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  • 織田信長
 2019/02/01

「織田信孝(神戸信孝)」信長の三男。兄との差別を糧にのし上がる!?

織田信孝の肖像画

織田信長の三男である織田信孝(神戸信孝)は信長の実子でありながら、兄二人と比べると不遇な少年時代を送りました。しかし、信孝はその逆境をはね返すかのように実力を蓄え、やがて信長にも認められるまでの存在に。

本能寺の変の後、一時は後継者候補として天下に近い位置にいた信孝ですが、その後運命は急転直下。織田家の覇権を狙う羽柴秀吉にとって邪魔な存在となった彼の末路はどうなったのでしょうか?
(文=玉織)

本来信長の次男のはずが…

信孝がこの世に生を受けたのは元禄元年(1558年)織田信長の次男である信雄も同年の生まれなので、2人は同い年の兄弟ということになります。

しかし、実は信孝は信雄よりも20日ほど早く誕生していました。生まれた順番からすれば、信孝は本来織田家の次男にあたるはずなのですが、信孝の母親はあくまでも側室。事実上の正室と言われる信雄の母とは身分に歴然とした差があります。

「信雄の母に遠慮した」、「信長の耳に入るのが遅れた」など、理由には諸説ありますが、信孝は信雄の下の弟、織田家の三男とされました。

こうしたことは戦国の世では珍しいことではなかったようですが、この後信孝は次男・信雄との間に横たわる歴然とした格差を見せつけられながら育っていきます。

11歳にして神戸氏の養子へ

元禄10年(1567年)、伊勢に目を付けた信孝の父・信長は北伊勢に侵攻を開始します。 伊勢の国人領主・神戸氏らの反撃により、一度は撤退を余儀なくされた織田軍ですが、翌年の元禄11年(1568年)には、長野工藤氏や神戸氏を降伏させて伊勢を平定。この時の神戸氏と織田勢の和睦の条件が、信孝が神戸具盛(かんべとももり)の養子になる、というものでした。

神戸氏はもともと鎌倉御家人である関氏の諸流に当たります。それが、南北朝期に伊勢に土着し、北伊勢を中心に次第に勢力を拡大。いつしか本家である関氏と並ぶほどの力をもつ一族となっていたのです。

信孝を具盛の娘と婚姻させることで、信孝は神戸家の次期当主に。これで事実上、神戸家は織田家のもの。そんな信長の意図が透けて見えますね。

信長の意向に神戸家が反発したのか…、養父・具盛と信孝の関係はあまりうまくいかなかったようです。元亀元年(1570年)ごろから具盛は信孝やその側近たちを冷遇。両者の関係は次第にこじれていったとみられます。

これを伝え聞いて怒ったのが信孝の実父・信長。元亀2年(1571年)、信長は近江の日野城に具盛を幽閉。その翌年となる元亀3年(1572年)には、当主不在となった神戸氏の家督を信孝に相続させたのです。

神戸氏乗っ取り後、政策・軍事で手腕を発揮

信孝が神戸氏の家督を相続すると同時に行ったこと。それは、養子である信孝が跡継ぎになることに反発した神戸氏の家臣の静粛です。これによって神戸氏に古くから仕えていた家臣たちが数多く誅殺・追放されました。織田家による神戸氏乗っ取りはこれで完全に成功、ということになりますね。

信孝が次いで着手したのは、信長より命を下された「神戸検地」です。織田家の新たな領地となった神戸家の所領の農業生産高や課税台帳について整備を行ったのです。
さらに信孝は神戸城下に楽市・楽座(信長の経済政策で、自由に取引が行える制度)や伝馬制(公的な文書や荷物を馬が宿場ごとに乗り継いで運ぶ制度)などの政策を実施。神戸城下に繁栄をもたらし、当主としての有能さを知らしめました。

天正元年(1573年)には、神戸氏と同族であった関氏も追放。信孝は伊勢の鈴鹿と河曲の2郡を直接支配することになりました。なお、信孝はこの天正元年以降に元服したとみられていますが、元服後は軍事的な分野でも名を馳せていきます。

信孝が軍事的な分野で初めて資料に登場するのは、天正2年(1574年)長島一向一揆の殲滅戦。これが信孝の初陣であるとみられています。その後も、次々と織田軍の主だった戦に参戦。戦歴はざっとみるだけでも、以下のようなものがあります。

  • 天正3年(1575年) 越前一向一揆討伐
  • 天正4年(1576年) 三瀬の変
  • 天正5年(1577年) 紀州征伐
  • 天正6年(1578年) 播磨神吉城攻め
  • 天正6-7年(1578-79年) 有岡城の戦い

