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【家紋】四国の覇者にして秦氏の末裔!?「長宗我部氏」の家紋について

帯刀コロク
 2019/11/13

長宗我部氏の家紋「丸に七つ酢漿草」
長宗我部氏の家紋「丸に七つ酢漿草」

「土佐」といえば幕末史において、維新回天の要として活動した多くの志士を輩出した国というイメージがあるのではないでしょうか。

歴史上の人物で常に人気最上位グループにランクインしているといわれる「坂本龍馬」をはじめ、鮮烈な生きざまでいまなお私たちに強い感銘を与える人々の宝庫ともいえるでしょう。

近世を通して土佐国を統治したのは、よく知られる「山内家」ですが、それ以前に四国全土をほぼ統一したとされる戦国大名がいました。

その名は「長宗我部元親」。「土佐七雄」のひとつに数えられる国人、長宗我部氏の21代目当主で、一族の最大版図を築き上げた武将です。

長宗我部氏は土佐国土着の勢力であることから、四国本来の統治者としていまなお現地では高い人気を誇っているという声もあります。四国という広大な島を一時はほぼ手中に収めながら、ついぞ王座につくことはなかった長宗我部氏。 しかしそこには、戦いの日々に疲れ果てたかのような、一人の男の悲しい姿があったのです。

今回は、そんな長宗我部氏の家紋について見てみることにしましょう。

「長宗我部氏」とは

長宗我部は一般に「ちょうそかべ」と発音され、大変珍しい氏の名です。土佐国(現在の高知県)の長岡郡を拠点とし、「宗我部」の地名が氏の由来とされています。

「長岡郡の宗我部」という意味から長宗我部を名乗るようになったと考えられ、近隣の「香美郡」にも存在した宗我部氏は香の一字を冠して「香宗我部」を称しています。長宗我部氏はその祖先を渡来系の「秦氏」としており、大陸に一族の起源をもつものと伝承されています。

古代にさかのぼる古い氏族ですが、最大の勢力をもったのは先述のとおり、21代目当主・元親の時代であり、完全ではないとされる説もあるものの四国の大部分を一時掌握したといいます。しかし天正13(1585)年、羽柴秀吉による四国攻めで敗北し、土佐一国に減封。以降は秀吉傘下の武将として数々の戦に従軍しています。

長宗我部元親の系図
長宗我部元親の系図

慶長5(1600)年の関ケ原の戦いでは元親の跡を継いだ「長宗我部盛」が西軍につきましたが、実際に参戦する前に西軍は敗北しました。

戦後の処罰により改易となり、長宗我部氏直系は断絶します。しかし、傍系の家筋は苗字を変えつつ脈々と続き、現代では「ちょうそがべ」と発音する長宗我部氏として受け継がれているそうです。

家紋は可憐な野の花「カタバミ」?

戦国大名らしい武勇と謀略を駆使した長宗我部氏ですが、その家紋は意外にもやさしげでかわいらしいものをモチーフとしています。

それは「カタバミ」という植物で、ちょうどクローバーを小さくしたかのような葉が特徴的な野草です。

カタバミ科カタバミ属の多年草「カタバミ」
カタバミ科カタバミ属の多年草「カタバミ」

日が落ちると葉を閉じ、半分になったかのように見えることから「片喰」の字を当て、なおかつ食べると酸味を感じることから「酢漿草」とも書くことがあります。

カタバミの紋は「十大家紋」のひとつに数えられるほどポピュラーなもので、その旺盛な繁殖力と強さにあやかって家運の隆盛を願ったものとされています。

実に多くのバリエーションを持つカタバミ紋ですが、長宗我部氏のものは丸の内に中心の一組を取り囲むようにして六組の葉の一部を配した、「丸に七つ酢漿草」と呼ばれるタイプのものです。

長宗我部の独占紋「丸に七つ酢漿草」
家紋「丸に七つ酢漿草」

ほかに類似する紋がないことから長曾我部氏の「独占紋」と考えられ、次代の盛親は通常のカタバミ紋を使用していることなどから両者を併用していたとの指摘もあります。

またこの他に、『土佐諸家系図』によると、「丸に酢漿草」の紋は、独占紋である「丸に七つ酢漿草」の略式紋としています。

通常のカタバミ紋「酢漿草」
通常のカタバミ紋「酢漿草」
家紋「丸に酢漿草」
略式紋として使用されたという「丸に酢漿草」

まとめ:嫡男・信親の死、希望をなくしたかつての英雄

長宗我部氏の最盛期を築いた元親ですが、史書では「名将」とも「悪人」ともいわれ、歴史的な評価が一定しない人物でもあるようですね。

土豪勢力が割拠していた当時の四国を統一直前まで掌握し、豊臣政権下に臣従した後も特にその水軍力で重要な戦闘に貢献するなど、非常に有能な武将であったことがうかがわれます。

長宗我部元親の初陣の像(高知県高知市長浜)
長宗我部元親の初陣の像(高知県高知市長浜)

しかし、嫡男である「長宗我部信親」が九州の対島津勢戦で討ち死にしたことなどから、元親は性格が一変したといわれています。

それまでの英雄然とした度量やエネルギーを失い、自らも息子の後を追おうとして部下に諫められたり、自身に反対する家臣に苛烈な粛清を行ったりと、一族の主としての常軌を逸した行動が目立つようになります。

秀吉から領地の加増を打診された際もこれを固辞し、晩年の元親はもはやかつての野心的な戦国武将の姿ではなくなっていたようです。

しかしいかに戦国の世のならいとはいえ、現代的な感覚からすると息子や家臣たちを失って悲嘆に暮れた元親の心情は、人間として正常だったともいえるでしょう。

幼いころはおとなしく口数も少なかったため、「姫若子(ひめわこ)」というからかい半分のあだ名がつけられていたという元親。

長じてのちは領民や一族に対しては篤実で思いやりのある当主だったという伝承もあり、本来は争いを好まない性格の人物だったのかもしれません。そう想像すると可憐なカタバミの紋も、長宗我部元親には何やら似つかわしく思えてしまいますね。


【参考文献】
  • 『見聞諸家紋』 室町時代(新日本古典籍データベースより)
  • 「長宗我部祖先の異説」『国史叢書 土佐物語二 四国軍記 』 国史研究会 編 1915 国史研究会
  • 「日本の家紋」『家政研究 15』 奥平志づ江 1983 文教大学女子短期大学部家政科
  • 「「見聞諸家紋」群の系譜」『弘前大学國史研究 99』 秋田四郎 1995 弘前大学國史研究会
  • 『日本史諸家系図人名辞典』 監修:小和田哲男 2003 講談社
  • 『戦国武将100家紋・旗・馬印FILE』 大野信長 2009 学研
  • 『歴史人 別冊 完全保存版 戦国武将の家紋の真実』 2014 KKベストセラーズ

  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術に ...


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