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 2019/02/28

「筒井順慶」本能寺後は光秀と秀吉のどっちに加担?答えは…日和見

筒井順慶の肖像画

幼少期に家督を相続、少年期から十数年間にわたるライバルとの闘い、病をおして自身最期の戦に出陣…。筒井順慶の人生は戦乱の世にふさわしく、波乱万丈なものでした。しかし、順慶の名は意外なところで後世まで広く伝えられることとなったのです。

本能寺後に「日和見」の代名詞ともなった洞が峠(ほらがとうげ)。洞ヶ峠で順慶はいったい何を…?!
(文=玉織)

わずか2歳で筒井家の家督を相続

筒井順慶は天文18年(1549年)に大和国(現在の奈良県)の大名であった筒井順昭(つついじゅんしょう)の子として誕生。幼名を藤勝丸といいました。

大和国では元々興福寺がその守護を務めていたのですが、「大和四家」と呼ばれる筒井、越智、箸尾、十市の4氏が台頭すると、その中から順慶の父・順昭が勢力を拡大して大和一国をほぼ手中に収めました。

筒井家は代々興福寺一条院方の衆徒でありましたが、衆徒の中でも「官符衆徒(かんぷしゅと)」といって、棟梁として衆徒を取り締まる立場にありました。

衆徒とは、いわば僧兵のこと。僧侶でありながら武士でもあるという身分です。しかし戦乱の世においては、筒井家は衆徒といっても興福寺とは離れた「有力国衆」の立場にありました。順慶はそのような背景のもと、武将として戦いの生涯を送ることとなります。

順慶の波乱の人生は、父・順昭の死去によって幕を開けます。

順昭は順慶が生まれた年から病を理由に比叡山に隠居していましたが、順慶2歳となる翌年には病没してしまいます。その後は筒井家の嫡子であった順慶が家督を継ぐことになりましたが、順慶はまだ乳飲み子にすぎません。順慶が成長するまでは叔父である筒井順政が筒井家の政務にあたり、大和における地位を守りました。

元の木阿弥

ところで、皆さんは「元の木阿弥」という言葉をご存知でしょうか。元の木阿弥とは、一度はよくなった状態のものが、また元の状態に戻ってしまうことをいいます。この言葉のルーツはなんと、順慶の父・順昭にあります。

順昭は自分が死んだ後も、しばらくはその死を伏せるように遺言していました。幼い順慶が家督を継いだことを知られることで、周囲に付け込まれるのを恐れたためです。そこで、順昭と声がよく似た木阿弥(もくあみ)という僧侶を寝所に寝かせ、影武者として周囲を欺いた、と言われています。

やがて順慶が成長し、順昭の死が報じられると、木阿弥はお役御免となって元の身分に戻されたといいます。わずかな期間とはいえ、大名のような生活を送ることができた木阿弥を幸運とみるか、その幸運が去っていったことを不幸とみるかは意見が分かれるところですね。

宿敵・松永 久秀との長きにわたる戦い

話を元に戻します。新体制としてスタートを切った筒井家は、しばらくは大和国での勢力を保っていたとみられますが、永禄2年(1559年)三好長慶の重臣であった久秀が大和国へ侵攻を始めると、筒井家は次第に厳しい状況に立たされます。

永禄7年(1564年)、順慶15歳の時に叔父・順政が死去。ここで順慶の宿敵となる松永久秀が登場します。彼は順政の死を知るや否や、筒井城に攻め込んできたのです。松永久秀といえば、戦国三大梟雄の一人に数えられるほどのアクの強い人物。かなり手ごわい相手です。しかし、ここからが長きにわたる久秀との戦いの始まり。その歴戦をご紹介します。

筒井城の戦い(久秀勝利)

永禄8年(1565年)8月、永禄の変において久秀と三好三人衆が13代将軍・足利義輝を暗殺すると、やがて三好家の実権をめぐって久秀と三好三人衆が対立するようになりました。

そこで順慶は、三好三人衆と手を結び、大和での勢力回復を狙いましたが、筒井順政の死を知った久秀が同年11月に筒井城を奇襲。三人衆からの援軍が間に合わず、順慶は一族の布施氏を頼って、布施城に落ち延びます。

筒井城の戦い(順慶勝利)

永禄9年(1566年)6月、高屋城の戦いで久秀が三好義継・三好三人衆に敗れて逃亡。この隙をついて、順慶が筒井城を奪還します。この時に順慶は得度して、幼名の藤勝丸から「陽舜房順慶」へと改名しています。

東大寺の戦い(久秀勝利)

永禄10年(1567年)、三好三人衆と対立を始めるた三好義継は久秀に保護を求めます。久秀は義継を擁して多聞城へ移りますが、三人衆と池田勝正、順慶らに多聞城を取り囲まれてしまいます。

三人衆らは東大寺に陣を移しておよそ6か月もの間久秀に圧力をかけ続けますが、10月になって突如久秀が夜襲に打って出ます。これによって東大寺の伽藍は焼失、三好三人衆勢は総崩れに。順慶も筒井城まで引き返すことに。

