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「酒井忠次」徳川家臣団の筆頭的存在。信長や秀吉も高く評価した!?

コロコロ
 2020/10/20

酒井忠次の肖像画

酒井忠次は、徳川家の重臣の筆頭として知られています。 彼の子孫も江戸時代に出羽庄内藩17万石という大身となり、長く徳川家を支えました。

その礎を築いた忠次は、どのような武将だったのでしょうか。彼自身は信長や秀吉からも評価されるほどの武将であったと伝わります。

彼の足跡と功績から、その生涯を見ていきましょう。

三河松平家の譜代家臣

酒井氏は、松平氏の始祖・親氏の兄弟を発祥とすると伝わります。同氏は松平家中においては、最古参の宿老という家柄です。

忠次自身も主家の松平氏とは濃い血縁関係で結ばれていました。忠次は家康にとって、義理の叔父という関係になります。

大永7(1527)年、忠次は三河国井田城で酒井忠親の次男として生まれました。父は松平氏の譜代家臣です。

酒井忠次の関連略系図
酒井忠次の関連略系図

忠次は元服後、松平広忠(家康の父)に出仕し、酒井小五郎(後に左衛門尉)と称しました。

竹千代(のちの徳川家康)が今川義元への人質として駿府に赴く際には、忠次も随行する家臣に加わっています。これから後は、家康の配下として仕え、弘治年間の初期頃から福谷城に居住しました。

福谷城の城主時代に、忠次は抜群の武功を立てています。同2(1556)年、尾張国の柴田勝家が二千騎で福谷城を攻めて来ましたが、忠次は籠城ではなく、城外に出て戦い、激戦の末に勝家を敗走させました。

柴田勝家といえば、後に織田信長軍団の中でも屈指の名将となる人物です。この事から、忠次がかなりの戦上手であったことは間違いありません。

今川家からの独立と東三河の旗頭

永禄3(1560)年、桶狭間の戦いで今川義元が敗死しました。これを機会に家康は、駿河今川家から独立的動きを見せます。

忠次も家老として支え、家康は三河国で勢力を拡大していきます。しかしここで大きな危機が徳川家を襲いました。同6(1563)年の三河一向一揆です。

徳川家家中には、一向宗の信徒が数多く存在していました。本多正信をはじめ、家臣の多数が家康に反旗を翻す結果となります。酒井氏からも酒井忠尚などが一向一揆に与しましたが、忠次は家康に従っていました。

一向一揆が落ち着くと、徳川家は再び勢力拡大に動きます。永禄7(1564)年、忠次は三河吉田城攻めで先鋒を務めています。

ここで城主の小原鎮実を撤退に追い込み、無血での占領に成功しています。忠次が力攻めだけでなく、戦において交渉術を重視していた事が窺えます。

この戦功によって、忠次は吉田城の城主に任命されました。以降、忠次は家康から東三河の旗頭としての役割を与えられます。これは三河東部の松平家と国衆を統御する立場でした。

いわば家中における軍権をほぼ掌握したことになります。

三備の軍制(永禄末年ごろ)
三備の軍制(永禄末年ごろ)

西上する武田信玄を阻止

領土割譲の交渉役

徳川家が三河国を統一すると、さらに東に目を向けるようになります。

永禄12(1569)年には、甲斐の武田信玄が今川氏真の駿河国へ侵攻を開始。当初、徳川家は武田家と同盟して今川家の領国の割譲を協定していました。

ここで忠次は武田方との交渉役を担当しています。領土交渉は重要な取り決めです。忠次は立場だけでなく、それを取りまとめる能力も評価されていたと見ることが出来ます。

もちろん忠次が戦場で活躍しなくなったわけではありません。元亀元(1570)年、織田信長・徳川家康と浅井・朝倉との間で、姉川の戦いが起こります。忠次は姉川沿いに陣地を築き、小笠原信興隊と共に朝倉勢に攻撃を仕掛け、開戦の火蓋を切りました。

先陣を切るのは、主君からより信頼を受けた武将です。家康は、後に関ヶ原で息子の松平忠吉と家臣の井伊直政に先陣を切らせています。

三方ヶ原の敗戦と空城の計

忠次の軍事的才能が光ったのは、敗戦時においても同様でした。元亀3(1573)年、徳川軍と信玄率いる武田軍との間で三方ヶ原の戦いが起こります。

結果は徳川軍の惨敗で、家康は命辛々浜松城に逃れています。しかし忠次は右翼を担い、敵軍の小山田信茂隊を打ち破りました。 敗戦直後ですから、浜松城は落城の危機に瀕しています。

ここで交渉と軍事に長けた、忠次の真価が発揮されました。忠次は城の櫓上から太鼓を打ち鳴らします。これは味方を鼓舞し、伏兵の存在を武田軍に疑わせる意図があったようです。これによって武田軍は引き返した、と『三河後風土記』は伝えています。

