「酒井忠次」竹千代人質時代から仕えた徳川家臣団の筆頭的存在。得意ワザは宴会芸!?

戦ヒス編集部
 2023/01/18
酒井忠次(さかい ただつぐ)は徳川家の重臣の筆頭として知られており、信長や秀吉からも評価されるほどの武将であったと伝わります。また、彼の子孫も江戸時代に出羽庄内藩17万石という大身となり、長く徳川家を支えました。その礎を築いた忠次はどのような武将だったのでしょうか。彼の足跡と功績から、その生涯を見ていきましょう。

家康と先祖は同じだった?

一説に酒井氏は先祖が松平氏(徳川氏)と同じであり、松平氏の始祖・松平親氏の兄弟を発祥とすると伝わっています。

つまり酒井氏は松平氏の庶流で、三河松平譜代の筆頭という由緒ある家柄ということです。さらに忠次自身も主家の松平氏と濃い血縁関係で結ばれていました。詳細はあとで触れますが、家康の「義理の叔父」という立場でもあったのです。

酒井氏と松平氏との関係略系図
酒井氏と松平氏との関係略系図

忠次は大永7年(1527)、松平氏の譜代家臣・酒井忠親の次男として、三河国井田城で誕生。幼名は小平次。ちょうど家康が生まれた天文11年(1542)頃に元服し、以後は家康の父・松平広忠に仕え、酒井小五郎(後に左衛門尉)と称しました。

竹千代(のちの徳川家康)が今川義元への人質として駿府に赴く際には、忠次も随行する家臣に加わっています。当時の松平氏は今川氏に服属していた時期であり、忠次は尾張の織田信秀との戦いに駆り出されて、家康の配下として功をあげていきます。

弘治年間の初期頃から忠次は福谷城に居住し、この城主時代に抜群の武功を立てています。弘治2年(1556)、尾張国の柴田勝家が二千騎で福谷城を攻めて来ましたが、忠次は籠城ではなく、城外に出て戦い、激戦の末に勝家を敗走させたとか…。徳川家の記録には「敵もよく戦ったが、三河衆は死力を尽くして強敵を撃退し、大きな成果を挙げた」と残されているようです。

柴田勝家といえば、のちに織田信長軍団の中でも屈指の名将となる人物ですから、忠次はかなりの戦上手であったのかもしれません。

今川家からの独立

家康にとって転機となった永禄3年(1560)の桶狭間の戦いでは先鋒隊として佐久間大学盛重の守備する丸根砦を攻め落としています。このとき家康19歳、忠次34歳。

戦後、家康・忠次らは敗戦による今川氏の混乱に乗じて松平氏の本拠・岡崎城に入城。忠次は松平家中で家康と家臣らとの間の文書における取次の奏者を務めたようです。そして、翌年に今川からの独立を果たします。そのきっかけとなったのが織田信長との和睦交渉です。

このとき同族の酒井忠尚は、過去三代にわたる織田家と松平家の対立の歴史から和睦に反対しますが、忠次は、今川氏真と信長とを猫と虎に例え、織田と手を組むように積極的に進言したといいます。

こうした経緯もあって、家康は信長と手を組んで、今川家と決別したのです。

家康と姻戚関係に

なお、桶狭間の後、時期は定かではありませんが、忠次は家康の叔母・碓氷殿を妻に迎え、家康と姻戚関係となっています。彼女は松平清康と於富の方の娘であり、はじめ松平康高に嫁しましたが、桶狭間合戦で夫が討死したのちに忠次に再嫁。こうして忠次は一層、家康との結びつきを強めました。

東三河の旗頭

三河国で勢力を拡大する家康とそれを家老として支える忠次。しかしここで大きな危機が徳川家を襲います。家康が独立を果たしてからの最初の苦難となった永禄6年(1563)の三河一向一揆です。

徳川家家中には、一向宗の信徒が数多く存在していました。本多正信をはじめ、家臣の多数が家康に反旗を翻す結果となります。酒井氏からも酒井忠尚(忠次の叔父とも兄ともいわれる)などが一向一揆に与しましたが、忠次は家康に従っています。なお、酒井忠尚は一揆が鎮圧された後は逃亡して駿河に逃れたといわれています。

一向一揆が落ち着くと、徳川家は再び勢力拡大に動きます。永禄7年(1564)、忠次は三河吉田城攻めで先鋒を務め、ここで城主の小原鎮実を撤退に追い込み、無血での占領に成功しています。忠次が力攻めだけでなく、戦において交渉術を重視していた事がうかがえますね。

この無血開城の功績によって、忠次は吉田城の城主に任命され、さらには家康から東三河の旗頭としての役割を与えられます。これは三河東部の松平家と国衆を支配・コントロールする立場でした。いわば家中における軍権をほぼ掌握したことになります。

※参考:三備の軍制(永禄末年ごろ)
※参考:三備の軍制(永禄末年ごろ)