筒井城の戦い(久秀勝利)

永禄11年(1568年)織田信長が15代将軍足利義昭を擁立して上洛を果たすと、三好三人衆は京から追い出されます。

一方、久秀は信長に臣従し、信長と将軍権力という強力な後ろ盾を得ることに。勢いづいた久秀は筒井城下に火をかけ、筒井城に総攻撃をしかけます。順慶はそれまで筒井家方にあった郡山衆が離反して久秀勢の先陣を務めている状況から不利を悟り、叔父のいる大和福住城に落ち延びます。

福住城の戦い(順慶勝利)

福住氏にかくまわれていた順慶は、久秀を打つ機会をうかがっていましたが、元亀元年(1570年)6月には久秀が子の久道を伴って福住城に攻め込んできました。しかし、福住城主の福住宗長が久秀を撃退。順慶を守り抜きました。

辰市城の戦い(順慶勝利)

将軍・義昭と中央で実権を握った信長は次第に関係が悪化。義昭は水面下で信長に対抗するための勢力を集めるようになります。そこで義昭に目をつけられたのが順慶でした。義昭は九条家の娘を養女として順慶に嫁がせるなどして順慶に接近。これに勢いを得た順慶は義昭の支援を得て元亀2年(1571年)7月、久秀攻略の拠点ともなる辰市城を築城します。

翌8月、久秀は三好義継らとともに辰市城を攻撃しますが、順慶はこれに応戦。この戦では久秀に反発する国衆が順慶の味方をしたため、久秀は主要な戦力が500人以上が討ち死にする大敗を喫しました。順慶は22歳にして無事に筒井城を奪還することができたのです。

筒井城をめぐって幾度となく戦いを繰り返した順慶と久秀でしたが、最終的には筒井城は順慶の手に。筒井城を奪還によって拠点である信貴山城と多聞山城をつなぐ経路が分断された久秀は次第に形勢が不利に傾いていきます。

人望厚き順慶、住民から愛される

筒井城を取り戻すきっかけとなった辰市城の戦いですが、この戦の場となった辰市城の築城には、地元の領民がこぞって協力したと言われています。順慶は領地の農民を手厚く保護してきたことから、今こそ恩に報いんと領民を力を貸したのでしょう。

また、順慶は武将でありながら僧でもあったため、仏教への信仰が篤く、大和の寺院にも手厚い保護を行っていたともいわれています。そのため大和の僧侶たちは、長きにわたる順慶と久秀の戦いの間、ずっと順慶を支持していました。強敵相手に何度も苦戦を強いられた順慶にとっては非常に心強かったに違いありません。

のちに、順慶が大和全般を支配するのではないかとのうわさが立った時には、興福寺の多門院英俊は「事実においては寺社大慶、上下安全、もっとも珍重々々」と日記に記すほどの喜びを見せています。自身の領民たちを大切にしてきたその行いが、厚い人望となって自分のもとに帰ってくる…、まさに仏教でいう因果応報、ですね。

明智 光秀の斡旋で信長のもとへ

順慶は筒井状の奪還後、明智光秀の斡旋で織田信長に仕えるようになります。

光秀は土岐氏という名門貴族の出身といわれており、和歌や茶の湯にも通じる教養人でもありました。光秀は自身と同じように茶の湯、謡曲、和歌などの文化面に秀でた順慶に好感を持ち、信長に推薦したのではないかと考えられています。

信長と将軍・義昭の対立が次第に強まる中、順慶は信長へ使える道を選択しましたが、一方で順慶の宿敵である久秀は元亀3年(1572年)に信長から離反して義昭につきました。

この選択はやがて、二人の明暗を分けることになります。

元亀4年(1573年)4月に反織田勢力の中心であった武田信玄が病没すると、7月に将軍義昭は追放。11月には将軍をかくまった三好義継が打ち取られます。さらに信長は順慶らに久秀が籠る多聞城の攻撃を命じます。久秀は城を明け渡して降伏するほかありませんでした。久秀は孫を人質に出すことで助命され、再び信長の傘下へ下りました。しかし、もはや久秀にかつての勢いはありません。

このような経緯があったとはいえ、長年の宿敵同士だった順慶と久秀が同じ主君に仕えることになったのですから、運命とは不思議なものです。

信長家臣として活躍、やがて大和国支配者へ

順慶はその後、信長の家臣として多くの戦に参戦、織田家の中でも一目置かれる存在となっていきます。 順慶が信長軍として参戦した戦いには以下のようなものがあります。

  • 天正3年(1575年)孝子峠の戦い、越前一向一揆
  • 天正5年(1577年)平井城の戦い、雑賀攻め、信貴山城の戦い
  • 天正6年(1578年)播磨攻め
  • 天正7年(1579年)有岡城の戦い
  • 天正9年(1581年)比治山砦の戦い、柏原城の戦い

まさに戦いの中に身を置くような毎日ですが、戦の中での活躍ぶりを得て、信長も順慶を信頼に足る人物として重用していくようになったのでしょう。やがて順慶は信長の姉妹を娶り、一門衆に名を連ねるほどになりました。

大和国の守護に抜擢!

