「どうする家康」織田信長 暗殺未遂事件と姉川の戦いの行方
- 2023/04/24
大河ドラマ「どうする家康」第15話は「姉川でどうする」。元亀元年(1570)4月28日、越前の金ヶ崎城(福井県敦賀市)を攻略していた織田信長は、妹・お市を嫁がせていた北近江の武将・浅井長政の叛逆情報を得ます。信長は最初、この情報をデマと感じたようですが、頻々と入る「長政裏切り」の報告に、ついに撤退を決意。金ヶ崎城には木下藤吉郎(秀吉)を残し、自らは都へ向けて、退却するのでした。
4月30日、朽木(滋賀県高島郡)越えをして、何とか無事に都に辿り着きます。信長は5月9日に、都を出て、岐阜に帰ろうとします。しかし、浅井長政がそれを邪魔立てします。そこで信長は千草越をして、伊勢経由で岐阜に戻ろうとするのですが、その時、信長をスナイパーが襲います。杉谷善住坊という者が、千草山中において、鉄砲を構えて、信長を狙撃したのです。
が、善住坊が放った玉は、信長の身体をかすっただけで、致命傷を与えるまでには至りませんでした。善住坊は鉄砲の名手であったようですが、その経歴など詳細は不明です。彼は『信長公記』によると、近江国の前守護・六角承禎に頼まれて、信長を狙ったとのこと。ちなみに、六角氏は、信長上洛戦(1568年)の際、信長軍に叩きのめされていました。
さて「虎口」を逃れた信長は、5月21日に岐阜城に到着。6月になると、六角氏が挙兵しますが、柴田勝家らの活躍により、退けられます。浅井長政も越前の朝倉氏と組んで動き始めますが、信長もこれに対抗、浅井氏の居城・小谷城に迫ることもありました(6月21日)。信長方には徳川家康の軍勢5千がいましたが、越前の朝倉氏も、朝倉景健が率いる8千の軍勢を「浅井救援」のため差し向けます。
そして、6月28日に、ついに姉川(滋賀県長浜市)の戦いが勃発するのです。『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作)や『徳川実紀』(江戸幕府が編纂した徳川幕府の歴史書)には、徳川家康の軍勢の活躍が大書されていますが、『信長公記』(信長の家臣・太田牛一が記した信長の一代記)には、徳川軍の奮戦は記されていません。
「敵が姉川に攻めてきたが、互いに押しつ押されつ、散々に入り乱れて、黒煙をあげ、鎬を削り、鍔を割って、ここかしこで思い思いの活躍をした」とあるだけです。その結果、浅井・朝倉連合軍は、敗北。同書によると、約千人余りが討ち取られたと言います。信長は、一気に小谷城を攻め取りたいと思ったでしょうが、同城は要害にあり、それは叶わず。小谷城の側にある横山城を攻略し、そこに木下秀吉を置き、自らは7月6日に上洛するのでした。
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