播磨神吉城攻めにおいては、信孝は指揮官の一人でありながら足軽衆と先を争い陣頭で戦うという奮闘ぶり。父・信長になんとか自分の力を認めてもらいたいという気持ちがあったのかもしれません。こうした努力が次第に実を結び、信孝は織田軍の連枝衆として認められていくようになります。

兄2人に及ばずも、家中で破格の扱い

信孝は長男信忠や次男信雄に比べると、官位や待遇の面ではかなり差をつけられていました。信孝は天正5年(1577年)に従五位以下に叙位されて侍従に任官していますが、信忠は従三位左中将、信雄は従四位下左中将です。

以下の官位相当表にあてはめてみると、信孝の官位が兄2人と比べて見劣りしているのがよくわかるかと思います。

  • ・・・
  • 正三位
  • 従三位(信忠)
  • 正四位上
  • 正四位下
  • 従四位上
  • 従四位下(信雄)
  • 正五位上
  • 正五位下
  • 従五位上
  • 従五位下(信孝)
  • 正六位上
  • 正六位下
  • ・・・

さらに、天正9年(1581年)の京都馬揃えにおける行進の順番と騎馬数は以下のようなものでした。

信孝は信長の弟・信包に次いで4番目となっています。そして、騎馬数は従兄弟の信澄と同等です。

このように兄2人とはなにかと待遇面で差をつけられており、信孝自身も時には悔しい思いをしたのではないかと思われます。それでも彼は、史実にもあまり登場しない信長の四男以下の子たちと比べれば破格の扱いだったのです。

父信長からも特別視されていたといわれており、信孝へ寄せる期待がみてとれますね。

文武両道の好青年?資料に残る信孝の人となり

信孝は様々な資料にも名を残していますが、その内容からは信孝の人となりをうかがい知ることができます。

  • 「前途有望な青年」(『イエズス会日本通信』)
  • 「思慮があり、諸人に対して礼儀正しく、また大いなる勇士である」(『イエズス会日本通信』)
  • 「智勇、人に越えたり」(『柴田合戦記』)
  • 「文武の達人にして、文学を用い歌道を好む」(『勢州軍記』)

文武に優れ、周囲からも信頼を得ていた信孝。武将としてのたしなみだけではなく、信孝は行政官としてもその力をいかんなく発揮していました。

天正8年(1580年)には村井貞勝補佐のために京にとどまり、宮中との交渉を担当。さらに同年、伊勢の神戸に5層6階の天守を築き、神戸城を改築。天正10年(1582年)の正月に武田氏の家臣・木曾義昌が武田家から離反し織田家へ転じた際、仲介役となったのも信孝であったとか。これがきっかけとなり、武田家は織田家の甲州征伐によって滅亡することとなってしまいます。

四国攻めで総大将に大抜擢されるが…

一方、信長は同年2月頃にこれまで友好関係にあった四国の長宗我部氏に対して三好康長を送り、軍事的な介入を開始していました。

そして武田滅亡後まもない同5月7日には、信孝を総大将とした「四国攻め」の指示が信長より下されます。

この時の朱印状には、信孝を総大将に任ずること、四国平定後は讃岐国が信孝に与えられること、三好康長の養嗣子となること、などが盛り込まれていました。信孝にとって、一世一代ともいえるべき大チャンスが巡ってきたのです。

信孝が三好康長の養子となれば、養父の治める阿波国もいずれは信孝が継承することになります。四国攻めが成功すれば、信孝はいわば「四国管領」。四国を支配する権限をつかむことができるのです。

信孝は四国攻めにあたって所領の伊勢に住む15歳から60歳までの名主百姓をことごとく動員。さらには伊賀、丹波などからも兵を動員しています。

5月29日には総大将信孝の軍は摂津の住吉に、副将の織田四天王・丹羽長秀や従兄弟の津田信澄らは摂津大阪に着陣。6月3日にはいよいよ四国へ軍を進めようとしていました。

ところが、その1日前の6月2日。日本の歴史の大きな転換点ともいえる本能寺の変が勃発。信長は自害に追い込まれたのです。

この時の信孝は、織田家の重臣の中で最も本能寺に近い場所にいました。四国攻めを控えて手勢も十分、すぐにでも敵討ちに出陣!という状況にあったと考えるのが普通です。しかし現実はそううまくはいきませんでした。諸国からの寄せ集めであった信孝の兵たちは、信長自害の報を聞くや、相次いで逃亡。もはや信孝が単独で明智軍と戦を構えることは困難でした。

