「滝川一益」伊勢攻略の立役者だが、ツイてない晩年には同情してしまう…

滝川一益のイラスト
滝川一益のイラスト
織田信長の家臣として有名な滝川一益。「進むも滝川、退(ひ)くも滝川」と称えられ、織田家臣団の中でも、特に重要視されていた武将の一人でした。そんな一益ですが、晩年はどうやらツイていなかったようです。

やんちゃな若者、信長に仕官する

滝川一益の出自は定かではありません。有力な出身地とされているのは近江国甲賀郡。その土地柄から「一益は忍者だったのではないか?」とする説もありますが、明確な根拠はありません。まさかの短絡的な発想。でも……、嫌いじゃない。

一益の出身地としては他にも、伊勢国や志摩国が挙げられることがあります。これらの根拠としては、信長から恩賞として北伊勢に広大な所領を与えられたこと、志摩出身の将である九鬼嘉隆(くき・よしたか)が信長に仕官する際、一益が仲介役を果たしたこと、等が考えられています。

九鬼嘉隆の肖像画(常安寺 蔵)
九鬼水軍を率いたことで有名な九鬼嘉隆

それはさておき、なぜ出自のよくわからない滝川一益が、信長に仕えることになったのでしょうか。『寛永諸家系図伝』によると、一益は幼い頃から鉄砲の腕前が長けていたのだとか。ところが同族の者を殺害したため、国を去ることに。そして諸国を放浪した末、信長に仕えることになったといいます。

若い頃の一益は博打好きだったとも言われていますから、随分やんちゃ(人を殺しているので、これが適語かどうかはわかりませんけど)な若者だったのでしょうか。

また、一益が信長に仕官するようになった時期も、ハッキリとしていません。そこで手掛かりにのが『信長公記』。年次不明の盆踊りのくだりに、“一益”という名前が初めて出てきます。

他の登場人物が信長初期の家臣であり、当時の信長の居城が清須城であることがうかがえるので、仕官した時期は1555~58年頃と推測することができます。

伊勢攻略で活躍

その後、信長は永禄3(1560)年の桶狭間の戦いで今川義元を討ち、さらには尾張統一も成し遂げました。これに続いて行われたのが美濃攻略ですが、こちらに一益が参加した形跡はみられません。

一方で一益は伊勢侵攻に大きく関わっていたものとみられています。

  • 本願寺勢力の抑制
  • 近江六角氏への牽制
  • 伊勢湾貿易の確保

などを理由として、信長に伊勢侵攻を進言したのは一益、とも言われているのです。

永禄10(1567)年の春、まずは北伊勢攻略が始まり、一益は先鋒として派遣されます。当時の北伊勢は、神戸(かんべ)氏・長野工藤氏・関氏といった有力国衆とその他の地侍たちによる“割拠状態”にありました。この年は、員弁(いなべ)郡や桑名郡の地侍を服属させています。

そして翌年から本格的に攻略をすすめていきます。信長は三男の三七郎(のちの織田信孝)を神戸氏に養子として送り込み、さらに弟の信良(のちの織田信包/のぶかね)を長野工藤氏の当主とするなど、北伊勢を手中に収めることに成功。この背景には、北伊勢に留まっていた一益による内部工作がありました。

なお、この年の信長は足利義昭を奉じた上洛戦を行い、多くの家臣がこれに従軍していますが、一益は北伊勢に抑えとして残っています。

さて、当時の伊勢国最大の勢力といえば北畠氏でした。その実権を握っていたのは、北畠具教(とものり)という人物。ところが彼の弟である木造(こづくり)城主・木造具政が永禄12(1569)年、南伊勢の制圧をうかがっていた信長に対して、誼(よしみ)を通じてきたのです。

伊勢の国司・北畠具教の肖像(伊勢吉田文庫 蔵)
伊勢の国司・北畠具教の肖像(伊勢吉田文庫 蔵)

