「内藤昌秀(昌豊)」武田家中で副将格に評された闘将

 織田信長に怖れられ、徳川家康には尊敬されていたという甲斐国の戦国大名・武田信玄。信玄の家臣には才能豊かな武将が多く、江戸期には「武田二十四将」の武者絵が描かれています。その中のひとりで、四宿老にも数えられるのが、今回ご紹介する内藤昌秀(ないとう まさひで)です。

 長篠の戦いでは、敵本陣の徳川家康に最も近づくという果敢な突撃を見せています。はたして昌秀はどのような人物だったのでしょうか。


昌秀は名族・工藤氏の出身

名族の工藤氏とは

 昌秀は内藤昌豊の名前で有名ですが、確実な文書から「昌秀」が正しいことが判明していますので昌秀としてお伝えしていきます。昌秀が内藤氏を継いだのは亡くなる5年前からのことになりますので、実のところは生涯のほとんどを「工藤源左衛門尉」と名乗っています。

 工藤氏は藤原氏(藤原南家または藤原北家)の流れを汲み、平安末期に甲斐国に入部し、鎌倉期には甲斐源氏に属したという名族です。ただし、昌秀の父親とされる工藤下総守の代に甲斐国守護大名である武田信虎に背いて反乱を起こし、敗れて伊豆国韮山の北条早雲を頼ったとも伝わっています。『勝山記』に登場する工藤殿が、昌秀の父親ではないかと考えられているためです。

 一方で『甲陽軍艦』には、昌秀の父親か兄が信虎に諫言し、それが信虎の怒りを買うことになり、手打ちになったとも記されています。信虎の晩年には、武田氏の家督を継いだ武田勝頼と対面した際に、自分の刀を抜いて見せて、昌秀の兄を手打ちにしたことを伝えるシーンもあります。しかし昌秀に兄とされる工藤長門守は、武田氏滅亡後も徳川氏に仕えているので、真相は定かではありません。

信玄の側近として仕える

 昌秀についてはいつごろ生まれたのか、いつからどのように武田氏に仕えるようになったのかは不明です。一説には、信玄が信虎を甲斐国から追放した天文10年(1541)以降、帰参して信玄に側近として仕えたとされています。

 ただし、昌秀は信虎と信玄の二代に仕えた若い頃に、戦場で9つの首級をあげた活躍をしたものの、この程度の戦功では納得しなかったようで感状を一切貰わなかったとも伝わっていますので、昌秀は甲斐国に残って武田氏に仕えていた可能性もあります。

 史実での確実な登場は、工藤源左衛門尉の名前で信玄の側近として永禄2年(1559)に登場しています。信玄の戦いにはほとんど参加しており、永禄6年(1563)には信濃国深志城の守備のため城代を任されました。

 上杉謙信との戦いでは、第四次川中島の戦いにおいて妻女山を急襲する別働隊の大将を任されています。信玄の実弟である武田信繁と共に武田勢の副将格として存在感を発揮しているので、よほど信玄からの信頼が厚かったのでしょう。

西上野衆の統括役

三増峠の戦いでの昌秀の活躍ぶり

 その後も武田氏は上野国に侵攻して領土を拡大します。

 永禄9年(1566)には、箕輪城を攻略して西上野を制圧、昌秀は後閑氏の取り次ぎ役となり、西上野の国衆にも少しずつ影響を及ぼす存在となっていきました。

 そんな中、信玄は同盟関係にあった駿河国の今川氏と手を切り、信長や家康と結託して今川氏の領土に侵攻(駿河侵攻)。それに対して北条氏は今川氏を救うべく武田氏と手を切りました。永禄12年(1569)には、信玄は上野国から南下し、北条氏の拠点である相模国の小田原城を攻めます。昌秀は大手口の四門蓮池で大いに敵を討ったと記されています。

 しかし、上杉謙信も落とせなかった小田原城の守りは堅く、信玄も撤退を決断します。追撃を警戒した信玄は鎌倉へ進路を取るという情報を流して北条氏を攪乱しつつ、三増峠に布陣する北条氏照を撃破して甲府へ帰還する選択をしましたが、問題は速度の遅い小荷駄衆が追撃されて被害を受けることでした。ここで信玄は小荷駄奉行に昌秀を任じ、昌秀は見事にその期待に応えて小荷駄衆を守り抜いて撤退を成功させています。