とはいえ、信孝もただ援軍の到着を待っていたわけではありません。 四国攻めの副将であった丹羽長秀と相談して、明智光秀の娘婿で自身の従兄弟でもあった津田信澄を共謀者とみなして殺害。首をさらして光秀へのみせしめにします。その後、駆けつけた羽柴秀吉の軍勢と合流。自らが総大将となった山崎の戦いにて、信孝は父の仇を討ったのでした。

信長死後は、秀吉と対立へ

父・信長の敵討ちに成功した信孝。これで信孝は織田家の後継者候補に一気に躍り出ます。

織田家の後継者を決める「清州会議」では、柴田勝家が信孝を後継者として推薦しましたが、秀吉がこれを阻止します。

『絵本太閤記』清州会議で三法師を擁する秀吉
『絵本太閤記』清州会議で三法師を擁する秀吉

秀吉は本能寺で自害した長男・信忠の遺児でわずか3歳の三法師を後継者に推し、信孝をその後見役に据えました。 秀吉は信長の敵討ちを果たしたという実績を振りかざし、織田家を手中に収めるための大一石を投じたのです。

この会議で信孝は信忠の元領地の美濃一国を得ていました。しかし、その美濃にも秀吉はひそかに手をまわしており、信孝が美濃を自分の手に完全に収めるのを妨害していました。

信孝は秀吉が主家を差し置いて天下人のようにふるまい始めるのが我慢できなくなっていたのでしょう。もともと織田家の重臣筆頭であった柴田勝家と手を結んで秀吉に対抗します。 しかし、秀吉は、勝家が積雪で身動きが取れずにいる隙をついて、岐阜城を包囲。 信孝はなすすべもなく、三法師を秀吉の手に渡すしかありませんでした。それだけでなく、信孝は母や娘まで人質として差し出さなくてはならなくなりました。

賤ケ岳の戦いに敗れ、壮絶な最期を遂げる

天正11年(1583年)、勝家が秀吉に反目して賤ケ岳の戦いが勃発。

信孝は勝家に味方して岐阜城で再び反秀吉の兵をあげました。しかし、これに対して秀吉は人質である信孝の母と娘を磔にして処刑。これには勝家も信孝も大きな衝撃を受けたことでしょう。 信孝は秀吉に味方した兄・信雄によって岐阜城を包囲され、勝家が敗北して自害すると自身も降伏を余儀なくされてしまいます。

このとき既に自害を覚悟していた信孝。以下の辞世の句を残して享年26歳にして自害。本能寺の変から一年足らず後のことでした。

たらちねの名をば下さじ梓弓 稲葉の山の露ときゆとも(豊臣記)

神戸信孝の肖像画

自害の際、信孝は切腹の際に腹をかき切って腸を引きずり出し、床の間の掛け軸に投げつけたと言われています。 その壮絶な死にざまからは、一言では言い尽くせないような激しい怒りが伝わってくるようです。

実は、信孝の辞世の句として伝わっている句は、もう一句あることをご存知でしょうか。

昔より主を内海の野間なれば やがて報いん羽柴筑前(太閤記)
(訳:主君を討ったその身には、必ず報いを受ける日が来るだろう。秀吉よ。非業の最期を待つがいい。──)

内海は「討つ身」、と掛詞になっています。伝わってくるのはすさまじいまでの怒り。もはや呪詛に近いものを感じます。この句は江戸時代の軍記に伝わるものなので、もしかしたら後世の作かもしれません。しかし、信孝の生涯を振り返ってみると、これほどの怒りを抱えていたとしても無理からぬこと。

何か事をなそうとするたびに邪魔が入り、道をふさがれ続けた人生。 それでもあがき続けて、優れた武将として知られるところとなった信孝でしたが、待っていたのは非業の最期。 信孝を思うとき、戦国の世の厳しさを改めて思い知らされるのでした。


【主な参考文献】
  • 谷口克広『織田信長合戦全録 -桶狭間から本能寺まで』中公新書、2002年。
  • 谷口克広『信長軍の司令官 -部将たちの出世競争』中公新書、2005年。
  • 谷口克広『尾張・織田一族』新人物往来社、2008年。
  • 谷口克広・岡田正人『織田信長軍団100人の武将』新人物文庫、2009年。
  • 太田牛一『現代語訳 信長公記』新人物文庫、2013年。
  • 和田裕弘『織田信長の家臣団 -派閥と人間関係』中公新書、2017年。




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