これを機に一益ら織田軍の大軍は大河内(おかわち)城攻めを開始。戦いの末、和睦によって開城されることになりました。とはいえ和睦の条件は、

  • 信長の次男・茶筅丸(のちの織田信雄/のぶかつ)を北畠当主・具房の養継子とすること
  • 大河内城を茶筅丸に明け渡すこと

という信長側に有利なもの。これを北畠氏が飲むことにより、信長は伊勢平定を成し遂げました。その後も一益は伊勢国に留まり、安濃津(あのつ)・渋見・木造の3つの城の守備を任せられています。


一向一揆を平定し長島城主に

その後、信長と将軍義昭が不和になったことで、情勢は激変します。義昭は浅井・朝倉・本願寺・武田・毛利といった反織田勢力を結集。織田勢はそれらとの対決を強いられることになりました。そして伊勢国を拠点としていた一益も、長島の一向一揆(1570~74年)と対峙することに。伊勢長島には石山本願寺(浄土真宗の本山)の末寺・願証寺があり、一向宗の一大拠点となっていたのです。

江戸時代に再興された、桑名市長島町又木の願證寺
江戸時代に再興された、桑名市長島町又木の願證寺(出所:wikipedia

天正2(1574)年に行われた殲滅戦では、一益は九鬼嘉隆らと共に水軍を率いて活躍。木曽川・長良川・揖斐川に囲まれた長島城を、完全に封鎖しました。この功績によって、一益は北伊勢の大半を与えられ、長島城主となります。

なお、この伊勢長島の戦いはなかなかエグかったようです。兵糧攻めに耐え切れずに降伏してきた者たち千人を、男女問わずに斬殺。さらに、最後まで降伏しなかった門徒2万人を焼き殺したと言われていますから、まかり間違っても信長軍とは戦いたくないものです。


各地を転戦、そして関東方面軍の司令官へ

伊勢長島の平定以降、滝川一益は

  • 天正3(1575)年5月、長篠の戦い
  • 同年8月、越前一向一揆
  • 天正4(1576)年5月、天王寺の戦い
  • 天正5(1577)年、紀州征伐
  • 天正6(1578)年、第二次木津川口の戦い
  • 天正6-7(1578-79)年、有岡城の戦い
  • 天正9(1581)年、第二次天正伊賀の乱

などに参戦。織田家の所領拡大に伴い、各地を転戦する“遊撃軍”として行動していたようです。

※参考:信長軍の主な合戦マップ。青マーカーは信長の居城

そして天正10(1582)年には武田領への侵攻、つまり甲州征伐が始まります。総大将は信長の嫡男・信忠。一益も軍監として、信濃国に侵攻します。

天目山の戦いでは武田勝頼を討ち取り、織田家中随一の手柄をあげました。戦後、一益は上野一国と隣接する信濃の小県(ちいさがた)郡・佐久郡を与えられます。

さらには関東方面軍の司令官にも命じられました。このとき与えられた役職名は「関東管領」であったとされています。

関東管領といえば、かつては室町幕府の地方機関「鎌倉府」の長官である鎌倉公方を補佐する役職のことですが、果たして一益の就いた役職が、これと同等であったかは定かではありません。

とはいえ、司令官とはいっても、関東一円に勢力を有していた北条氏は、すでに信長に恭順の意を示していました。そのため一益の任務は合戦に勝利することではなく、外交によって北条氏をはじめとする関東の諸大名を、正式に服属させること。さらには伊達氏や蘆名氏といった東北の諸大名を従属させることだったと言えます。

こうして、織田家臣の中で最大のエリアを担当することになった一益。信長からの信頼は、かなり厚かったようですね。

武田滅亡後の武田旧領の支配権
武田滅亡後の旧武田領の織田家臣への分与(1582年)

