「高坂昌信(春日虎綱)」武田氏の出世頭!"逃げ弾正" の異名をもつ男の生涯とは

高坂昌信(春日虎綱)のイラスト
高坂昌信(春日虎綱)のイラスト
高坂昌信(こうさか まさのぶ。春日虎綱とも。)は元々豪農ではあるものの、身分としては百姓の出でした。しかし、武田信玄の異例ともいえる抜擢により頭角を現し、海津城の城代に抜擢。その後は、武田四天王の一人にまで数えられるほどに著名な存在となりました。このことから、武田氏の出世頭ともいわれ、その生涯は、かの著名な天下人・羽柴秀吉をも彷彿とさせます。

また、彼は単なる一武将としてだけでなく、『甲陽軍鑑』という史料の著者とされており、歴史学的にも重要な人物なのです。ここでは、そんな高坂昌信の生涯をあますところなく紹介していきたいと思います。

高坂昌信の実名は?

さて、まず本論に入る前に、高坂昌信の実名について検討する必要があります。その理由は単純で、現代の史料研究によって、「高坂昌信」という姓名が実名でないことが指摘されているからです。

そもそも彼が生誕したのは春日家であり、その後に国衆である「香坂」家にいったん養子に入り、永禄6(1563)年6月まで「香坂」の姓を称していたことが確認できますが、その後永禄9(1566)年までには復姓していたようです。そのため、高坂という表記は「香坂」の誤表記だとする説が定説となっています。

また、「昌信」という名について、彼自身がそれを自称したことはないとされています。これらの学説に従い、以降では「高坂昌信」でなく、「春日虎綱」という史料的に最も妥当と思われる実名で記していきます。

信玄の大抜擢!「負け組」からの逆転劇

春日虎綱は大永7(1527)年に甲斐国八代郡石和(現在の山梨県笛吹市石和町)の豪農・春日大隅の子として誕生し、幼名は 「春日源五郎」といいました。

義兄との家督争いに敗れる…

虎綱の誕生以前には、春日家には跡継ぎの男子がなかったため、娘に養子を迎えていたといいます。その養子は春日惣右衛門といい、虎綱の義兄にあたる人物です。虎綱が幼少の頃に父が亡くなっていますが、このときに春日家の家督は義兄の惣右衛門が継いだそうです。

そして義兄は、春日家の財産の独占を試み、それに反発した虎綱は天文11(1542)年に武田家に訴えますが、虎綱は敗訴して身寄りが無くなってしまいました。

この判決は、惣右衛門が春日家の財産の一切を譲り受ける、という父の遺言を持っていたために下されたものとされています。しかし、この争いに敗れたことが、結果的に虎綱の出世につながるのですから、戦国の世はわからないものです。

一転して信玄の近習衆に!

先の裁判に敗訴して以降、虎綱は義兄・惣右衛門を斬ろうとまで考えましたが、それをなんとか思いとどまるほど憔悴していました。しかし、裁判の場には信玄も出席しており、虎綱の立ち居振る舞いに注目していました。

やがて虎綱が16歳になり、天文16(1547)年に信玄に召し出されます。虎綱はせいぜい御小人(おこびと)など、地位の低い役回りになるだろうと考えていましたが、召し出されて30日目にして、将来の側近候補ともいえる近習衆にされると聞き、非常に驚いたといいます。

確かに戦国の世は、それ以外の時代に比べて身分の上下が激しいのは事実です。しかしながら、これほどの大抜擢は武田氏のなかでも極めて異例のものであるといえます。それでも、その後の活躍を考えれば、信玄の眼は確かだったといえるかもしれません。

虎綱を待ち受けていた「差別」という苦難

その後、百姓出身の虎綱を待ち受けていたのは、周囲の人々からの厳しい差別でした。信玄に召し出された16歳のときから24、25歳、すなわち天文19-20(1550-51)年頃まで続いたといいます。
その内容は、「虎綱を取り立てたのは信玄の見込み違いだ」と悪口を言われ、子供らには「保科弾正、鑓弾正、高坂弾正、にげ弾正」と声をそろえて馬鹿にされる始末でした。

この受難に対し、虎綱は一切反発せずに黙って耐え忍び、信玄の面子をつぶさないように心がけました。やがて信玄から咎められなかった家臣は、家中において虎綱だけになったといいます。

いつの世でも、突然の出世が周囲からのひんしゅくを買うのは変わらないものだと感じられます。しかし、むきになってそれに反応しなかった虎綱は優れた精神力の持ち主であったといえるでしょう。

異例の大出世はまだ続く!

ここからは、虎綱の武将としての姿をみていきます。ただ、虎綱に大きな戦果というものはあまりありません。それもそのはず、虎綱はほとんど戦に参加していないからです。

しかし、戦で武功を示すだけが武将の仕事ではありません。これは団体スポーツがエース1人の力では勝てないのと同じで、武将と一言でいっても、家臣団の中には様々な役割をもつ武将がいたのです。

虎綱が任されていた役割・城郭

虎綱は、「御使番12人衆」の1人に抜擢され、天文21(1552)年には150騎の侍大将となって "春日弾正忠" を名乗ったといわれています。

さらに翌天文22(1553)年には信玄による村上義清の攻略時に信濃佐久郡小諸城(長野県小諸市)の城代に。こうして名実ともに信玄の側近として、武田家をバックアップするような立場で活躍をしていました。

ここは怒涛の勢いで立身出世を果たした羽柴秀吉が、軍師のような立場で織田軍を動かしていた姿とは少し異なりますね。

最大のライバル・上杉家の抑えに!