外交の窓口を担う

家康が三河国を統一、さらに東に目を向けるようになってから、忠次は外交の窓口を担っています。

永禄11年(1568)には、甲斐の武田信玄が今川氏真の駿河国へ侵攻を開始。当初、徳川も今川領の遠江国への侵攻をもくろみ、信玄と同盟を結んで今川領の割譲を協定していました。このとき忠次は武田方との交渉役として、武田の使者である穴山梅雪や山県昌景と会い、家康と信玄の誓詞を取り交わしたといいます。

また、永禄12年(1569)の掛川城攻めの最中で、今川氏真と和議の話が進んだ際には、北条氏康から忠次宛に「和議の成就を願っている」旨の書状を受け取っています。

このように忠次は合戦だけでなく、取次としても活躍しました。領土交渉は重要な取り決めですが、忠次はそれを取りまとめる能力も評価されていた、と見ることも出来るのではないでしょうか。

もちろん忠次が戦場で活躍しなくなったわけではありません。元亀元年(1570)、織田信長・徳川家康と浅井・朝倉との間で起きた姉川の戦いでは、忠次は姉川沿いに陣地を築き、小笠原信興隊と共に朝倉勢に攻撃を仕掛け、先鋒として開戦の火蓋を切っています。

武田氏との主要な戦いに参戦

以後も主な合戦(vs 武田氏)には大体参戦しています。

  • 元亀2(1571)年:居城・吉田城が山県昌景・武田勝頼らの攻撃を受けるが、これを撃退。
  • 元亀3(1572)年:三方ヶ原の戦いで右翼を担ったが、大敗によって退却を余儀なくされる。
  • 天正2(1574)年:第一次高天神城の戦いに参陣。
  • 天正3(1575)年:長篠の戦いに参陣。

三方ヶ原の敗戦と空城の計

忠次の軍事的才能が光ったのは、敗戦時においても同様でした。元亀3年(1572)、徳川軍と信玄率いる武田軍との間で三方ヶ原の戦いが起こります。結果は徳川軍の惨敗で、家康は命からがら浜松城に逃れています。しかし忠次は右翼を担い、敵軍の小山田信茂隊を打ち破りました。

敗戦直後ですから、浜松城は落城の危機に瀕しています。ここで交渉と軍事に長けた、忠次の真価が発揮されました。忠次は城の櫓上から太鼓を打ち鳴らします。これは味方を鼓舞し、伏兵の存在を武田軍に疑わせる意図があったようです。これによって武田軍は引き返した、と『三河後風土記』は伝えています。

翌年、武田信玄は西上の途中で陣没しますが、徳川家が危機から逃れたわけではありません。依然として、当主となった武田勝頼からの侵攻が続いていました。

長篠の戦いで信長に認められる

しかし徳川家が武田家との雌雄を決する時が訪れます。決定打となったのは、忠次が挙げた大きな戦果でした。

天正3年(1575)、忠次は長篠の戦いで別働隊を率いて武田勝頼の背後にある鳶巣山砦を強襲。これを陥落させて長篠城を救出しています。さらにここで武田勝頼の叔父・河窪信実を討ち取って、有海村の武田支部隊を破りました。

『常山紀談』では、鳶ヶ巣山砦の奇襲作戦は、忠次が信長本陣での軍議で発案したものだといいます。信長は忠次の三千の兵に鉄砲隊五百を貸し与えました。勝利の後、忠次は信長から「背に目を持つごとし」と称賛されたようです。

忠次は天下人である信長からもその戦略眼を評価されたことになります。織田家の家臣団の中でも、忠次ほど信長に激賞されたのは多くありません。忠次の武将としての能力は、同時代の中でも極めて上位だったと言えるのではないでしょうか。

徳川信康の切腹に関与?

信康の内通疑惑と死

忠次は家康の厚い信任を受けていました。そんな時、生涯忘れられない事件が彼を襲います。

天正7年(1579)に家康の嫡男・信康が武田勝頼と内通しているという疑惑が出てしまいました。いわば背信行為ですから、事実と認定されれば処断されてしまいます。

徳川家は、織田信長からの詰問に酒井忠次と大久保忠世を弁解の使者に立てました。忠次たちは安土城に赴き、信康について申し開きをしたようです。しかし信康を十分に弁護できず、信長は切腹を命じたといいます。まもなく信康は最期を迎えています。

『三河物語』に書かれてある、事の顛末をざっくりまとめてみると以下のとおりです。

  • 信康と正室五徳(信長息女)の不和が原因で、徳姫が酒井忠次を通して12ヵ条に及ぶ信康の悪行を信長に報告。
  • 信長は書状を読み終えてから忠次に詰問したが、忠次は信康をかばうこともなく10ヵ条まですべて事実だと答えた。
  • すると信長は、「家老の忠次がここまで承知しているなら、これ以上の詮議は無用。もはや疑う余地なし」として、家康に命じて信康に腹を切らせるように言ったが、忠次は弁解もせずに信長の前を退去。
  • 忠次から信長の命を聞いた家康は、信長に背くこともできず、やむなく妻子の処断を決意した。

