵琶湖畔にあり、京にもかなり近く、おねは早い時期に変の報を聞いたであろう。変の首謀者の居城近くにいる恐怖は想像を絶するものであったと思われる。案の定、ほどなく明智方の阿閉氏が攻め込んできている。おねは急ぎ大吉寺に避難し、難を逃れたと伝わる。

一方、秀吉は変の報を聞くや、交戦中であった毛利と和議を結び、怒涛の勢いで畿内に戻った。世に言う「中国大返し」である。

まだ軍勢を整えきれていなかった光秀は山崎の合戦で破れる。その後秀吉は清須会議で主導権を握り、天下取りに向かってひた走る。翌1583年には賤ヶ岳の戦いで、対立していた柴田勝家を下し、実質的に織田家中の実権を掌握したのである。

同年、大坂城を築いた秀吉は、おねと共に大坂城へ移り住むこととなる。

秀吉は1585年7月朝廷より関白宣下を受けるが、それに伴い、おねは従三位に叙せられた。これ以後、おねは北政所の称号が許される。

実は、天下人の妻としてのおねの役割はかなり重かったという。何せ、朝廷との交渉のほとんどをおねが引き受けていたし、大名が人質として差し出した妻子の監督まで請け負っていたというから、結構な激務である。

この激務のストレスからかこの頃のおねは腸の不調に悩まされたと伝わる。ストレスに悩まされながらも、やはりおねは「できる女」であったようだ。

1588年5月、後陽成天皇は聚楽第に行幸するが、これを万事取り仕切ったのはおねであったという。この功によりおねは従一位に叙せられるが、これは女性としては破格の官位である。

どうもおねは単に正室であったと言うよりは、秀吉の優秀な片腕という側面が強かったようだ。それが如実に現れているのが朝鮮出兵の際の物流指揮系統であろう。

1593年より朝鮮出兵が開始されるが、名護屋・大坂京都間は秀吉の朱印状が必要とされ、京都・名護屋間が秀次の朱印状が必要であったのは当然だろう。しかし、大坂から名護屋はおねの黒印状が必要とされたのには少々驚く。

ルイスフロイス『日本史』にも「関白殿下の妻は異教徒であるが、大変な人格者で、彼女に頼めば解決できないことはない」とあり、おねの影響力の強さがうかがえる。

高台院

1598年8月秀吉はこの世を去る。幼い秀頼を残しての死はさぞかし心残りであったろう。おねは淀殿と秀頼の後見を務めたという。

様々な史料を読んだ限りでは、2人の仲はそれほど悪くなかったように思える。政治的には中立の立場にこだわったようにも見える。

彼女にとって、豊臣政権はあくまで秀吉の興したものという意識が強かったのではないか。秀吉亡き後は、世の趨勢を見守りたいというスタンスを貫いたように思えてならない。

1599年3月前田利家死去の直後に起こった、加藤清正ら七将による石田三成襲撃事件において家康は事件の仲裁をおねに依頼している。それは家康がおねを最も中立であると判断したからであった。もっとも、そのことで家康の評価まで相対的に上がってしまったのは皮肉と言うほかない。

1600年、関ヶ原の戦いが勃発する。前年大坂城を退去し京都新城に移り住み、政の第一線を退いていたおねであったが、その立場は微妙であった。

関係者のほとんどが西軍関係者であったのだから無理はない。しかも木下家の何人かは西軍として行動してもいるのだ。

『言経卿記』によれば、関ヶ原の戦いの直後の9月17日、おねは急遽宮中に逃げ込んだという。『梵舜日記』は、この時おねは裸足のままであったと伝えている。

おねにしては珍しく、かなりの慌てぶりであるが、兄の木下家定から西軍大敗の報を知らされて平静ではいられないであろう。

関ヶ原の混乱を何とか凌いだおねは、1603年に秀頼と千姫の婚儀を見届けたという。これは秀吉の遺言でもあったらしい。

程なくして、おねは出家を決意し朝廷より院号を賜り高台院湖月心尼と名乗るようになる。大坂の陣の際には江戸幕府から大坂入りを禁じられ、甥の木下利房が監視役につけられ、京に足止めを食っている間に豊臣家は滅亡してしまう。

基本的に江戸幕府はおねに対して好意的であったようだ。特に二代将軍秀忠は大坂城に人質として送られた際に、おねに大変親切にされたとともあり、2人の関係は非常に親密であったという。

1624年10月おねは高台院の屋敷にて死去する。享年は76や83など諸説あり、未だ定まっていない。

あとがき

前田利家の正室・まつは良妻賢母を絵に描いたような女性であったが、おねはスケールが大きく妻とか母とかの枠から外れた女性であったような気がする。

あまり知られていないが、秀吉がおねに与えた所領は約1万5000石であり、大名の所領にも匹敵する石高であった。当時、大名の妻が所領を与えられるのは珍しくはなかったと思われるが、1万石を超える所領は珍しいと言える。

これをもってしても、秀吉は自分の片腕としておねを見ていたと考えて良いのではないだろうか。秀吉はよく「人たらし」と評されるが、どうも計算高さが見え隠れする時があると思ってしまうのは私だけであろうか。おねも多方面の人物から慕われ、信頼されていることを考えると真の人たらしは彼女ではなかったかとさえ思ってしまうのである。


【主な参考文献】
  • 小和田哲男『北政所と淀殿―豊臣家を守ろうとした妻たち―』吉川弘文館 2009年
  • 田端泰子『北政所おね:大坂の事は、ことの葉もなし』ミネルヴァ日本評伝選  2007年
  • 山陽新聞社編『ねねと木下家文書』山陽新聞社 1982年

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  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

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