転げ落ちた晩年

このように、順調そうに見える一益のキャリア。ところが同年6月に起こった本能寺の変によって、彼の運命の歯車は狂い出すのです。

信長の死が知れ渡ると、甲斐国を統治し始めて間もない河尻秀隆が武田の旧臣に討たれるなど、旧武田領は大混乱。周辺大名や国衆らによる“争奪戦”が勃発したのです(天正壬午の乱)。

その混乱に乗じて、同盟関係にあったはずの北条氏が、手の平を返すように上野国へと侵攻。一益の軍はこれを現在の埼玉県・神流川(かんながわ)で迎え撃ちます(神流川の戦い/6月16~19日)。

しかし、一益側の兵力は北条氏の約半分。この戦いに敗れた一益は、命からがら自領の伊勢国まで逃れるハメに(7月1日)。そしてこの行動が、今後の彼の運命を大きく変えることになるのです。

実はこの間、尾張国の清須城にて清須会議(6月27日)が行われており、一益がこれに出席することは叶いませんでした。

清須会議とは織田家の重臣たちが集まり、跡継ぎを決めた会議のことです。そんな重要な会議に間に合わなかったということで、織田家における一益の地位は急落することになります。

一方、この会議で存在感を示したのが羽柴秀吉でした。秀吉は信長の孫・三法師(のちの織田秀信)を跡継ぎにすることを主張、これに対してライバル・柴田勝家は信長の三男・信孝を支持しました。結局、光秀を討った秀吉の主張が通り、織田家の家督は三法師が継ぐことになります。

とはいうものの、信長亡き織田家の中に家臣同士の対立が生じることになりました。そして一益は、ここでも運に見放されます。縁戚関係にあった、柴田勝家側に与することにしたのですから……。一益、それだけはダメだってば。

そして翌天正11(1583)年4月、秀吉と勝家はついに軍事衝突に至ります(賤ケ岳の戦い)。

緒戦は優勢であったものの、勝家軍は次第に追い詰められていき、最期は越前北庄城でお市の方(信長の妹)とともに自刃。一方、長島城で孤軍奮闘していた一益も秀吉に降伏せざるを得ませんでした。

北庄城で最期をともにした柴田勝家とお市のイラスト
北庄城で最期をともにした柴田勝家とお市

その結果、伊勢の所領はすべて没収されることに…。出家した一益は丹羽長秀を頼って越前へ向かって隠居します。

ところがこのまま静かに暮らすことは叶いませんでした。その翌天正12(1584)年には、秀吉に呼び戻され、織田信雄・徳川家康の連合軍と戦った小牧・長久手の戦いに駆り出される羽目になるのです。頼むから、せめて静かに余生を送らせてあげて。

こうして失意の晩年を過ごした一益は天正14(1586)年、越前の地で亡くなりました(享年62歳)。

まとめ

滝川一益の生涯は、いかがでしたでしょうか。

信長家臣として数多くの功績を重ね、関東方面軍の司令官という重責を担うまでに上り詰めた一益ですが、本能寺の変によって運命の歯車が狂ってしまいました。

信長公さえ生きていれば…。勝家が秀吉に勝利していれば…。信長の死以降は運命に翻弄されてしまった晩年でした。


【参考文献】
  • 太田牛一『現代語訳 信長公記』新人物文庫、2013年。
  • 平山優『真田三代』PHP研究所、2011年。
  • 谷口克広『尾張・織田一族』新人物往来社、2008年。
  • 谷口克広『信長軍の司令官 -部将たちの出世競争』中公新書、2005年。
  • 谷口克広『織田信長合戦全録 -桶狭間から本能寺まで』中公新書、2002年。

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  この記事を書いた人
犬福チワワ さん
日本文化・日本史を得意とする鎌倉在住のWebライター。 都内の大学を卒業後、上場企業の経理部門・税理士法人に勤務するも、体調を崩して離職。 療養中にWebライティングと出会う。 趣味はお笑いを見ることと、チワワを愛(め)でること。

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