忠次のミス、と捉える向きもありますが、この事件は諸説あって定かではありません。一説に、織田信長が聡明な跡取りである信康を警戒したため、これを排除するのが目的だったともいいます。近年では、信康の切腹は家康の意思であるという説も出されています。

信長死後の動乱

天正9年(1581)には、徳川軍は武田の手に渡っていた遠江・高天神城を奪還することに成功しますが、このとき忠次が討ち取った敵将の首は42を数えたといいます。ちなみに、石川数正が40、本多忠勝が22、榊原康政が41、鳥居元忠が19だったようです。

天正壬午の乱と甲信併合

翌年の本能寺の変の際、家康は忠次らわずか数十名のお供のみを連れて堺を遊覧中でした。このとき、家康一行が三河に帰還するまでの危険な道のり、いわゆる「神君伊賀越え」において忠次も同行しています。

この後まもなく、信長の死による混乱で、武田家の遺領である甲斐・信濃から織田家臣団が撤退。領主不在の空白地帯となったことで徳川、北条、上杉などの有力大名の間で領土争いが起こります(天正壬午の乱)。

天正壬午の乱のイメージ図
1582年 天正壬午の乱では周辺大名による旧武田領の争奪戦となった。

武田旧領の確保に向けて徳川軍は忠次が先発して信濃侵攻を行ない、同国の国衆らを次々と懐柔していきました。しかし、信濃国が自分に与えられたものと解釈して国衆らに高圧的な態度で接したようで、これが結果的には諏方頼忠や小笠原貞慶らの離反を招いてしまいます。彼らは北条氏直に従属してしまったといいます。

ただ、この乱は最終的に徳川氏と北条氏の和睦となり、徳川は甲斐・信濃を得て5カ国を領することになりました。このときの和睦条件で、家康の娘が北条氏直に嫁ぐことになりましたが、翌天正11(1583)に家康の娘が北条氏・小田原城へ赴くときに、忠次がこれにお供して北条氏と折衝を重ねたと伝わります。

重臣の海老すくい

天正12年(1584)、家康が秀吉と戦った唯一の戦いだった「小牧・長久手の戦い」では、忠次はその端緒となった羽黒の戦いで、先鋒として森長可・池田恒興らを襲撃し、敗走させています。

しかし翌年には、徳川家の宿老であった石川数正が突如として出奔し、豊臣家に寝返り。さらに天正14年(1586)に秀吉の懐柔を受けて、家康はついに秀吉の軍門に降ります。このとき、忠次は徳川家中で最高位の従四位下・左衛門督に任命され、秀吉から近江国内に1000石と京都に宅地を与えられたといいます。

なお、立場が上になっても全く偉ぶった様子がみられない、忠次の通快なエピソードがあります。

この年、家康が北条氏政と同盟を結ぶために伊豆三島に赴いた際のことです。忠次は重臣でありながら、酒宴の席で「海老すくい」という踊りを見せて諸将を盛り上げたとか。

隠居

やがて忠次は眼病を患い、目が見えなくなってきていたようです。天正16年(1588)には長男の家次に家督を譲って隠居。剃髪の上、入道して「一智」と号して京都の桜井に隠棲しています。

天正18年(1590)、小田原征伐によって秀吉の天下が訪れますが、その際に徳川家は旧北条領である関東へ移封となっています。徳川三傑と称された井伊直政・本多忠勝・榊原康政の知行は、それぞれ12万石・10万石・10万石だったのに対し、酒井家は嫡男の家次が下総国臼井にわずか3万7千石だったので、ずいぶんと大きく差をつけられたようです。

一説に、忠次は長男・家次の知行の少なさに家康に加増嘆願しましたが、これに対して家康が「おまえも子がかわいいか?」と返答したといいます。これはかつて家康嫡男の信康が死罪となったとき、忠次が弁護しなかったことを暗になじられたということです。

慶長元年(1596)、忠次は桜井の屋敷で生涯を閉じました。享年は70歳と伝わります。墓所は京都の知恩院にあります。


【主な参考文献】
  • 『寛政重修諸家譜』65
  • 中村孝也 『家康の臣僚』 碩文社 1997年
  • 小和田哲男『詳細図説 家康記』(新人物往来社、2010年)
  • 本多隆成 『定本 徳川家康』(吉川弘文館、2010年)
  • 北島正元編『徳川家康のすべて』(新人物往来社、1983年)
  • 北島正元 『江戸幕府の権力構造』 岩波書店 1964年
  • 岡崎公園HP 「四天王筆頭、酒井忠次!」

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  この記事を書いた人
戦ヒス編集部 さん
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