西上野の要衝である箕輪城城代

 北条氏との戦いにおいて箕輪城城代を務めていた浅利信種が討ち死にしたため、元亀元年(1570)には昌秀が西上野の要衝である箕輪城城代に任じられます。

 さらに信玄は、譜代家老の家柄でありながら信虎に成敗されて断家となっていた内藤氏の名跡を昌秀に継がせました。ここに至り、内藤修理亮昌秀を名乗ることとなったのです。譜代家老として昌秀は250騎を率いていたと記されています。

 昌秀は西上野国衆の統括役を務めるわけですが、昌秀は馬場信春に劣らぬ戦上手と評価されていましたし、人望が厚く、家臣や同心衆からも慕われていましたので信玄としても心配なく任せることができたのではないでしょうか。

昌秀が守備した箕輪城ほか、甲斐武田氏の支配した城など

 元亀2年(1571)には、謙信から同盟の申し出がありましたが、昌秀は信玄の側近である跡部勝資と話し合い、この申し出を断っています。もちろん信玄の指示もあったでしょうが、昌秀が軍事面や統治面だけではなく、外交面においても重要な立場にいたことを物語っています。

徳川氏との死闘

高天神城攻めでの昌秀の活躍ぶり

 信玄は将軍・足利義昭の呼びかけに応じて信長を倒すために甲府を出陣します。元亀2年(1571)に徳川氏の領地となっている遠江国へ侵攻。遠江国の最重要拠点である高天神城の小笠原氏を攻めましたが、守りが堅く、長陣を嫌った信玄は通過して三河国に進むことを決めます。

 姉川の戦いで武名を天下に広めていた小笠原氏は、武田氏に損害を与えてさらに武名を轟かせようと考えますが、それを見抜いた信玄は昌秀に小笠原氏の出鼻をくじくように命じました。

 昌秀は兵力をいくつにも分け、小笠原勢が打って出てきたところを矢島久左衛門に突撃させ混乱させ、波状攻撃で押し戻し、さらに鉄砲隊と弓矢隊で完全に小笠原勢を城に釘付けにしました。さらに兵を配備しながら撤退したため、小笠原勢は追撃もできずに見送るだけだったと記されています。

 北条氏との同盟も復活し、万全の状態で進めていた西上作戦でしたが、信玄が病気になり、そのまま病没してしまったことで中止されることになってしまいました。昌秀は後継者である勝頼にそのまま仕え、そして長篠の戦いを迎えることになるのです。

長篠の戦いでの果敢な突撃

 天正3年(1575)、武田勢は織田・徳川連合軍と激突します。武田軍が大敗した長篠の戦いです。

 昌秀は山県昌景や原昌胤と共に左翼を担当し、敵陣に突撃を仕掛けました。昌秀が率いる兵は1500で、三重柵の2つを突破。さらに家康の本陣がある八剱神社めがけて攻撃の手を緩めず、敵の鉄砲隊の攻撃を受けて壊滅していく武田勢にあって唯一、三重柵すべてを突破しています。

『長篠合戦図屏風』にみえる、本多忠勝隊と突撃する武田軍
『長篠合戦図屏風』にみえる、本多忠勝隊と突撃する武田軍

 しかし、突破できた24人は家康の家臣で最強といわれる本多忠勝の部隊に撃退されてしまいます。それでもまだ昌秀の周囲には100人ほどが残っており、昌秀はここが討ち死にの時と覚悟し、突撃を仕掛けて鉄砲隊や弓矢隊の攻撃を受けて傷ついた末、朝比奈泰勝に討ち取られるのです。

 昌秀の最期については宮脇原で退却中に戦死したという説や、家臣の大熊備前が介錯して持ち帰り、箕輪城下の善龍寺に埋葬されたという説があります。

おわりに

 信玄からも周囲からも高い評価を受けていた昌秀。いくら活躍しても「昌秀ならば当然だ」として、信玄は感状を渡すことをしませんでした。感状がなくても自分の思いは伝わると信玄が絶大な信頼を寄せていた証ではないでしょうか。昌秀のように有能な家臣たちの支えがあったからこそ、信玄は最強の戦国大名と畏怖されたのです。


【主な参考文献】
  • 磯貝正義『定本武田信玄』(新人物往来社、1977年)
  • 柴辻俊六『武田信玄合戦録』(角川学芸出版、2006年)
  • 平山優『武田信玄』(吉川弘文館、2006年)
  • 平山優『新編武田二十四将正伝』(武田神社、2009年)

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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