本能寺の変「四国説」~背景に長宗我部元親との関連が!?

四国説というのは、長宗我部元親と関係の深い光秀が、信長の四国征伐を回避するために信長を討ったというものである。1575年以降、長宗我部元親と信長は友好関係にあり、『元親記』によると、元親は信長から「四国は切り取り次第(=自力で土地を奪い取る)、所領として良い」という内容の朱印状までもらったとされている。

1580年頃には光秀が元親と信長の交渉窓口であったとされているが、翌1581年に状況は一変する。三好氏を巡る処遇の変化によって、「切り取り次第」という方針は撤回され、元親に阿波の占領地半分を返還するよう迫ったのである。

元親はこれを不服とした。朱印状の件が史実ならば当然である。これをきっかけとして、信長は四国征伐を考えるようになったとされる。そして、このことが光秀を謀反に駆り立てたという。さて、史料が語る事の真相はどのようなものなのであろうか。

なぜ「切り取り次第」が反故にされたのか

冒頭にも書いた信長の「切り取り次第」の反古についてだが、なぜ信長は元親と対立するとわかっていながらこのような行動に出たのだろうか。様々な文献にあたると、どうやら毛利征伐を巡る状況の変化が関係しているようである。

この当時、信長の頭の中では毛利征伐が最優先事項であった。中国地方の覇者である毛利氏を支配下に治めれば、九州地方の大名の中にも信長に従うものが出てくることは容易に想像できる。

当初敵対していた毛利氏や河内の三好康長を攻める都合上、信長お得意の遠交近攻策で四国の長宗我部氏に近づいたということであるらしい。その際、信長は元親の嫡男である弥三郎(のちの信親)の烏帽子親となるなど、その関係は浅からぬものであったと思われる。

長宗我部元親の肖像画
信長と友好関係を築くも、のちに一転して睨まれることになる長宗我部元親

三好康長が信長に重用されはじめ…

一方、三好康長と信長は敵対関係にあった。

三好と言えば「三好三人衆」が有名であるが、康長は三人衆が壊滅状態になった後も畿内で頑強に信長に抵抗し続けたという。しかし、天正3(1575)年に信長に攻め込まれた康長は4月8日についに降伏する。同年7月には、京都の相国寺で信長と面会して赦され、そののち名物の三日月茶壺を献上している。

注目したいのは三日月の献上後から、康長が信長に重用されるようになったという点である。実は康長は茶人としても有名で、津田宗及等の茶会に度々出席していたことが知られている。

そして、彼が信長に降伏する際に仲介を依頼したのが、堺の代官であった松井友閑(まつい ゆうかん)である。有閑も康長同様に茶人であり、津田宗及とも親交が深かった。信長は康長を武将として見込んだということもあるだろうが、「御茶湯御政道」に欠かせぬ人物と判断したのではないだろうか。

信長の茶道と言えば茶道具の名物狩りが有名だが、彼は茶の湯好きが高じて目物をあさるようになったわけではない。度重なる戦と天下統一事業の進捗によって、皮肉なことに家臣たちへ論功行賞で与える領地や権益が激減していた。そこで、茶道具を買い集めることによって、値を釣り上げて政治交渉や論功行賞に使おうとしたというのが実状であるらしい。

長宗我部元親も信長に砂糖三千斤を献上していて、実は信長は甘党であったから、この贈り物を喜んだのかもしれないが、贈り物だけを見ると三好康長に軍配が上がるように思われる。その後、康長は三好氏発祥の地と言われる阿波を中心に活動するようになる。この時点で元親と康長の利害が交錯し始める。

元親は天正3(1575)年に土佐を平定すると、信長に使者を送り、嫡男弥三郎の烏帽子親引き受けてもらったことは前述したが、『元親記』によれば、この際、例の「四国は切り取り次第所領にしてよい」という朱印状を得たとされる。

後ろ盾を得た(と思った)元親は三好氏の本拠地・阿波国にも侵攻し始める。天正8(1580)年6月、元親は香宗我部親泰を使者として安土に送り、阿波岩倉城の三好康俊を調略したことを信長に報告した。さらに、康俊の父・三好康長が元親と反目しないようとりなしをお願いし、いずれも了解を得ている。この件の交渉役は光秀であった。

その後、元親は康長の本領である阿波美馬と三好の2郡を奪うと、康長は黙っておれずに、天正9(1581)年、信長に「切り取り次第の」撤回を懇願するに至ったのである。

通常ならば、この懇願は受け入れられないはずであった。ところが、なんと信長は元親に対し、「長宗我部は土佐1国と南阿波2郡以外は返上せよ」という内容の新たな朱印状を出してきたのである。

信長としては長宗我部と三好という臣従している大名の調停というつもりだったのだろうが、舌の根も乾かぬうちの方向転換に元親が疑心暗鬼になったのは疑いない。これには外交感覚に優れた名君である元親も激怒し、この方針転換を拒んだという。

この急な方針転換はなぜ起こったのであろうか。どうも裏には羽柴秀吉が絡んでいるようなのである。

豊臣秀吉のイラスト
当時、中国方面軍の指揮官として、毛利氏と戦っていた秀吉。

この時期、康長は秀吉に急接近してその支援を取り付けているのであるが、秀吉の目論見は毛利攻めのために、三好配下の淡路水軍を味方につけることであったと思われる。そして、茶人としても有能である康長を信長の「御茶湯御政道」に欠かせない人物と判断した可能性が高い。

この2点をもって、信長に働きかけたと考えると急な方針転換の説明がつくのではないか。

光秀と長宗我部の深いつながりとは?

