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  • 武田信玄
 2019/05/17

「山県昌景」あの家康も震えた!? "赤備え" を率いた武田重臣

山県昌景の武者絵(歌川国芳 作)

武田の家老として重きをなした兄・飯富虎昌の部隊「赤備え」を受け継いで、戦場では敵に恐れられたという山県昌景。 家康は昌景と交戦してその凄さを実感。武田滅亡後には井伊直政に昌景の「赤備え」部隊を引き継がせています。

本記事では、そんな昌景の生涯をお伝えしていきます。(文=戦ヒス編集部)

明らかでない出自・前半生

まずは昌景の出自について。彼は武田氏の譜代家老衆の家柄・飯富氏の出身であり、はじめは飯富源四郎と称したと伝わっています。先に触れたように兄は飯富虎昌です。しかし、彼ら兄弟の出自には異説も存在しています。

『甲陽軍艦』によれば、2人は元々は美濃国守護・土岐氏に仕えており、のちに浪人して甲斐国へやってきて武田信虎に仕えるようになったとか。つまり、飯富氏に養子入りした可能性も考えられるということです。

ちなみに二人とも生誕年ははっきりしておらず、昌景については前半生すらよくわかっていません。

兄・虎昌が宿老に

武田信虎時代、昌景の記録はありませんが、兄虎昌には記録があるので、ここで簡単に紹介します。

信虎に仕えていた虎昌は、享禄4年(1531年)に一度反発して背きますが、結局は戦いに敗れて降参し、再び武田氏に仕えています。

天文10年(1541年)、武田家中でクーデターが勃発。主君の信虎は追放され、嫡男の晴信(=のちの武田信玄)が家督を継承しました。虎昌は板垣信方甘利虎泰とともに宿老の1人としてクーデターに加担しています。

その後の虎昌は、信玄の嫡男・武田義信の後見人のような立場となるなど、宿老として重きを成すようになっていきます。

謀反人の兄よりも、信玄への忠義を貫く

信玄が当主になってからの武田家は、信濃国の侵略を次々と進めていきました。この頃、昌景は信玄に近侍し、信濃侵攻のときに初陣を果たしたとみられています。

やがて信玄の側近で若い家臣だけで構成された「御使番衆12人」の1人に選任され、天文21年(1552年)には騎馬150持の侍大将になったといいます。

その一方、弘治2年(1556年)には、水科修理亮に対して与えられた信濃善光寺との往来に関する諸役免許の朱印状奏者を務めるなど、奉行としての活動もみえるので、昌景は文武両道の武将だったようですね。

永禄4年(1561年)の川中島最大の激戦となった第四次川中島合戦では、信玄本隊の本隊の前衛を守備して、上杉勢と激しく戦ったようです。

義信事件

なお、永禄6年(1563年)頃には、三郎兵衛尉の官途を使用して名乗っていたのが確認されています。

信玄はかねてより今川・北条の両氏と三国同盟を締結していましたが、やがて今川氏が没落の一途をたどると、織田信長と誼を通じ、今川をつぶそうと考えるように…。しかし、嫡男・武田義信が今川義元の娘を正室としていたので、信玄と義信父子は次第に不和となっていきます。

そして永禄8年(1565年)、ついに義信と飯富虎昌らが信玄暗殺(または追放)のクーデターを計画。これは結果的に事前に計画が露呈し、虎昌らは処刑。義信も幽閉されて後継者としての地位を失います。(義信事件)

このときのクーデターの不穏な動きはすぐに目付役が察知。用心深い信玄は、躑躅ヶ崎館の御閑所(=トイレのこと)を改造して籠もり、3人の側近に身辺警護を命じましたが、その中の1人に昌景がいました。そして、義信から虎昌宛ての密書を入手した昌景は信玄に報告したというのです。

つまり、昌景は謀反人が兄だったにもかかわらず、それを信玄に報告してクーデターを未然に防いだのです。

赤備えの継承

事件後、信玄は ”謀反人が兄・虎昌であるから昌景は肩身が狭いだろう” として、昌景に譜代家老家の山県氏の名跡を継承させます。昌景は兄の部隊のうち50騎を引き継いだといい、ここに昌景の「赤備え」部隊が誕生します。

赤備え部隊のイメージ

永禄9年(1566年)には、山県の姓となっていることが確認できます。また、同年の西上野侵攻で、昌景の赤備え部隊は箕輪城攻めに参戦。やがて昌景隊は「赤備え」が最強部隊の代名詞となり、諸大名から畏怖されるようになっていきます。

内政・外交でも活躍

武人としての活躍が目立つ昌景ですが、実は内政・外交における文官としても多くの実績を残しています。

永禄10年(1567年)、甘利信忠の死後には「職」に任命され、裁判・検断権(警察の権利)を管掌したといいます。諸役免許や参陣命令、寺社支配など多くの活動に関与しています。

