丁寧に歴史を追求した "本格派" 戦国Webマガジン
  • 武田信玄
 2019/07/25

「馬場信春(信房)」"不死身の馬場美濃"と評された猛将

馬場信春の肖像画

戦場においても築城においても武田信玄に信頼されていた馬場美濃守信春。

最強の戦国大名として名を轟かせた信玄には、有能な家臣が多く揃っていました。信玄を含めて描かれた「武田二十四将」の武者絵は有名です。その中でも「名人」の尊称で呼ばれ、数々の伝説を残しているのが「馬場美濃守信春」です。

はたして信春はどのような傑出した活躍をしたのでしょうか。今回は「四宿老」のひとりにも数えられる馬場美濃守信春についてお伝えしていきます。
(文=ろひもと理穂)

信春の出自

土豪教来石氏の出身で馬場氏の名跡を継ぐ

信春は馬場信房の名前でも知られていますが、高野山桜池院より発見された書状の写しから、馬場民部少輔信春の署名が確認されており、現在の正式名は馬場信春です。

馬場氏は甲斐国守護大名である武田氏の譜代です。しかし信春は馬場氏の出自ではありません。生まれは甲斐国教来石の土豪で、武川衆と呼ばれている教来石氏です。

『甲陽軍艦』によると、17歳の頃に武田信虎に従って初陣を果たし、25歳の頃に信虎の後継者である信玄に抜擢されたといいます。天文15年(1546年)には侍大将として50騎を率いるようになりました。天文18年(1549年)には駒井高白斎が馬場民部少輔信春の奏者となったと記されていますので、この時期までに馬場氏の名跡を継いだと考えられます。

深志城や牧之島城の城代として信濃国制圧に貢献

天文19年(1550年)には信濃国の小笠原氏の拠点である林城を武田勢が攻略。筑摩郡、安曇郡の支配に向けて林城の支城であった深志城(のちの松本城)を修築し、その城代として信春が任じられています。

信春が守備した深志城ほか、甲斐武田氏の支配した城など

信春は、平瀬城の原虎胤と協力して筑摩郡、安曇郡を防衛しました。天文22年(1553年)には、武田勢は村上氏の拠点である葛尾城も攻略しましたが、宿敵・村上義清を越後国に追い出す戦いには信春も参加しています。

その後、信玄は越後国の上杉謙信と激闘を続けていきますが、信春は永禄2年(1559年)には美濃守を称し、永禄5年(1562年)には牧之島城を自ら築城し、こちらに移って城主を務めました。 海津城の春日虎綱と共に謙信を監視する役目を担っています。川中島の戦いでの戦功もあり、この時期には120騎を率いるまでに昇進しました。

信春の二人の師匠とは?

城取(築城術)の奥義は山本勘助から教授される

信春には数々の伝説がありますが、そのひとつが、武田軍の軍師であった山本勘助から城取を学んだというものです。

山本勘助の肖像画
信春に築城術を伝えたという「山本勘助」

これは信玄の指示だったようで、勘助から城取の奥義を伝授された信春は、勘助の死後、占領地の築城を一手に任されています。信春が築城を担当したのは、信濃国の牧之島城の他、駿河国の田中城や清水城、遠江国の諏訪原城や小山城などが伝わっています。

信玄の築城への要求はかなりの難題で、少数の軍勢に攻略されることが絶対になく、大軍相手でも少数で防衛でき、仮に攻略されても改めて攻めた際には奪取しやすい城を築くように命じられていました。勘助から信春に伝授された城取の奥義はそれほど高等なものだったのでしょう。

ちなみに永禄4年(1561年)第四次川中島戦いの際には、師である勘助と共に「啄木鳥戦法」を信玄に進言しています。勘助はこの時に策を謙信に看破され、信玄を守るために上杉勢と戦い戦死しました。

戦場の駆け引きを小幡虎盛から教授される

信春の師匠はもうひとりおり、それが小幡虎盛です。虎盛は戦場での駆け引きや部隊の指揮について信春に指導しています。信春はこの虎盛を尊敬しており、旗指物として黒御幣を用いることを要望してもらい受け、黒山道とふたつの旗指物を使用していたようです。