天正3年(1575年)3月、信長は塙直政(ばんなおまさ)に大和の守護を命令。これによって大和国における順慶の支配力は大きく制限されることになりました。

天正4年(1576年)に興福寺で行われた薪能において、この直政は順慶と久秀の子・久道を左右に従え、大和国の平定を周囲にアピールします。しかし、直政は同年の天王寺の戦いにおいて討ち死にしてしまいます。

ここで順慶にチャンスが到来。順慶は直政に代わって、大和の守護に任じられたのです。

天正5年(1577年)には長年の宿敵であった久秀が再び信長に背き、信貴山城の戦いで自害。大和での支配力をさらに強めます。天正8年(1580年)に織田家中で佐久間信盛が失脚すると、大和全域の支配は完全に順慶が担うようになったのです。

とはいえ、軍事面においては幾内方面軍の司令官であった明智光秀の配下にありました。順慶は外様(とざま)であり、まだ若年でもあったことから方面軍を任されるほどの立場にはなく、与力にとどまっていたようです。

本能寺の変直後は「日和見」作戦

天正10年(1582年)、本能寺の変が勃発、順慶の主君・信長は、光秀によって自害に追い込まれてしまいました。

光秀が主君に背いた理由には諸説ありますが、謀反に当たっては衝動的にことを起こしてしまったとみられており、変後の具体的な計画を練ってはいなかったようです。そのため、周囲の武将たちからもそっぽを向かれてしまい、孤立を深めます。

光秀と縁戚関係にあり、文化的な交流もあった順慶は、本能寺の変後に光秀から味方になるように誘われています。しかし、順慶は家臣たちと評定を重ね、すぐには返事をしませんでした。

光秀は洞が峠に布陣したまま順慶の返事を待ちましたが、順慶からは返事がありません。この時の順慶を「日和見」に徹したとして、日和見のことを「洞が峠」ともいうようになりました。

実際は洞ヶ峠にいたのは光秀であって、順慶ではないのですが…、いつの間にやら順慶が洞ヶ峠で光秀と秀吉の戦の成り行きを見守っていたというような話にすり替わってしまったようです。そのせいで、順慶は「優柔不断な日和見者」というイメージが付きまとうようになってしまったのは気の毒な話です。

その後ほどなくして、中国方面にいた羽柴秀吉が「中国大返し」で畿内に戻り、山崎の戦で光秀を打ち破ったことは周知の事実。順慶がもし情に流されて光秀の誘いに乗っていたら、順慶の運命もまたしかり、です。ここは静観を決め込んだ順慶の作戦勝ちでした。

順慶の最期

山崎の戦いの直後、秀吉に謁見した順慶でしたが、『多門院日記』によると、秀吉は順慶の遅参を叱責。これがかなりのストレスとなってしまったのか、順慶は胃の痛みによって体調を崩してしまったようです。この噂は大和一円に広がり、人々を焦燥させたといいます。しかし、その後順慶は秀吉の家臣となり、大和国の所領も安堵されました。

順慶は天正12年(1584年)頃から体調を崩して床に伏していたようですが、同年の小牧・長久手の戦いに秀吉から出陣を要請され、病気をおして出陣しています。しかし、これが負担となったのか、戦を終えて大和に戻った後に病没。享年36歳でした。

まとめ

順慶の死後は、養嗣子である定次が家督を継ぐことになりました。定次は本能寺の変後は秀吉の家臣となっており、秀吉のもとで主要な合戦に参戦しています。

天正13年(1585年)の国替えでは、代々の所領であった大和国から伊賀国上野に移封。

関ヶ原合戦では東軍に属し、戦後は徳川家康から所領を安堵されましたが、慶長13年(1608年)にはお家騒動をきっかけに幕命により筒井氏は改易に。改易後は鳥居忠政のもとに預けられていた定次ですが、大阪冬の陣の際に、豊臣家へ内通していたとの疑いで嫡男順定とともに自害を命じられました。

世間では、筒井順慶=「日和見」という不名誉なイメージの強い武将ではありますが、かの松永久秀を敵に回して一歩も引かず、その粘り強さで勝利を収めた姿からは、一国の主にふさわしい気概のある武将であったことが想像されます。

でも、無理がたたったのか、ストレスが原因と考えられる胃痛に悩まされ、それによって命を落としたのもまた事実。筒井家を守るために矜持を保ち続けていた順慶ですが、実は優しく繊細なタイプだったのかもしれないですね。

いずれにしても、36歳という若さで生涯を閉じてしまったのは残念なことです。


【主な参考文献】
  • 谷口克広『信長軍の司令官 -部将たちの出世競争』(中公新書、2005年)
  • 谷口克広『信長と消えた家臣たち -失脚・粛清・謀反』(中公新書、2007年)
  • 小和田泰経『戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い』(新紀元社、2010年)
  • 和田裕弘『織田信長の家臣団 -派閥と人間関係』(中公新書、2017年)




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