「高梨内記」幸村の傅役。大河真田丸では中原丈雄さん演じた「きり」の父。

高梨内記のイラスト
高梨内記のイラスト
 2016年の大河ドラマ『真田丸』でたびたび登場した、中原丈雄さん演じる高梨内記(たかなし ないき)。幸村の父・真田昌幸の片腕として、また、幸村の傅役として、大いに存在感を発揮したから結構有名な武将かと思った人も多いことでしょう。しかし実のところ、史料ではほとんど記録にない人物なのです。

 今回は大河ドラマで一躍有名になったものの、謎だらけの幸村の傅役、高梨内記について見ていきましょう。

真田家との縁は?

 「内記」とは官位の一種であり、正式な名前ではありません。あくまで通称ではあるのですが、実名はわかっていません。北信濃の豪族である高梨政頼の子供か、あるいは子孫といわれていますが、そこからして信憑性が薄いといいます。

 真田家に仕えるようになった理由も高梨政頼の娘、あるいは妹が真田昌幸の兄で知られる真田信綱に嫁いだ縁であったそうですが、こちらも信憑性が薄いです。

 さて、ここら辺からすでに実体が掴めなくなってきましたね。前半生はこんな感じで謎に包まれ過ぎている内記ですが、天正13年(1585)に徳川軍と戦った第一次上田合戦で戦功を上げるなど活躍もあったようです。

最期まで幸村に忠節を尽くす

 内記の活躍は、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦での敗戦あたりから徐々に存在感が現れてきます。

 東軍の徳川家康方に従った真田幸村の兄・信之と、西軍の石田三成方に従った昌幸・幸村父子。第二次上田城の戦いでは徳川秀忠軍を相手に善戦していた昌幸・幸村父子ですが、関ケ原決戦では石田三成が敗れてしまったため、最終的に降伏して高野山追放という憂き目にあいます。このとき、内記をはじめ、西軍に加担した真田家臣らも昌幸・幸村父子に付き従いました。

 時は流れ、慶長8年(1603)には江戸幕府が開かれて徳川の世がはじまります。一方で昌幸は家康にずっと許されることないまま九度山蟄居生活を強いられ、やがて体調をくずし、慶長16年(1611)に病没。これをきっかけに真田家臣の多くが残った幸村の下を離れ、信之の下で召抱えられることになったといいます。

 しかし内記は信之の下には行かずに、その後も幸村に従って九度山に残ったようです。とても忠義に厚く、確固たる信念を持った内記の人物像がうかがえますね。

 やがて家康に叛旗を翻すために、豊臣秀頼より大坂城に誘われた幸村。内記もこれに従って大坂城に入ると、まもなくして大坂冬の陣(1614)が勃発。内記は最期、翌年の大坂夏の陣(1615)で、幸村が討ち取られたのと同様に討死したそうです。

 大河『真田丸』では、大坂城内にて幸村の子・大助を秀頼の元に向かわせるため、盾となって敵を防ぐも多勢に無勢、死の間際に懐から亡き主君・昌幸の位牌を取り出すシーンがありました。フィクションといえど、内記の最期には相応しかったように感じます。

内記の娘、真田丸の「きり」は史実と違う?

 ところで内記には2人の子がいたようです。嫡男の采女は幸村の乳兄弟とされています。また、真田丸では「きり」と呼ばれ、長澤まさみさんが演じていましたように、娘もいました。

 大河ドラマとは異なり、この内記の娘が後年に幸村の側室になったと伝わっています。幸村と彼女との間には三女阿梅、四女あぐりという二人の娘が生まれました。

真田幸村(信繁)の妻子の略系図
※参考:真田幸村(信繁)の妻子の略系図

 なお、阿梅は内記の娘の子ではなく、幸村正室・竹林院(大谷吉継の娘)との間の子とも言われていますが、定かではありません。この阿梅が大坂城落城の際、仙台の伊達政宗の家臣・片倉重長(片倉小十郎景綱の嫡子)に気に入られ、側室とされています。

 内記の娘は幸村と父に従って大坂城に入り、徳川軍と戦って討死したといいます。真田丸では幸村と結婚もせず子も作らなかった「きり」でしたが、幸村の生涯のパートナーというところは共通しており、親子で幸村に尽くした痕跡が確認できるのです。




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  この記事を書いた人
趙襄子 さん

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