信春はこの教えのおかげで、生涯で21度の戦功をあげ、感状を21通も受けています。さらに全軍を通じて最も突出した武功を9度もあげたというのです。

小山田信有から戦場でのコツを訪ねられた際には、敵陣に深入りした際には冷静な部隊と連携して脱出を試み、さらにその殿を務めることと、味方の旗指物が前に傾いている際にはこちらに勢いがあるので戦うことを控え、旗指物が後ろに反ったら勢いが衰えた証拠なので、ここで懸命に戦えば戦功をあげることは簡単だ、と答えています。

この兵法の奥義は信春配下の組頭である早川弥三左衛門幸豊に伝授され、さらに小幡景憲に伝わりました。

信春の活躍と伝説

押し太鼓の「九字」を開発

信春はただ教わるだけではなく、独自に「押し太鼓」や「鬨の声(= 士気を鼓舞するために、多数の人が一緒に叫ぶ声のこと)」などを改良しています。信玄はこの信春の作法を気に入り、広く用いています。

押し太鼓の役割は、戦場において前進や停止を全軍に伝えるものです。
信春は前進の「寄せ」の他、隊列を正す「序」を3種類に分け、部隊を急いで移動させる「急」を2種類に分け、敵を攻撃する「破」を3種類に分けて、合計で9つの伝令を伝えられるように工夫したのです。これは護身の秘呪である臨兵闘者皆陣列在前の「九字」と同じ名で呼ばれ、いかなる強敵でも打ち破ることができると信じられていました。

実際に発案者の信春がこれだけの戦功をあげているのですから、さぞかし説得力があったことでしょう。これにより武田勢は進軍や突撃、方向転換など様々な行動を速やかに実行に移すことができるようになったのです。

長篠の合戦で戦死するまで一カ所の手傷も負っていない

信春は信玄の西上作戦が始まる前から敵領の情報収集を細かく行っており、徳川家康が制圧した遠江国についてもすでに絵図を完成させていました。ただし、天竜川の浅瀬の場所だけがはっきりしなかったため、実際に遠江国へ侵攻した際に徳川勢の動きを見て、浅瀬の場所を確認したと伝わっています。

用意周到に準備してから敵と戦うことを常にしていた信玄にとって、最も頼りになったのがこの信春だったのではないでしょうか。三方原合戦で徳川家康と対峙した信玄は、明らかに味方有利な情勢であるにも関わらず警戒していましたが、信春が家康の「鶴翼の陣」を確認し、必ず勝てると太鼓判を押したために信玄は突撃の指示を決断したともいいます。

また、信春が名人と尊称されたのは、戦上手なだけなく、信玄の戦のほとんどに参加しているにもかかわらず、戦場で一カ所も傷を負ったことがないということです。これは信春が武勇に優れていただけではなく、それだけ戦の機微を読む力があったということでしょう。

そんな信春も天正3年(1575年)長篠の戦いで討死しています。信玄の後継者である勝頼には、合戦前に決戦の無謀さを説いたものの、受け入れられなかったようです。信春の心配は的中し、武田勢は織田・徳川連合軍の前に大敗を喫することになりますが、そんな中でも信春は佐久間信盛を敗走させる働きを見せています。

馬場美濃守の最期を描いた『新撰太閤記』(歌川豊宣 画)
馬場美濃守の最期を描いた『新撰太閤記』(歌川豊宣 画)

さらに主君である勝頼を信濃国に逃がすため、信春は殿を務め、追撃してくる敵を苦しめました。信春自身は最期まで傷を負うことはなかったものの信春の部隊は壊滅。信春は切腹し、敵の川井三十郎に介錯させ、その首を与えたのです。この信春の奮戦を見て、織田勢は「馬場美濃守比類なし」と賞賛したといいます。

まとめ

信春のような有能な家臣がいたからこそ、信玄は最強の戦国大名だったといえるでしょう。織田や徳川から賞賛された信春は武士の憧れとなり、残された信春の娘を妻に迎えることは誉れだったようです。

信春の子孫は江戸幕府において旗本に取り立てられています。まさに敵も味方も認めさせるほどの才能あふれる英雄が、馬場美濃守信春だったのです。


【主な参考文献】
  • 磯貝正義『定本武田信玄』(新人物往来社、1977年)
  • 柴辻俊六『武田信玄合戦録』(角川学芸出版、2006年)
  • 平山優『武田信玄』(吉川弘文館、2006年)
  • 平山優『新編武田二十四将正伝』(武田神社、2009年)




おすすめの記事




 PAGE TOP