さて、今回の四国説であるが、そもそも光秀と長宗我部とは一体どのような関係にあったのだろうか。

光秀と石谷頼辰の関係

光秀の重臣・斎藤利三の実兄に石谷頼辰(いしがい よりとき)という人物がいる。苗字が石谷なのは母親の再婚相手が石谷光政であり、その養子になったからである。斎藤氏も石谷氏も土岐源氏であるから、光秀・利三・光政・頼辰はみな土岐氏の一族だということになる。

長宗我部氏と石谷・斎藤のつながり

石谷頼辰は当初は室町幕府の奉公衆であったが、将軍足利義昭が信長によって京都から追われて以降、光秀に仕えるようになったという。義父の光政は長宗我部元親に仕え、次女を元親の正室として娶らせている。つまり、元親の嫡男信親には土岐氏の血が流れているということになる。

土岐氏について調べてみると、鎌倉・室町両幕府において、有力な地位を占めていた時期があることがわかる。つまり、土岐氏は今川氏にも匹敵する名家であったわけである。

光秀には名門土岐源氏であるという秘めたる誇りのようなものを感じるときがあるが、この系譜を知ってしまうと、それも無理からぬことであると思ってしまうのである。土岐氏の置かれていた立場から、光秀は幕府という機構にある種の理想形を見出だしていたのかもしれない。そして、自分も「征夷大将軍有資格者」であるという自負が心の片隅にあったであろう。

この状況を考えると、四国征伐の命が下されたときの光秀の焦りが痛いほどわかるのである。

斎藤利三と長宗我部元親の関係

斎藤利三にとって、事態はより深刻であった。何せ、実兄である石谷頼辰の義父・石谷光政は長宗我部元親に仕えていたし、光政の次女は元親の正室となっているのである。

正室との間には嫡男信親をもうけているので、長宗我部は土岐氏の血筋を受け継ぐ大名となっていたことになる。ひょっとすると、利三には土岐氏の権勢を復活させようとする目論見があったのかもしれない。そのため、一族を増やすという狙いから、土岐氏の血をプールしていたとは考えられないだろうか。

そう考えると、「切り取り次第」の撤回を不服とし、四国征伐という事態になりつつある状況を何としても回避したいと考えるのは当然であると言える。

石谷家文書が示す元親の妥協

土岐一族とタッグを組む形となっていた長宗我部氏の存亡は明智光秀、斎藤利三、石谷光政・頼辰父子にとって火急の問題となった。この四名が元親の説得に奔走するのは当然と言えば当然である。

『元親記』によると、光秀の命を受けた頼辰が元親を説得するべく四国へ向かうが、元親は拒絶したという。

同様の記述が『南海通記』にも見られる。2014年6月23日、林原美術館・岡山県立博物館は、この記述を裏付ける書状が発見されたと発表。いわゆる「石谷家文書」の天正10(1582)年正月11日付けの石谷光政に宛てた斎藤利三の書状である。

ところが、正月の時点で信長の方針転換を拒絶していた元親が、5月には一転して信長の命に従うと述べているのである。同じく「石谷家文書」で同年5月21日付けの斎藤利三に宛てた長宗我部元親の書状である。

この書状には主に以下のことが記されている。

  • 海部・大西城は土佐国の入り口にあたる場所だからこのまま所持させてほしい
  • 甲州征伐から信長が帰陣したら指示に従いたい
  • 何事も頼辰へ相談すること

全面的な譲歩を選択した元親であるが、この情報が信長の耳に入ったのかどうか定かではない。ただ、信長は3か月前にあたる同年2月の時点で四国征伐を命じており、5月7日には三男の信孝に四国征伐の朱印状を出している。このことを考えると、情報の伝達が間に合わなかった可能性が高いと思われる。これに関して興味深い記述が『元親記』に見られる。

「天正十年五月に阿波勝瑞城に下着、先ず一ノ宮、夷山へ攻撃をかけ、長宗我部の手から、この両城を奪い返した。信孝殿は、すでに岸和田まで出陣していたという。斎藤内蔵介は四国のことを気づかってか、明智謀反の戦いを差し急いだ」
泉淳現代語訳『元親記』

利三が長宗我部のために光秀とともに本能寺の変を起こしたという記述である。この記述がもし正しいのならば、元親が利三に書状を出した時点で、すでに謀反に向けて動き出していたということになる。

あとがき

『本能寺の変 431年目の真実』の著者である明智憲三郎氏は自身のブログの中で、二次史料として信憑性が疑われている『元親記』であるが、「石谷家文書」の内容から、その評価を再考すべきであるという意見を述べられている。私もその意見に賛同する1人である。

それにしても、本能寺の変の背景を調べていると、そこに秀吉の影を感ずる時が往々にしてあるのはどうしてなのだろう。今回の四国説にしても、三好を味方につけることは合理的な戦略ではあるのだが、それによって光秀が窮地に立たされることはわかっていたはずである。

ひょっとすると、心の片隅で「これで俺が出世頭になれる…」とほくそ笑んでいたのではないかと勘ぐってしまうのは私だけだろうか。


【参考文献】
  • 小和田哲男『明智光秀 つくられた謀反人』PHP研究所、1998年。
  • 小和田哲男『明智光秀と本能寺の変』PHP研究所、2014年。
  • 藤田達生 『謎とき本能寺の変』講談社、2003年。
  • 谷口克広『検証 本能寺の変』吉川弘文館、2007年。
  • 明智憲三郎『本能寺の変 431年目の真実』文芸社文庫、2013年。

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  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

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