外交面では会津の蘆名氏や三河の徳川氏との同盟に尽力しました。永禄11年(1568年)に信玄は徳川家康と今川領の割譲の密約を結び、駿河今川領への侵攻を計画しますが、このときに家康との取次を担当したのも昌景なのです。

家康を畏怖させた昌景の赤備え

同年12月、信玄は駿河侵攻、ほぼ同時に家康も遠江侵攻を開始。信玄はわずか7日間で今川氏の本拠・駿府を占領しています。しかし、この後まもなく、「昌景のある行動」がきっかけで武田と徳川の同盟関係が破綻することに…。

駿河侵攻時の勢力相関図
駿河侵攻時の勢力相関図

昌景は信玄から駿河国の西方面の制圧を命じられていましたが、何故か大井川を超えて遠江国にまで侵攻。これに激怒した家康はを密約違反として信玄に抗議してきたのです。

しかし、その話し合いがもたれる時間もなく、昌景配下の将が苅田を行なっていた所に徳川兵が鉢合わせとなり、戦いに発展させてしまいます。このときの徳川兵は少数しかおらず、家康は昌景の隊に追いかけられて命からがら逃げて行ったといい、この結果、武田と徳川の同盟は決裂となります。

昌景は同盟破棄の原因を作ったことで処罰を覚悟していましたが、他の武田家臣からの赦免嘆願もあり、この一件はやむを得ないということで処罰を免れました。

それどころか徳川軍を敗戦させたことを評価され、永禄12年(1569年)に対徳川氏の指揮官として駿河支配の拠点・江尻城代に任じられ、昌景配下には精鋭が配属されたといいます。

なお、家康はこの一件で昌景のことが強烈に脳裏に焼きついたようであり、のちに武田遺臣を積極的に家臣団に組み入れ、井伊の赤備えにつながっていくのです。

三増峠・西上作戦

また、同年に行なわれた戦国最大規模の山岳戦・三増峠の戦いでは、はじめ戦局は武田方が劣勢であったが、昌景が別働隊として奇襲に出たことでその危機を救っています。

元亀3年(1572年)、武田軍による徳川領への大規模侵攻となった西上作戦が開始されると、昌景は秋山虎繁らと別働隊を率いて信濃から三河に侵攻し、11月には遠江国の二俣城を攻囲していた信玄本隊に合流します。

12月の三方ヶ原の戦いでは、昌景の軍勢が崩れかかったところ、武田勝頼に助けられたとか。一方で家康に猛攻を仕掛け、浜松城に逃げ帰った徳川軍を追跡したが、家康の空城の計に疑念をもち、その場を去ったといいます。

勝頼家臣時代と昌景の最期

元亀4年(1573年)4月、西上作戦の途上で信玄が病死。このとき昌景ら重臣たちは後継者の勝頼の補佐を託されます。

勝頼は父・信玄が行なってきたように勢力拡大路線を踏襲し、積極的に織田・徳川連合と交戦していきました。

信玄病没の翌天正2年(1574年)には、昌景が織田方の東美濃・明智城を攻略しています。 このとき、信長の4万もの軍勢が東美濃の山岳地帯まで攻め込んできますが、昌景は軍勢6千で迎撃し、織田の大軍を撃退して岐阜に追いやったといいます。

天正3年(1575年)に高野山成慶院に信玄の供養を依頼した際には、自ら使者として高野山に参加しています。

昌景は、馬場信春内藤昌秀高坂昌信とともに、信玄の壮年期以降の四宿老、いわゆる武田四天王の一人でした。しかし、勝頼時代には彼らよりも跡部勝資や長坂光堅らが重用されていったといいます。

事実、同年の長篠の戦いの直前、昌景は馬場や内藤らとともに、勝頼に撤退を進言していますが、受け入れられませんでした。昌景隊は武田軍の左翼を担当。1500の兵で6000余の徳川軍を相手に奮戦しています。

『長篠合戦図屏風』にみえる、討死した山県昌景の様子。
『長篠合戦図屏風』にみえる、討死した山県昌景の様子。

戦いの結果、武田軍が鉄砲を上手に活用した織田・徳川連合軍に大敗したことは有名ですね。昌景は徳川軍の鉄砲隊を前に大敗し、最期は馬上で銃弾を受けて討死。『甲陽軍鑑』によると、昌景の首級は、敵に奪われないように家臣の志村某が掻き取り、甲州に持ち帰ったと伝わっています。

上記の『長篠合戦図屏風』の右下のほうをよく見ると、首のない昌景の遺体と、昌景の首を持ち帰えろうとする様子がうかがえます。

勝頼に撤退を進言していただけに、無念であったことでしょう。ただ、昌景の赤備えが井伊直政、そして真田幸村にまで受け継がれていったことは、武人としてこの上ない名誉といえるかもしれませんね。


【主な参考文献】
  • 磯貝正義『定本武田信玄』(新人物往来社、1977年)
  • 平山優『武田信玄』(吉川弘文館、2006年)
  • 平山優『新編武田二十四将正伝』(武田神社、2009年)





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