やがて上杉謙信との抗争がはじまると、弘治2(1556)年には謙信との争いにおける最前線・海津城の城代に任じられ、異例の大抜擢となりました。

さらに永禄4(1561)年には謙信と大激闘となった第4次川中島の戦いに参戦し、このとき虎綱は馬場信春とともに別働隊を指揮しています。ただし、虎綱は謙信という最大のライバルの抑えを任されているという重責からか、実は川中島の戦いを除く軍事にはほとんど従軍していません。
このように、虎綱の生涯があまり知られていないのは、そもそも武田家の関わった著名な戦に参加していないためでもあるでしょう。 一方で、『甲陽軍鑑』の記述を信じれば、武田家臣団の中で最大規模の軍事力を有していたと伝わっています。

もちろん、『甲陽軍鑑』の著者は虎綱自身であるとされているため、その軍事力が多少水増しされている可能性はあります。しかし、謙信の抑えという重責を担っていたのは他の史料でも確認できるため、最大とはいかないまでもかなりの軍事力と、信玄からの信頼を勝ち得ていたのは事実でしょう。

ただし、元亀3(1572)年から行なわれた信玄の軍事遠征では、例外として三方ヶ原の戦いに参戦しています。これは上杉謙信が降雪の影響で身動きできないと判断しての出陣命令とみられており、戦の技術そのものが低く評価されていたわけではないということがわかります。

存亡の危機に陥る武田家で、虎綱の運命も暗転する…

しかし、虎綱の出世劇もここまででした。ここからは、暗転していく武田氏の運命をなんとか好転させるべく、周辺諸国との関係改善に腐心することになります。

ただし、実際にいくつかの周辺諸国との関係改善には成功し、『甲陽軍鑑』もこの時期に記されていることを考えれば、この時期の虎綱の行動を見逃すことはできません。

信玄の死・長篠の大敗で揺れる武田家

天下をその手に収めんと、破竹の勢いで進軍を繰り返していた信玄は天正元(1573)年に病を患い、急死してしまいます。

後は息子の勝頼が家督を相続しました。しかし、国内の動揺は隠しきれず、偉大なカリスマであった信玄を失ったことは、戦国のパワーバランスに大きな影響を与えることになりました。

虎綱自身は、信玄の死後に勝頼の代になっても引き続き海津城代として川中島四郡を支配し、上杉氏に対する抑えを任されました。親子二代にわたって重要な役割を任されていることから、虎綱への信頼の厚さをかんじることができます。

その後は、引き続き領土拡大の方針をとる勝頼でしたが、織田・徳川連合軍と争った長篠の戦いで、大敗してしまいました。この際、虎綱は戦には参加しませんでしたが、撤退してきた勝頼に新品の旗指物を用意し、国内で敗戦を悟られないようにしたと伝えられています。

苦境の中で生まれた『甲陽軍鑑』

しかし、そのような虎綱の努力もむなしく、武田氏は滅亡に向かっていくことになります。

虎綱も、おそらくそのことを察知していたのでしょう。このような苦境において、武田家の事蹟や軍学などを甥に口述して書き継がせたものが『甲陽軍鑑』です。

このことからは、せめて書物だけでも後世に武田家の名を残したいという、虎綱の願いが感じ取れるようです。実際に、一時期は「偽書」として否定的に論じられることも多かった『甲陽軍鑑』ですが、現代ではその評価が見直され、史料的な価値をもっているとされています。

虎綱の願いは、現代でも生きているということでしょう。

武田家に尽くした忠義の将・虎綱の最期

その後、虎綱は北条氏政との同盟強化や上杉謙信との関係改善を訴えました。

天正6(1578)年には謙信が病没したのをきっかけに上杉家のお家騒動・御館の乱が勃発すると、勝頼は同盟関係にあった北条氏政から上杉景虎の支援を要請されて越後へ出陣します。
そこで上杉景勝から和睦を持ちかけられると、虎綱は勝頼の命を受けて武田信豊とともに同盟交渉にあたりましたが、その最中に海津城で死去しました。

その後、上杉氏との同盟自体は成立しますが、そのことで北条氏の反感を買うことになります。その北条氏から攻撃を受け、天正10(1582)年に武田氏は滅亡します。

武田家に忠義を尽くし続けた虎綱にとって、さぞや無念であったことでしょう。ただ、虎綱にとって、生前に武田氏の滅亡を知らずに済んだことは、不幸中の幸いだったといえるかもしれません。


【主な参考文献】
  • 黒田日出男「『甲陽軍鑑』をめぐる研究史:『甲陽軍鑑』の史料論(1)」『立正大学文学部論叢』124号、立正大学機関リポジトリ、2006年、5-74頁
  • https://ci.nii.ac.jp/els/contents110006557007.pdf?id=ART0008538831、閲覧日2019年1月25日
  • 丸島和洋『戦国大名武田氏の家臣団:信玄・勝頼を支えた家臣たち』教育評論社、2016年
  • 平山優『新編武田二十四将正伝』武田神社、2009年
  • 柴辻俊六編『新編武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年

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  この記事を書いた人
とーじん さん
上智大学で歴史を学ぶ現役学生ライター。 ライティング活動の傍ら、歴史エンタメ系ブログ「とーじん日記」 および古典文学専門サイト「古典のいぶき」を運営している。 専門は日本近現代史だが、歴史学全般に幅広く関心をもつ。 卒業後は専業のフリーライターとして活動予定であり、 歴史以外にも映画やアニメなど ...

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