同年、武田信玄は西上の途中で陣没します。しかし徳川家が危機から逃れたわけではありません。依然として、当主となった武田勝頼からの侵攻が続いていました。

長篠の戦いと信康の切腹

鳶巣山砦の戦いで信長に認められる

しかし徳川家が武田家との雌雄を決する時が訪れます。決定打となったのは、忠次が挙げた大きな戦果でした。

天正3(1575)年、忠次は長篠の戦いで別働隊を率いて武田勝頼の背後にある鳶巣山砦からの強襲を行ない、これを陥落させて長篠城を救出しています。さらにここで勝頼の叔父河窪信実を討ち取り、有海村の武田支部隊を破りました。

『常山紀談』では、鳶ヶ巣山砦の奇襲作戦は、忠次が信長本陣での軍議で発案したものだといいます。信長は忠次の三千の兵に鉄砲隊五百を貸し与えました。勝利後、忠次は信長から「背に目を持つごとし」と称賛されたようです。

忠次は天下人である信長からもその戦略眼を評価されたことになります。織田家の家臣団の中でも、忠次ほど信長に激賞されたのは多くありません。忠次の武将としての能力は、同時代の中でも極めて上位だったと言えるでしょう。

信康の内通疑惑と死

忠次は家康の厚い信任を受けていました。そんな時、生涯忘れられない事件が彼を襲います。

天正7(1579)年、家康の嫡男・信康が武田勝頼と内通しているという疑惑が出てしまいました。いわば背信行為ですから、事実と認定されれば処断されてしまいます。

徳川家は、織田信長からの詰問に忠次と大久保忠世を弁解の使者に立てました。忠次たちは安土城に赴き、信康について申し開きをしたようです。しかし信康を十分に弁護できず、信長は切腹を命じたといいます。間も無く信康は最期を迎えています。

これは忠次のミス、と捉える向きもありますが、事実は少し違うようです。織田信長が聡明な跡取りである信康を警戒したため、これを排除するのが目的だったともいいます。

近年では、信康の切腹は家康の意思であるという説も出されています。

本能寺の変、そして隠居

天正壬午の乱と甲信併合

天正10(1582)年6月2日、本能寺の変で信長は横死を遂げました。当然、同盟相手である徳川家にも余波が及びます。

武田家の遺領である甲斐・信濃から織田家臣団が撤退し、同地が空白地帯となりました。徳川、北条、上杉などの有力大名の間で領土を巡る争いが起こります(天正壬午の乱)。

天正壬午の乱のイメージ図
天正壬午の乱では周辺大名による旧武田領の争奪戦となった。

ここで忠次は信濃へ赴いて信濃の国衆の懐柔を図っています。本能寺の変から一月と経っていない時期でした。既に忠次が次の段階を見据えていたことがわかります。

その後、忠次は三河国から伊那を経て信濃国に侵攻しました。諏訪頼忠や小笠原貞慶らの離反があったものの、最終的に徳川家は甲斐と信濃の併呑に成功しています。

重臣の海老すくい

天正12(1584)年、徳川家は織田信雄と組み、羽柴秀吉との間で合戦に及びました。小牧・長久手の戦いです。

忠次は羽黒の戦いにおいて森長可を敗走させるなど、勝利に貢献しています。忠次はこの時までも、家康の主だった戦いには全て参加しており、一定以上の戦果を挙げていることが確認できます。

しかし翌13(1585)年には、徳川家を激震させる大事件が起きます。

忠次と並んで徳川家の宿老であった石川数正が出奔して豊臣家に付きました。これを機会に、忠次は家康の第一の重臣の位置となります。

天正14(1586)年には、家中で最高位である従四位下・左衛門督に任官されています。

しかし忠次に偉ぶった様子は見られませんでした。この年、家康が北条氏政と同盟を結ぶために伊豆三島に赴いた際のことです。忠次は重臣でありながら、酒宴の席でで海老すくいという踊りを見せて諸将を盛り上げています。

武将としての引き際

しかし忠次の武将人生も、終わりが近づいていました。忠次は眼病を患い、目が見えなくなってきていたと伝わります。

天正16(1588)年、忠次は長男の家次に家督を譲って隠居しました。そこで剃髪の上、入道して「一智」と号して京都の桜井に隠棲しています。

秀吉は、忠次の在京のために一千石を与えたといいます。隠居したとはいえ、忠次は時の天下人にも評価されていました。

天正18(1590)年、小田原征伐により、徳川家が関東一円に領土を与えられます。ここでの戦功により、忠次の嫡男家次が臼井3万石を与えられています。遂に酒井氏は大名に列しました。

慶長元(1596)年、忠次は桜井の屋敷で生涯を閉じました。享年は70歳と伝わります。墓所は京都の知恩院にあります。


【主な参考文献】

  この記事を書いた人
コロコロ さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 ...


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